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2月10日(月) 旧暦1月17日
谷保天神の白梅。 まるで、これから目覚めていくようだ。 朝、かなり前にユニクロで買ったカシミヤの黒マフラーをして来たのであるが、今日はそれを首からはなざず、巻き付けたままで仕事をした。 このブログを書いている今も巻いたままだ。 結構寒い一日となった。 朝のテレビで、「もうすぐ春ですねえ」と言う、「えっ、もう春は来てるじゃねえの!」と思わず声に出してつっこんでしまった。巷の感覚と暦の季はかなり違うことに驚く。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバークーターバインディン装帯あり 198頁 二句組 内田麻衣子(うちだ・まいこ)さんの第1句集『好きになってもいいですか』(2001)に次ぐ第2句集である。第1句集は、内田麻衣子さんが23歳の時に上梓、この度の句集『私雨』は、それ以降の24歳〔2002年)から41歳(2019年)までの作品を収録してあるものだ。1978年東京生まれ、1965年「実の会」俳句会入会、2003年「野の会」入会、2019年「野の会」無鑑査同人。本句集には高山れおな氏が序文を、鈴木明「野の会」主宰が跋文を寄せている。 句集名『私雨』は「ほまちあめ」と読み、「私雨」は、限られた区域に降る雨。とくに有馬、鈴鹿、箱根などの山地に降るものが知られている。「我儘雨・わがままあめ」「外待雨・ほまちあめ」とも言う。と鈴木明氏は跋文に書いているが、 私雨(ほまちあめ)根岸子規庵裏・異界 の一句に拠る。「私雨」という句集名も印象的であるが、なにより本句集の掉尾におかれたこの一句は、脳裏に焼き付けられる。いい句だと思う。 序文で高山れおなさんが、すばらしくいい鑑賞をしているので、それを紹介したい。 じつは彼女は根岸で育ち、現在もそこに住んでいる。子規庵があるゆえに俳句をやっている人間にとっては一種の聖地である根岸は、同時にその子規庵裏手からJR鶯谷駅前にかけて日本最大級のラブホテル街という〈異界〉を擁する町でもある。(略)いささか異色の場所を故郷かつ現住所とし、同時にそこが聖地としての意味を持ってしまうような俳句という遊びに深入りしている自分をあらためて発見している句─この作品をそんなふうに読むことはできないか。とすれば、私雨という単語を選択する上で重要だったのは「ほまちあめ」という優美な音ではなく、「私」という文字の方であったにちがいない。 右のようなうけとり方は、あるいは深読みのそしりを受けるだろうか。だが、私は巻軸という特別な位置に据えられた一句に「私―子規―異界」という文字のつらなりを見て、そこに彼女の決意の表情を感じないわけにはいかないのだ。それはくだんの異界に住んでこそいないものの、やっぱり聖地だと思っている、少しだけ先輩で友人である人間の直観というものです。もちろん、その決意のなかでの異界は、ネオンの光が氾濫する地上世界のそれではなく、俳句という文学がひらく別世界という意味に転じているだろう。内田麻衣子の俳句は、これからさらにおもしろくなっていくにちがいない。 「氾濫する地上世界のそれではなく、俳句という文学がひらく別世界という意味に転じ」た意味での「異界」であり、この一句に俳人としての「決意の表情」を感じるというのは、なんとも餞のことばとして、これ以上の言辞はないように思える。 この一句に、本句集のすべては収斂していく、わたしはそんな風に思ったのだった。 面白い句はたくさんあるが、この一句を得たことによって、句集『私雨』は、俳句の海にしっかりと碇を下ろしたのではないか、そして、「これからさらにおもしろくなっていくにちがいない」と高山さんが書いているように、更なる新しい海へと漕ぎ出していく、そういう第2句集となったのではないか。 担当のPさんが好きであるという句を紹介したい。 法的に有効な愛麦の中 鯉のぼり空を引き裂く男におなり いせ辰に祖母の匂いを嗅ぐ五日 白鳥母似火箸のような頸をもち 母は美し私はキツネの血が足りぬ 白鳥母似火箸のような頸をもち 面白い一句だ。白鳥が母親に似ているという、母が白鳥に似ているのではない、あくまで主体は母親である、しかもどこが似ているかといえば、「火箸のような頸をも」っているところというからなんとも驚く。