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ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko

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時。

3月18日(水)  旧暦2月24日


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雪柳。

先日井の頭公園で遊んだ帰りに道端に咲いていた。


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そばに近づくとむせ返るようだった。



今日は自転車で出社。

途中でシャボン玉に遭った。

おっ、シャボン玉だ。。

春光にきらきらと渦巻きながら路地よりあらわれた。

かなりでっかい。

わたしの行く手だ。

さらに自転車を漕いでいくと、
幼い兄妹がたのしそうにシャボン玉遊びをしているのに出会った。

カメラをかまえたときはシャボン玉は屋根を越えて行ってしまったのだった。

シャボン玉は春の季語、だ。。。


 どの子にも空ありて吹く石鹸玉   綾部仁喜








新刊紹介をしたい。

徳高博子自選歌集『めぐりあふ時』


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四六判ソフトカバー装グラシン卷  122頁 5首組

著者の徳高博子(とくたか・ひろこ)さんは、1951年東京渋谷区生まれ、現在は武蔵野市在住。「未来短歌会(黒瀬珂瀾選)」に所属されている。本歌集は、既刊歌集4冊、未完歌集1冊のなかから500首をご自身で精選されたものである。第1歌集『革命暦』、第2歌集『ローリエの樹下に』、第3歌集『ヴォカリーズ』、第4歌集『わが唯一の望み』、第5歌集『ジョットの真青』(未完歌集)より100首ずつである。いくつかの既刊歌集については、本著には記されていないが、徳高さんからうかがった小さなエピソートがあるのですこし紹介したい。第1歌集『革命暦』については、20年前に「短歌研究新人賞」に応募したところ、塚本邦雄氏が一位におされそれを記念して上梓されたものであるとのこと。第1歌集上梓時に、当時まだ阪大の院生であった黒瀬珂瀾さんとお知り合いになって、春日井建氏の「中部短歌会」に入会、春日井建亡きあと、「未来短歌会」(黒瀬欄)に入り、第2歌集『ローリエの樹下に』を出版。その歌集を読まれた塚本青史氏に「玲瓏」に誘われて「玲瓏」に入会され、「玲瓏賞」を受賞され第3歌集『ヴォカリーズ』を上梓されたという、伺えば華やかな短歌歴をお持ちであるが、本著にはそのことはいっさい記されていない。
本歌集をひらくと、わたしたちの目に飛び込んでくるのは、旧約聖書の言葉である。

天(あめ)が下(した)の萬(よろづ)の事には期あり 萬の事務(わざ)には時あり
生まるるに時あり死ぬるに時あり 植うるに時あり植ゑたる者を抜くに時あり 
                     (旧約聖書「伝道の書」第三章一節二節)

よく知られた言葉であるが、最後の一文節はやはりコワイ。
歌集名「めぐりあふ時」の「時」もこの「時」であるのだ、きっと。
つまりそこには神のひそやかなるはからいがある、のだ。
本歌集を読んでいけばおのずとわかるのだが、著者の徳高博子さんは、後半でカソリックの洗礼をうけて信者になる。第4歌集にはそのことが詠まれている。
歌集前半から中ばは、信仰への希求を感じさせる短歌がないわけではないが、どちらかというと繊細にして耽美的な調べの美しい短歌が多い。

 
 ぬばたまの闇に息づく白百合のカランドリエは熱月に入る
 原罪(もとつみ)あらば負ふべしおのがじし嗚呼と応ふる鴉と見合ふ
 あめがふる しとしとしねしねあめがふる エゴン・シーレの女のやうに
 人はみな過ぎゆくものと風さやぐ 回れパラソル  舞へ花ふぶき
 冬枯れは清しきものぞ新たなる熱量を帯び白鳥わたる


 「何事も一回限り」十二歳のわが寄せ書きに記せし言葉

この一首、第1歌集に収録されているものだが、興味深い歌だ。やがて信仰へと導かれていく萌芽がすでに12歳にしてあるのではないか、キリスト教の思想は、一回性の思想である、歴史の一点にあってはじめがありおわりがあり、決して再生はありえない今この時はけっしてもうもどらないもの、輪廻転生ではないのである、そのことを12歳の徳高博子さんがすでに感じていたのだ。そして、12歳のときに書いた自身の言葉をふたたび拾い上げ、歌集に収めたのである。そのことにわたしは驚く。「萬の事の時」を感じるのだ。

 ゆだねよといふこゑをきく真夜覚めてゆめとうつつのあひにまよへば
 洗礼をのぞむ吾が意をゆるし給ふ君がこころは海のごとしも
 聖水を額(ぬか)に受けたり不意打ちのごとく涙し溢れやまざり

