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12月23日(月) 乃東至(なつかれくさしょうず) 旧暦11月27日
わたしん家の狭い庭のものなの。 それが今年はとても美しく紅葉した。 ある日朝飯を食べながら、庭を見ていてはっと気づいたのだった。 こんなに鮮やかな姫沙羅の紅葉をわたしは見たことがあっただろうか。。。 なんて思ったほど。 姫沙羅の木は花はその名のとおり沙羅の花を小粒にしたものであるが、木の形に風情があって枝振りが美しい。 よく料亭などの庭に使われる。 木肌が赤いのでひと目でわかる木だ。 わが家は料亭ではないので、ときどき鳥が遊びに来るくらいである。 昨日の朝日新聞の「風信」に、神野紗季著『女の俳句』が紹介されている。 主題は「女を詠んだ俳句」。俳人である著者が、女がどのように俳句の中に描かれてきたかを顕彰するエッセー集。 新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル 72頁 4句組 第1句集シリーズ 著者の原ゆき(はら・ゆき)さんは、1962年東京生まれ、東京都在住。2010年に「船団の会」に入会。2016年「抒情文芸」最優秀賞受賞、2018年第10回船団賞を受賞しておられる。本句集に坪内稔典代表が、解説を寄せている。 タイトルは「胸がときめく――ゆきさんのやや難解な句」。 胡瓜持つ胡瓜の中に水の声 ぱしと折るそのとき季語となる胡瓜 ありったけ胡瓜食べ喉ほのあかり 三句のうちでぼくがもっとも魅かれるのは、ほのあかりの句だ。その前の二句も、旨い胡瓜を連想させるのだが、もっとも常軌を逸しているというか、胡瓜に最接近しているのは三句目だ。だが、やや難解であろう。どうしてありったけの胡瓜を食べたのか。ほのあかりは何か。こうしたことが、いろんな読みを許すので、おのずと難解な印象を与える。でも、やや難解に見える句がたいていの場合に優れた句である。 わたしは句集の冒頭の一句にしばし立ち止まった。 音楽はさよりの動きにてドアへ はっとさせる句であるが、たしかにやや難解かもしれない。「音楽」「さより」「ドア」といかなる関係もないような「もの」がさらっとひとつの動きのなかで詠まれいて、すっと入ってくるのだが、はて、いったいこれはどういうことなんだろうと思うとよくわからないのだが、極めて印象的に言葉がひとかたまりとなって胸をさす。坪内さんは、「やや難解に見える句がたいていの場合に優れた句」と書いておられるが、この一句なども優れた一句なのかもしれない。 海はふたつに分かれることもなく紫陽花 海が二つに分かれるという激しいイメージと、静謐な紫陽花。もちろん、句の中心は紫陽花だが、このゆきさんの句に出会うまで、原始的な海を感じさせる紫陽花を知らなかった。つまり、この句を覚えて以来、紫陽花をみるたびに、ぼくは二つに分かれる海を連想して胸がときめく。 ともあれ、ゆきさんの句はいろんな連想を誘う。時々、困ってしまう場合もある。たとえば「足ゆびをくんと伸ばして寝酒かな」。これ、足指を伸ばしながら酒を飲んでいる? それとも、寝酒の効果がくんと伸ばした足指? どうにも分からなくて悩むばかりだが、このような困らせる難解な句もまた『ひざしのことり』の魅力であろう。 いろんな角度から一句を考えさせたり想像させたり発展させたりする、それもまた「ひざしのことり」の楽しみ方なのかもしれない。 本句集の担当はPさん。 アルバムの風景箱庭の匂い ぱしと折るそのとき季語となる胡瓜 イヤホンは水仙ほどの温度にて 月はC東京タワーはA 湯たんぽと言えばくちびるやわらかし ありったけの胡瓜食べほのあかり Pさんがあげた句も、大いに飛躍があってへえーって思ってしまう。わたしの感性と思考の領域をぐいっと広げてくれるような作品だ。 アルバムの風景箱庭の匂い アルバムの風景っていったいどんな、セピア色のやや古ぼけた写真の風景か、そして「箱庭の匂い」が対峙されている。どういう関連? 箱庭の匂いは嗅いだことがないからわからないけど想像するになつかしい匂いなのかなあ、で、両者ともノスタルジーというところで響き合う、か。。