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1月30日(木) 鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく) 旧暦1月5日
みつばつつじの実の枯。 昨夜はお風呂上がりにとうとう爪を切った。 手の指のみならず、ついでに足の指の爪もきれいに切りそろえた。 すると、 わたしは、 世界を征服した美女になったような気分になった。 ルクレチア・ボルジアのごとき美女、 なーんて ね。 いくつかの記事を紹介したい。 現代詩手帖2月号で、俳人の外山一機さんが、「俳句の静脈」で秦夕美/藤原月彦著『夕月譜』をとりあげてくださった。全部を紹介したいところであるが、抜粋して紹介したい。タイトルは「幸福な遊戯」 秦夕美と藤原月彦が共同制作による句集『夕月譜』(ふらんす堂)を上梓した。二人はともに赤尾兜子に師事し、兜子の死後に桑原三郎の立ち上げた「犀」に創刊同人として参加するなかで交流を深め、その後、昭和五八年に二人誌「巫朱華(プシュケ)を創刊している。(9号で終刊)。『夕月譜』は「巫朱華」に掲載された共同作品(昭和59年4月~63年3月)をまとめたものだ。(略) 本書に収録された12作品は「雨月物語」「好色五人女」などの古典作品から夢野久作の小説、与謝野鉄幹・晶子の短歌までさまざまな作品をテーマにしているが、それらは二人の読書体験の一致がもたらした稀有な美の散乱というべきものなのかもしれない。 聖夜雪降り犬神博士讃へんか てらの月卯月火刑の刻も尚 六道のはたても井戸の底の月 生剥ぎの童貞童女李花桃花 奥山の紅葉も乳房道を説く こうした作品はまた、特定の文字を特定の箇所に入れ込むなど、使用する文字や語彙にもこだわって制作されていた。二人はそれを「ゲーム感覚」「俳句という形式の虐使」「言葉のサーカス」と称するが、作品の善し悪しはともかく、昭和末期にはこうした幸福な遊戯がひそやかに行われていたのである。 「俳句四季」2月号の【座談会】齋藤愼爾、榮猿丸、宮本佳世乃 司会 筑紫磐井 による「最近の名句集を探る」は面白く読んだ。とくに榮猿丸さんの発言に注目した、抜粋して紹介したい。 まず、藤永貴之句集『椎拾ふ』について、 榮 「ホトトギス」系の若い人達とは普段あまり接点がないんです。だからどんな俳句を作っているんだろうと思って読んだら、本当に虚子の教えを実践しているような作風ですね。 榮 レトリックというか言葉の使い方なんかも踏襲して、さらにそこからどう深めようかみたいなことをやっている。 季題を中心に詠んでいて、取り合わせよりも一物仕立てで詠んでいる句が多いですね。今、一物で季題を詠んでいくというのは本当に難しいと思うんですよ。俳句がこれだけ詠まれつくしている中で果敢に挑戦しているところがよかったなと思いました。 多分この句集の中で代表句になってくるのは、「桐一葉塀をこすりて落ちにけり」ではないかと思います。正に虚子なんですけれども、「日当りながら」じゃなくて「塀をこすりて」と言ったところの手柄ですね。この作家はこういう部分に懸けているんでしょう。パロディなどではなく、ストレートにあえて挑戦する、このチャレンジはすごいと思う。 あとは「熊肉と人と入りゆく冷蔵庫」「秋の暮農家の庭に出たりけり」も実感と不思議さがあって面白い。 一物の俳句を真摯に詠んでいるので、ちょっとくどいというか描写を重ねて詠むところがあるんですよね。「瀧長し岩にぶつかり折れ曲り」とか。それも何か『ホトトギス雑詠選集』を読んでいるような感じで、面白さがじわじわ来ました。(略) 生駒大祐句集『水界園丁』(港の人刊)についての榮猿丸さんの発言もきわめて興味深かった。 榮 若手の俳人のある傾向を代表するような句集で、かなり画期的な句集だと思います。 言葉を非常に緻密に組み立てているなという印象で、さまざまな俳句を参照して詠み込んでいるし、ニエリスム的(とあるのだが、これはマニエリスム的の誤植? yamaoka註)な句集ですね。先人の句に対するリスペクトに溢れていますが、その中でも根底にあるのは田中裕明なのだろうと感じました。 田中裕明が平成一六年に亡くなって、平成一九年に全句集が出て、裕明の今の再評価って生駒君たちの若い世代の存在が大きいと思うんですよ。 多分、裕明が亡くなったのは、生駒君たちがまだ学生の時だと思うんですけれど、当時の若い俳人たちが裕明の句に魅了され、今の評価を作ってきたというのがあると思うんですね。 この句集には水の句が多いんですけれど、やっぱりこれも裕明の影響を感じました。 一句目が「鳴るごとく冬きたりなば水少し」。「水涸る」という季語を一句にした句で、折口信夫が短歌について言った無内容性、雪を握りしめると、掌の中で溶けて跡形もなく消えている、そういうものがいい詩なんだ、という、この世界を志向しているのではないかなと思います。「鳴るごとく」というところがいいですよね。 次の句の「よぎるものなきはつふゆの絵一枚」も、ほとんど意味はないんだけども、何か質感とか感情を言葉の上にさっと掃いていくような句で、こういう句の感触は裕明の「大学も葵祭のきのふけふ」を思い起こします。ものの輪郭を捉えずに、空気感というか、雰囲気というか、詩を言葉の上に浮かばせてるようなやりかたを狙っているのかなと思いました。言葉で美しい世界と作っていこうという感じです。(略) 平井照敏さんが以前、龍太、澄雄の時代が終わって、田中裕明、長谷川櫂さん、夏石番矢さん、僕の師匠の小澤實などが、昭和の末から平成の初め頃に登場してきた時に、彼らは「言葉による言葉の俳句」を作っていると書いているんですよね。そういうことを思い出します。 裕明の代表句で、「悉く全集にあり衣被」という句があるんですけれど、豊饒な、多様性のある昭和俳句を経て、すべてが全集に収められている、そこから出発するというのが昭和三〇年代以降の世代だと思うんです。つまり前衛も古典もすべてフラットに並べられた全集の中から自分たちの感性の赴くままに、俳句を再発見していくということです。 そうした中で文語だとか歴史的仮名遣いも含めて、もう言葉としての有用性が無くなったがゆえに見えてくる、言葉本来が持つ美しさとか面白さみたいなものもあると思うんですね。そうした葉(言葉?)で世界を作っていくという俳句が、裕明以降の時代にはあると思うんですけれど、この句集はそれの一つの生駒君なりの到達点という感じがします。(略) 榮猿丸さんの発言は、生駒大祐さんの句集について語りながら、田中裕明の俳句、あるいは同世代の俳人たちの作品の、俳句史における榮さんなりの位置づけのようなものが見えてきて、わたしはとても面白く読んだのだった。
by fragie777
| 2020-01-30 19:09
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