第4歌集『わが唯一の望み』に収録されている歌である。カソリック信者となるべく受洗をされたのだった。二番目の短歌に詠まれている「君」はご夫君であろうか。ご夫君は、この歌集から推し量るところによると科学者である。たぶん研究のためであろうと思うがヨーロッパ各地やアメリカなどご夫君につきそってそこで暮らしておられたご様子である。そういう歌がたくさん収録されている。洗礼を受ける妻を科学者である夫はどうのように見ているのだろうか。推し量りがたい。「海のごとしも」という比喩がすべてを語っている。
そして、

 新しく日日あたらしく生まれ変はる私を私はもつともおそる

「私を私はもつともおそる」この箇所がいい。能天気に自分を受け入れるわけではなく、もっとそこには自身に対する畏敬の念のような、あるいは警戒する心も感じさせるような、一筋縄ではいかないものがある。信仰によって人は新しく生まれ変わる。しかし、この「自身をおそれるこころ」は人間を無知蒙昧や高慢からすくってくれるように思える。内省的な作者の貌がある。

本歌集の担当は、文己さん。

 真青なるテーブルクロスを携へてプロヴァンスより君帰り来し
 霧雨にふかく息づく夏木立 樹となりてわがたたずみてをり
 手に受くる朝の水のさやけさに糺されてゐる秋のわたくし
 あやふやなぬひぐるみたち儚かるうなじを見せて買はれてゆけり
 身の芯の海の記憶をさかのぼり目を閉ぢて視るクリムトの金

どの歌もやわらかな日本語の調べがあり、しんとしてたたずむ著者がみえてくる。「クリムトの金」と「海の記憶」、甘美にして夢想の世界に読者をいざなう。徳高博子さんの表現者としての巧みさも感じさせる一首である。

 
 レンブラントの自画像の眼を想はする父の描きたる己が眼光

この歌集には、いまは亡きお父さまが多く登場する。職業軍人でおられたお父さま、戦争をひきずって生きてこられた方のようだ。父をみる著者の目はいつも切ない。

 亡びゆく父に寄り添ふわたくしは花びらほどの薄き氷(ひ)のうへ

 

徳高博子さんは、この歌集を上梓されるにあたって装丁への明確なご要望があった。グラシン(薄紙)を巻いたものであること、ブルーを基調としたものであること、透明感があるもの、金箔押しの薔薇をいれて欲しい、などなど。
それらのご要望をブックデザイナーの君嶋真理子さんは、ことごとく応えてくれたのだった。



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グラシンに巻かれているのでどうしてもすこしぼけてしまうが、、、
(実際はその手ざわりとボケ感がいいのだが)


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ブルーが鮮やかである。


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カバーをとった表紙。


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見返しは透明感のあるもの。
扉が透けてみえる。


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扉。


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冒頭に置かれた聖書の言葉。



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5首組。


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 神の為し給ふところは皆その時に適(かな)ひて美麗(うるは)しかり
 神はまた人の心に永遠(えいゑん)をおもふの思念(おもひ)を賦(さづ)け給へり
 然(され)ば人は神のなし給ふ作為(わざ)を始(はじめ)より終(をはり)まで知明(しりあき) らむることを得ざるなり
                          (旧約聖書「伝道の書」第三章十一節)
 


本歌集に「あとがき」はない。
最後に、ふたたび聖書の言葉がおかれている。




 喉元までこみあげてくるさみしさをなだめむとしてふふむ肉片 

この一首、未完の第5歌集『ジョットの真青』に収録されているものだ。わたしは思わずにんまりしてしまった。信仰によって人は生まれ変わる。しかし、さびしさは変わらないのだ。それはいかんともしがたく、そのさびしさをなだめるために肉を食べるという、笑ってしまうが、気持ちはわかるし、実感なんだろうとも思う。それによってさびしさは埋められるのか、埋められっこないことは著者自身もよくわかっている。しかし、ビーフステーキはとびきり美味い。好きな一首である。



徳高博子さんからのお手紙で知ったのだが、徳高さんは、一昨年だったかしら鎌倉で行われた「冬野虹素描展」に四ッ谷龍さんのお招きでお見えなっていて、そこでわたしを知ってくださったらしい。やはりそこにいらしていた永島靖子さんがyamaokaさんよって教えくださったという。わたしはあの日、いろんな方にお会いしてバタバタしていて、ご挨拶をきちんとしたかどうかも覚えていない。
しかし、徳高さんは、
「あの日、もし鎌倉まで伺わなかったら、この歌集は存在しなかった」とお手紙に書いてくださった。わたしは、そんな風に思っていただいたのかと、改めてひどく恐縮してしまった。
そして、それもまた「めぐりあふ時」であったのかと、不思議な喜びで満たされたのだった。








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by fragie777 | 2020-03-18 21:02 | Comments(0)


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