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2月4日(火) 立春 1月11日
国立・矢川の日当たりのよい水辺をゆっくりと歩いていた鴨。 大方二羽ずつでいる。 どういう風にカップルになるのだろうか。 ここには10数羽の鴨たちが二羽ずついたのであるが、一羽のオス鴨をめぐって、あるいは一羽のメス鴨をめぐって、とりあいの争いは起きないであろうか。 ぼんやりと鴨をみつめながらそんなことを思っていたら、バシュバシャとはげしい水音がして、一羽の鴨がもう一羽を追い払っていた。 おっ、喧嘩がはじまるぞって思ったがすぐに平穏さをとりもどした鴨たちだった。 概して平和主義なのかもしれない。 予定調和が支配する世界なのか。。。。 新刊句集を紹介したい。 四六判ソフトカバー装帯有り 158頁 立春や鉄道部の窓開いており 山本みち子 今日は「立春」である。句集『涙壺』の2番目におかれた一句である。 この一句について、坪内稔典さんはこんな風に書く。 詩は現実をほんの少しずれるときに生じる。あるいは、ひょいと別の世界へ跳んだとき、小さな詩が誕生する。もちろん、それは言葉の上での話であり、言葉がずれたり跳んだりして詩をもたらすのだ。たとえば、 立春や鉄道部の窓開いており だと、季語「立春」と開いている鉄道部の窓との取り合わせが、立春という語に列車の音を漂わせているし、鉄道部の窓に早春の光をもたらしている。 「鉄道部」ってあまり聞かない言葉であるが、なんとなくわかる。鉄道マニアの人たちがあつまって鉄道ロマンを語る会か。すこし空いた窓からその人たちの声が聞こえてくる。 著者の山本みち子(やまもと・みちこ)さんは、1939年広島生まれ、京都市在住、1999年にカルチャー教室にて俳句をつくりはじめ、2010年「船団の会」(坪内稔典代表)入会、おなじく2010年に京都の俳句グループ「MICOAISA」に入会。本句集は第1句集で、坪内稔典さんが跋文を寄せている。 跋文のタイトルは「ひょいと跳ぶ―『涙壺』の詩」。 気が合うというか、同類だな、と思う俳人。その一人が山本みち子さんである。たとえば次の句、この光景が懐かしい。いや、こんなふうに自転車を押したいと思うのだ。 あたたかや自転車押して詩のはなし 詩の話をしながら歩くなんて、やや気障というか、現実にはあまりない気がするが、あっていい、とぼくは思う。このように思う点で、おそらくこの句の作者とぼくは気が合う。 初蝶とわたしエリアをひょいと出る 「ひょいと出る」軽さがよい。人間のエリアから初蝶のエリアへ移動するのだが、その移動によって、「わたし」は詩に転じていると言ってよいだろう。つまり、「わたし」の存在そのものが詩になっている。 山本みち子さんは、今年80歳になられるという。それを伺って驚いた。作品をとおして見えてくる著者は年齢不詳である。句集をはじめから読んでいき、「あとがき」や「略歴」でその人の年齢が見えてきたりする。作品を読むためにその人の年齢なんて関係ないのかもしれないが、しかし、作品のなかで出会う著者のイメージとその年齢の違いに愕然としてしまった。こう思うこと自体が野暮であるが。。。 春の夜を受精卵めくキャッツアイ ふぁんふぁんと春を吐き出す埴輪かな六月の光あつめて歯をみがく 夜の秋頬杖という形して 狂言師残る暑さを踏み鳴らす 担当のPさんが選んだ句である。第1句目は、校正のみおさんもその「比喩にびっくりしてしまった」ということ。 ふぁんふぁんと春を吐き出す埴輪かな 「ふぁんふぁん」とがいいな。埴輪の口って小さくて丸くてとてもシンプル。そこから春が吐きだされて「ふぁんふぁん」である。歌をうたっているような埴輪の口であるからこそ、「ふぁんふぁん」だ。そうか、春は埴輪の口からもやってくるのか。 狂言師残る暑さを踏み鳴らす これはなんといっても「残る暑さ」がとびきりいい。ただの暑さだったらちょっと観念的になってしまうけど、まるで床に暑さが残っているかのようで、それを狂言師がダンダンといい音を立てて踏み鳴らすのだ。巧みな一句であると思った。 あたたかや自転車押して詩のはなし 坪内さんもその跋文で鑑賞しておられたが、自転車を押しながらする「詩」の話ってきっと人のこころを優しさにみちびくような「詩」の話なんだろうっておもった。「あたたかや」という季語がそれを語っている。読んでいって心がひりひりとしてくるような厳しい詩ではなくて、もう少し、そう、季節の移ろいを楽しんだり季語の世界をあじわったりする、きっと「俳句」という「詩」の話かもしれないな。 濡れて来た葉書一枚多佳子の忌 わたしはこの一句が気になった。作者のところに届けられた一枚のはがき、濡れて文字がすこしにじんだりしている。雨に濡れたのだろうか、そのはがきをみつめていて橋本多佳子のことを思った、あるいは今日は多佳子の忌日であることに気づいたのか。作者にとって橋本多佳子の作品世界は、すこし濡れたはがきの手ざわりに通じるような感触があるのだろう。「多佳子忌」という季語がよく効いている一句であると思った。 還暦を迎えた新年、近くにカルチャー教室を見つけたことが俳句との出会いでした。 その後、京都朝日カルチャーや「MICOAISA」そしてさまざまな句会吟行などで楽しくまた大いに苦闘をしながら俳句を作り続けて二十年が経ちました。 思いがけなくこれまでの俳句をまとめてみようという心境になったのは、八十歳という魔法にかかったのかもしれません。拙いものですがお目にとめて頂ければ幸せです。 「あとがき」を抜粋した。 「俳句をまとめてみようという心境になった」ことを「八十歳の魔法にかかった」と山本みち子さん。なんとステキな魔法であること、とわたしは思ったのだった。 本句集の装幀は和兎さん。 著者の山本みち子さんのご希望を充分に反映させながらのご本となった。 ブルーの本であること、それがまず第1のご希望だった。 タイトルとお名前にはこの書体を用いて欲しいということ。 そしてシンプルであること。 カバーをとった表紙。 では、最近のみち子さんの絶好調の句を引こう。七〇代や八〇代はたっぷりと老人なのだが、心というか感性というか、魂のいちばんやわらかな部分はなぜか少年や少女のまま。そのやわらかな心がひょいと跳ぶ。秋晴へ跳ぶ。(坪内稔典) 秋晴だ絶好調だ老人だ 魔法が解けないままこれからも俳句を作り続けたいと思っていますのでどうぞよ ろしくお願いします。(あとがき) イアリングはずした後の虫の闇 「虫の闇」のその感触をどこで感じ取っているか、イアリングをはずしたあとの耳でそれを感受しているのだ。耳は省略されているけれど、わたしたちはこの句を詠むと、ひたひたと耳に押し寄せる虫の声とその闇を感じる。そしてそれは耳のみならず身体全体を浸食していくかのようだ。イアリングを外して武装解除された耳が暗闇のなかに白々と見える。
by fragie777
| 2020-02-04 19:33
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