しかし、原ゆきさんは何も言っていない。ただ二つのものを詠んでいるだけなのである。しかし、それに対して文句はいえない何かがある。 湯たんぽと言えばくちびるやわらかし これはわかりやすい一句だ。「ゆたんぽ」って言ってみる。たしかに唇はやわらかに動く。湯たんぽという形態は、丸くて波模様の曲線がはいっていてやはり材質は固いがやわらかなかたちをしている。「湯たんぽ」の存在は、なんてったって絶対で我々はあらがえないような何かが、ある。わたしたちをやわらかく包み込んでくれるような湯たんぽである。 イヤホンは水仙ほどの温度にて こうなるとわたしの凡庸な感性は必死で原さんについていくことになるが、しかし、面白いんじゃないっておもう。イヤホンに水仙をもってきて、しかも水仙の温度である。いったい誰がこんな発想をするだろうか。イヤホンには温度があるか、ああ、そうか、これはイヤホンを耳にいれたときの冷ややかな感じを、水仙の冷たさと捉えたのか。坪内さんが書いているように一句を前にして、いろいろと想像し面白がってみる、そんな楽しみを原ゆきさんの句は読者にあたえてくれるのだ。 生者より亡者かろやか桃の花 これはわたしが面白いと思った一句。「亡者」とは単なる死者ではなく成仏できない死者。いろんな怨念をかかえて重くれた魂となっている。しかし、その「亡者」より「生者」の方がさらに重いというのだ。ある批評性を持った視点なのか、あるいは説教か、と思うと、「桃の花」である。桃の花の圧倒的な明るい緊密な存在感にかろやかな亡者は吸い込まれて行ってしまう。そして迷える悩み多き生者が取り残される。いろんな解釈を許してくれる一句である。 「あとがき」がまた面白い。 原ゆき、という名前を 自分につけてみました。 すると急に、どうしてか 身が軽くなりました。 せっかく軽くなったので 句集を作ってみることにしました。 坪内ねんてん先生はじめ 応援してくださった方々に こころより 感謝いたします。 俳句をつくることを自由に自在に原ゆきさんは楽しんでいる。 本句集の装幀は和兎さん。 颯爽としたブルーである。 和兎さんは、「ひざしのことり」なので、黄色を考えたらしいが、原さんはブルーを希望されたということ。 胡瓜持つ胡瓜の中に水の声 胡瓜を手にしたとき、その手触りや重さから胡瓜のうちの「水の声」を聞くのは、なんとなく分かる気がする。胡瓜だって人間だって、体の大部分は水、だから、ゆきさんは胡瓜に近いし、胡瓜はゆきさんに近い。 ――坪内稔典 帯文より。 六月の街鱗粉の付く受話器 この一句は印象にのこった句である。「六月の街」、「鱗粉の付く受話器」は関係ないようであるが、「鱗粉の付く受話器」という具体的な物に呼び起こされて「六月の街」に不思議なリアル感が生まれる。そしてこの受話器はわたしはなぜか昔の黒電話の受話器を思い起こす。そこに黄色の鱗粉、それが六月ややしめっぽいの街におかれているのがシュールである。 今日はお客さまが名古屋からお見えになった。 俳誌「香雨」(片山由美子主宰)の同人、久野のり子さんである。 久野さんは、2011年にふらんす堂より第1句集『深緑』を上梓されている。 その時は「狩」の同人であられた。 この度、「狩」が終刊になったのを機に「狩」時代の句をまとめて第2句集として上梓し、あたらしい気持ちで「香雨」で学びたいと思われたのだ。 担当は、文己さん。 今日はいろんな句集をご覧になられて、やはり前と同様、ハードカバー装をお選びなったのだった。 「第1句集からまだ8年なのですが、やはりここで一つの節目として句集上梓を決心しました。大分悩みましたが」と。 久野さんは、「狩」40年のうちの20年の句歴がある。作品は充分あった。 今度は自選で、鷹羽狩行先生が帯文を、片山由美子主宰が句集名を下さるということ。 第1句集『深緑』を手にした久野のり子さん。 「東京には娘もおりますので、もう少しゆっくりして行きたいのですが」とおっしゃりながら、急いで帰られたのだった。 お家には93歳のお母さまが待っておられるという。
by fragie777
| 2019-12-23 19:32
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