いったい内田麻衣子さんのお母さんはどんな頸をしているのだ。それは白鳥のような長くて強靱なしなやかさをもち、しかも火箸のようというからずいぶん鋭い比喩である。白鳥の白の冷たさと火箸が呼び起こすところの火のイメージ、そんな頸をもった母親へのオマージュの一句である。〈母は美し私はキツネの血が足りぬ 〉という句も素晴らしいマザーコンプレックスの一句だ。「キツネの血」には不足していない母はまぶしい美しさを持っているのだろう。一句のなかに呼び込まれた比喩が卓抜だ。 麦の秋妊婦抛らば塊(くれ)となる この一句はわたしが面白いとおもった。あとがきで、著者の内田麻衣子さんは、ご自身のことを「愛想がない」と書いておられるが、どこか醒めた目をもっている人だ。本句集は、編年体で編まれているが年ごとに作者の年齢が記されている。24歳からはじまって結婚をして子どもを産み、子育てをしているそんな様子もたどることのできる句集ではあるが、そういう自身の生活記録ような句を、愛おしみそれを俳句にしておこう、というスタンスではないように思える。もっと自身を見る目を突き放している、この句の「妊婦」もきっと作者自身のことから発想しているのだと思う。しかし、表現者としての目は、自身の肉体をはなれたところにあるのだ。それがわたしには面白い。「麦」は聖書のイエスの言葉「一粒の麦」の「麦」を思い起こさせる。 パンティー死語死語すらも死語犬ふぐり 「犬ふぐり」の季語でこの一句は重さを得た。「犬ふぐり」だけが現実だ。あとはすべて消え去っていく。好きな句である。 いつしか書かなくなった日記は読みかえすこともなく捨ててしまいましたが、俳句は過去の褪せたもの、覚束無いもの、時折交じるフィクションも含め受けとめることができます。 また、慌ただしい生活の中でも、どんなに悲しみがあった時もその詩形に救われてきました。やはり俳句という形式がとてつもなく好きなのでしょう。 そしてこの十八年間で選んだ三三五句。ハレの句が少ないこと、愛想がないことも実物の私らしく気に入っています。(略) 今はまだぴったりと身体を添わせ眠る息子。彼がこの句集をひらいてくれる日がくることを楽しみにしています。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装幀は和兎さん。 雨の感じをいかに出すか、そこに腐心した。 用紙をフラットなものでなく鱗模様のような光沢のあるものを用いた。 パール泊を文字と雫に効果的に押してみた。 帯は金茶のもの。 土の湿りのあたたかさを出したいということだった。 カバーをとったところ。 見返しは透かし模様をのあるもので涼しげに。 扉は帯とおなじ用紙。 クータ―はカバーの刷り色とおなじ落ち着いたブルーで。 私はこの内田麻衣子第二句集『私雨』が、句友を始め、多くの人によまれることを願う。その作品の全体像から選ばれた若き俳人の只今の在りようを理解し、汲み取って頂ければ幸いである。(略) 近代俳句の創始者正岡子規居士は、一面「我儘居士」。その旧庵に隣接する内田家は、戦前からの住宅地で、「谷根千」と江戸情緒の偲ばれる地域であった。しかし、戦後はラブホテルの建ついわば「異界」エリア。ただ句中の「異界」は、作者の芸術的発想とその挑発力、レトリック感覚から発した言葉だと私は理解している。(鈴木明・跋文より) 臨月の出べそ冬菜の被曝量 句集『私雨』には師・鈴木明の指導もあって批評性をもった俳句も少なくない。そのなかでこの一句がわたしは好きである。「臨月の出べそ」も懐妊の作者自身のものだろう。その生命力のあるお腹の出べそと、被爆しているかもしれない冬菜である。もやは子どもを産むという行為は、手放しでおめでたいものではなく、そういう危機感から免れがたくあるのだ。しかし、この句には悲壮感などすこしもなく、あっけらかんとした臨月の出べそがまるで抗議しているかのように被爆の冬菜にみごとに対峙している。やはり著者はクールである。そして、批評性は充分にある。 朝、爪研ぎにマタタビをふりかけたら一目散にやってきた猫たち。
by fragie777
| 2020-02-10 20:35
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