カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
12月4日(水) 旧暦11月8日
ぞんざいに括られても、 倒れ伏しても、 菊は華やかさを失わない。 朝出社して、わたしがまずやったこと。 バランスボールに久しぶりに空気を入れた。 いい感じで空気が抜けたバランスボールはこのところお尻になじみすぎてここちよい。 わたしのお尻はバランスボールの上でまったりしてしまう。 これじゃ、いかん、ということで空気をいれたのだった。 空気が入ったバランスボールに腰をかける。 前よりぐっと抵抗感がある。 下腹に力が入り、背筋をのばす。 ヨシッ、 わたしは丹田に力を入れたのだった。 新刊紹介をしたい。 194㍉×194㍉三ツ目綴じ製本 28頁 非常に贅沢な本である。 秦夕美(はた・ゆみ)さんと藤原月彦(ふじわら・つきひこ)さんの共著によるもの。 藤原月彦は、歌人藤原龍一郎の俳号である。 タイトルは「夕美」の「夕」と「月彦」の「月」を採って「夕月譜」。 半年ほど前に、秦夕美さんからコピー原稿と一冊の本がおくられてきた。 うすい冊子であるが、なにか妖艶なオーラを放つ冊子であった。 タイトルは「巫朱華」(プシュケ)とある。 「妖雪の卷」とある。 頁を繰れば、「雪」をテーマにした俳句作品、小説、エッセイが収録された16頁の薄い冊子である。 が、美意識に貫かれている。 筆者は、秦夕美と藤原月彦。 奥付は昭和61年12月25日とある。 ということは、いまから40年以上も前である。 装画は亡き長岡裕一郎、本作りは俳人の宮入聖。 この冊子は9巻まで刊行されたようである。 秦さんは40代、藤原さんは30代、濃密な時間が費やされた典雅な遊びの本である。 巻末にある「あとがき」がその情熱を語っている。抜粋して引用したい。 (略)人は日常性からの逃避と呼ぶ。俳句という俗をかかえこみ、日常性のなかに詩を見出し座の文学と呼ばれて仲間との交流に重きをおく詩型に倚りながら、それら俳句にまつわる属性を切り捨てて、はたして俳句なのかという声をききながら「巫朱華」は三度目の雪を降らせることになった。限りなくつづく湿地のとごき現実に吸い込まれ、あとかたもなく消えてゆくのか。浮島のごとく白い小さな固まりを湿地のいづこかにとどめることが出来るのか。いずれ時の流れが決めてくれることだろう。この号を「妖雪の卷」と名づけた。夭折の美学への憧憬と雪の日の無音の世界に描く妖しい白日夢が少しでも表現出来ていれば幸いである。(略)この小冊子はいろいろな試みをおりこみつゝ発行しつづけるつもりである。 窓外には現の雪がちらつきはじめた。この年も終る。だが夢を紡ぐ心に終りはあって欲しくない。そう自らに言いきかせながら暮れてゆく窓外から目を転じるとテレビが大島のニュースを流していた。 秦夕美さんのご希望は「巫朱華」に掲載した作品を選んで一冊の本をつくって欲しいということであった。 作品は全部で12篇。 コピー原稿はその時に発表したレイアウトのままであり、それを再び再現して欲しいということ。 これはかなり大変な作業となり、わたしとスタッフの緑さんはいろいろと美しい案配になるようにと時間を費やした。 そうして出来上がった『夕月譜』である。 目次を見ていただければ分かるように「雪月花」がテーマとして貫いている。 古典から現代までの気持ちにかなう作品へオマージュをささげながら、それを題材にして俳句によって新しい作品世界を構築していこうというもの。さまざま切り口をみせながら美意識が貫いている。 すべての頁を紹介したいところであるが、ここには数頁にとどめる。 「雪卍」と題した作品群。「にごりゑ遺文」とあるように樋口一葉の「にごりゑ」からの着想である。 紙面を見ていただきたい。ゴチック体の雪が卍をつくっている。 「乱蝶」とタイトル。「好色五人女」と副題。「好色五人女」に題材をとっている。 十七句の俳句が縦書きにあるのだが、真ん中の七句のみ段を下げている。 最初の五句は雪という字がゴチックで×に交差し、真ん中は月が×に交差し、最後の五句は花が×に交差している。 そして真ん中を右から左はゴチック文字が横につらぬいている。 しらげしにはねもぐてふのかたみかな これは「野ざらし紀行」にある、芭蕉が杜国へ別れの際におくった一句である。 白げしにはねもぐ蝶の形見哉 なんとも凝った「乱蝶」の頁である。 このかたち、よく見れば「蝶」が羽をひろげた様にみえてくる。 もう一篇のみ紹介したい。 「定家曼荼羅」と題した2頁におよぶもの。 定家の世界をモチーフにした俳句がつづく。 その俳句の天と地にそれぞれ、俳句のはじまりと終わりの音がひらがなで表記されている。 