カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
4月2日(木) 旧暦3月10日
明け方は風の音で目が覚めた。 いやな夢をみていたらしく、汗をぐっしょりかいていた。 久しぶりの青空だ。 ご近所の桐朋学園の桜。 これはかなりの古木である。 これも桜。 ギョイコウサクラ(御衣黄桜)。 八重桜である。 ひさしぶりに大木あまりさんからお電話をいただいた。 10匹の猫をいま育てているということ。 目下、くりちゃんという野良猫のことで大変であるらしい。 夜中に餌をやりに行くのだそうである。 「雨に濡れてね、わたしが持っていたハンカチで拭いたんだけどとてもそれじゃだめ」とあまりさん。 ひとしきり猫たちのことについて聞く。 「あまりさん、出かけてはだめですよ」と言うと、 「うん、わかってるわよ。わたしは2月から句会を全部中止にしたのよ。わたしがそうしないとみんな来ちゃうからね」 それを聞いてわたしはホッと安心したのだった。 俳人の人にとって句会を中止にするということは、かなり勇気がいることかもしれない。 でも、命には代えられないとわたしは思うのである。 新刊紹介をしたい。 四六判フランス装帯あり 204頁 二句組 著者の大北祐規惠さんは、昭和15年生まれ、大阪池田市に在住、昭和59年、宇多喜代子に師事。昭和60年「草苑」に入会し、桂信子に師事、昭和63年「草苑」同人、平成17年「草樹」会員、平成21年「草樹」第1回「草花賞」佳作、平成22年「南風」入会、平成24年「晨」入会、平成25年「南風」同人、「南風」新人賞受賞、平成26年「晨」同人、平成26年「南風」退会。現在「草樹」会員、「晨」同人、俳人協会会員。本句集は、昭和60年から令和元年までの作品を精選収録した第1句集である。跋を宇多喜代子「草樹」代表が寄せている。抜粋して紹介したい。 さらさらと血は流れゆき夏立ちぬ 八月の八日の昼のいろんな音 鏡にはなにも映らぬ白露の日 夏立つと太き柱に触れにけり 家猫と夏の座敷にすれ違ふ 人声の遠くになりし枯野かな 雛の家裏山へ風ぬけてゆく かたはらに人の座りし白露かな 高く来る岩手平野の青田風 平成も後半になると、句形が整った姿のいい句が見られるようになってきます。けっして俳句の枠を崩すことなく、きちんとめりはりをつけた句、これがいまの大北さんの句だろうと思われます。(略) この破綻のない端正な路線を崩さずにゆく、これはこれで至難でしょうが、今後ますます洗練された境地に入ってゆかれることでしょう。とはいえ、脚を投げ出す行儀の悪さも俳句の魅力ですから、ときには脱線路線の景にも触れてゆかれるといいのではないかと思います。なにしろ「歳時記」という世界には、雪月花や時雨だけではなく、横題をさらに逸れた、蚤、虱、くしゃみ、鼻水、など、なんでも抱えているのですから。 これからの課題をも示唆している跋文である。 本句集の担当は文己さん。 色鳥の降り立つ石の決まりゐて 春の虹わがふところに足入れよ 足裏より寂しくなりぬ枇杷の花 この先は白き野となるすすきかな 家猫と夏の座敷にすれ違ふ 下町に小さき夏の月のぼる 春の虹わがふところに足入れよ 「春の虹」について、ある歳時記では「色が淡くぼんやりとしていて、気がついた時には消えかかっている。そこが春の虹らしいところで、夏の虹よりロマンも夢もこもっているようである」とあり、そうか、そんなはかない虹であれば懐にもいれたくなるというもの。一人の女性の胸から春の虹が空にかかっていると想像するのも楽しい。その足もはんなりとしてやわらかい。虹を見てこんな発想をする人ははじめてみた。斬新である。 この先は白き野となるすすきかな 秋の芒野の景である。それを芒野と言わないで、「白き野」とまず言って白を喚起して、やがて「芒かな」と芒の姿を呼び起こす。ぼんやりと白い野をイメージしていたのだが、それが芒という輪郭をともなって立ち上がる。はじめに「この先は」という方向づけをし、それが白き野となり、そして芒が呼び起こされる、読み手のこころに距離と時間を生む、それが果てしないさびしさとなって余韻を生む。切れ字「かな」が効果的だ。 八月の八日の昼のいろんな音 宇多さんも選んでおられたが、この句は面白いと思った。八月八日ってなにか特別な記念日だったかしら、と思って調べたのであるがとくにそういう日ではない。だが、立秋かその翌日にあたる日だ。残暑はきびしく人は汗をながして暮らしている、しかし、やはり立秋である、心をすませば秋の気配を感じるそんな日だ。そう思うと、昼日中のさまざまな音がやや複雑さをおびてくる。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」の歌にあるように、この「いろんな音」のなかに秋の風の音を作者は聴き分けていたのかもしれない。 戸の外に鶏の貌立つ夕薄暑 この句にはすこしぎょっとした。「鶏が立つ」のではなく「鶏の貌が立つ」のである。わたしは若冲の鶏をすぐさま思い浮かべた。「夕薄暑」という季語が、日本画の淡いイメージを思わせるようにも思えるが、鶏の貌で一挙にシュールな世界に連れていかれる。意味もなく戸の外に立つ、いるではなく立つ、鶏、ではなく鶏の貌、やや気味悪くちぐはくなへんな感じがすごく好みである。 この句集は、昭和六十年から令和元年十二月までの作品集です。 昭和五十九年の秋、俳句雑誌に掲載されていた宇多喜代子先生のお句を見て、私は俳句というものに魅了されたのです。 そのお句は、「魂も乳房も秋は腕の中」というものでした。 幸いにも歩いていける距離にあった先生のお宅へ、思い切って伺い、個人的に手ほどきをしていただくという幸運に恵まれたことが、俳句の世界にのめり込み、今現在に続いているという幸せな道につながっているのです。 そしてこの道は、桂信子先生へとつながり、平成二十四年秋には、大峯あきら先生、山本洋子先生へとつながりました。 なんという恵まれた道でしょうか。いまだに自分の幸運を信じられない思いです。 そして、諸先生方には感謝の思いでいっぱいです。 これからも、この道を弛まず歩いていくつもりでおります。 「あとがき」より抜粋して紹介した。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 シンプルな美しさに仕上がった。 模様は金箔押しである。 見返し。 扉。 栞紐は白。 瀟洒である。 第一句集の上木は、第二という次なる目標ができたということにつながります。 『きらら』の誕生を祝し、ますますの健吟を祈っております。 (跋・宇多喜代子) 河骨の花のひとつは遠く咲く この一句も好きである。「河骨の花」ってあまりおおきくなく、見えているものもあるけど、いくつかはは暗いところににひっそりと咲いている。花をみていくと奥の水面ちかくに咲いていてあっ、こんなところにもって思うことがある。その様子を「遠く咲く」と表現したところがいい、それによって詩情が加わった。本来的に河骨という花と人間が持っている距離感も感じさせる。
by fragie777
| 2020-04-02 19:26
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||