天のほうのひらがなを右から読んでいくと、 はるのよのゆめのうきはしとだえしてみねにわかるるよこぐものそら 地のほうは、左から読んでいく。 みわたせばはなももみぢもなかりけりうらのとまやのあきのゆふぐれ と定家の和歌二首がおかれている。 なんとも甘美にして雅びな言葉遊びだろうか。 ここに費やされた豊饒な時間を思う。 いい時代だったのかもしれない、とも。 本書の秦夕美さんと藤原月彦さんの「あとがき」を抜粋して紹介したい。 秦夕美さんの「あとがき」である。 もう四十年以上も前のこと。赤尾兜子先生から、藤原月彦という名を教えられた。一九七七年、私が第二句集『泥眼』を出した時、「渦」で特集を組むから、この人たちに句集を贈るようにと渡されたリストの中に、その四文字があった。経歴も年齢も何も知らぬまま、指示どおり句集を送り、赤尾先生が亡くなられるまでは、「渦」誌上や大会での交流が続くことになった。 先生の突然の死。それから一年後、桑原三郎さんが「犀」を立ち上げ、藤原さん共々、創刊同人として参加。俳句上の父を亡くした者同士、いわば孤児の心細さゆえか、個人的に話をする機会がふえた。今まで読んできた本、好みの作家が同じであることは、世代を超えて共鳴することが多く、「巫朱華(プシュケ)」という小冊子の発行を思いついた。 外に求めてもないのなら、自分で作る。それが私の生き方でもあったし、同じ九州人の血のながれている藤原さんには、すんなりと通じた。丁度、宮入聖さんが出版社を立ち上げた頃、そこにお願いすることで話は決まり、書き下ろしで俳句や文章を書くうちに、共同制作をやってみようという事になった。テーマを決め、電話や手紙(当時はメールなど一般的ではなかった)のやりとり、「ここはこんな言葉を使ったら? こう表現したら?」今はどちらがどんな言葉を使ったかも定かではない。まあ、言うなればゲーム感覚で仕上げたが、読書体験が似ていたことが、それを可能にしてくれたのだと思う。 藤原月彦さんの「あとがき」は、 共同制作はいつも秦さんがテーマを決めて、私が従うというかたちだった。作品自体も秦さんが何句かをつくり、残りを私が埋めることもあったし、ごく希にその反対もあった。で、この本をつくるにあたって、読み直して驚いたのは、どの句をどちらがつくっていたのか、完全に思い出せなくなっていることだ。これは当時の秦夕美と藤原月彦の言葉に対する美意識が、一ミリのずれもなく一致していたことの証左だろう。 一連のテーマとなる物語や本歌を決めて、一句の文字数を統一、図形を決めて、特定の文字をその部分に詠み込む、さらには、頭韻と脚韻を同時に踏む。まあ、俳句という形式の虐使であり、よくいえば言葉のサーカスだった。こういう試みはもはやできない。昭和の終わり頃の一時期、こんな狂言綺語の試みに耽溺していた者たちがいたということである。 「どの句をどちらがつくっていたのか、完全に思い出せなくなっていることだ。」というのには驚いた。そういうものなのか。 それほど波長があい、美意識が響き合っていたのか。 驚嘆するばかり。 そういう相手を見出し、ともに言葉の世界で遊ぶことができた、ということは表現者としてなんとも仕合わせなことだ、とわたしは思う。 さて、この本の造本は、「三ツ目閉じ製本」というもの。 冊子「巫朱華」はホッチキス止めだった。 わたしはこの本の製作を引き受けたときから、ホッチキス止めにはしたくないと思った。 秦さんはすべて任せるとおっしゃった。 で、製本屋さんを呼んで、かつて見た「三ツ目閉じ製本」の見本をわたし、「こんなふうな本がつくりたい」と頼んだのだった。 「三ツ目綴じ製本?やってるとこあるかなあ」ということで探してもらい、どうにかそこまでこぎつけたのだった。 装幀は君嶋真理子さん。 こういう優美な世界は君嶋さんは得意である。 紫と肌色を用意したところ、秦夕美さんと藤原さんはすこし迷われて、「肌色」を選ばれた。 夕暮れを思わせる色だ。 タイトルはツヤ有り金箔。 本文がはじまる前とうしろに薄紙を挟んだ。 ここで問題がおこったのだ。 薄い紙はできない、というのだ。 わたしは見本を探し出し、できないはずはないからやって欲しいと頼んだ。 すると手間暇がものすごくかかるという、コストもかかるとも。 しかし、厚い紙なんかもってきたぶちこわしである。 時間がかかってもいいから、やって欲しいとねじ込んだ。 秦さんと藤原さんは待ってくださるということ。 和紙である。 このやわらかな手ざわりがいい。 三ツ目綴じ製本。 白い糸をつかって手作業で綴じていく。 間紙が薄いとさらに大変になるらしい。 出来上がったときは感慨無量だった。 もっちろん、おふたりとも大変気に入ってくださった。 「あの時だから出来たのね。いまでは絶対出来ないわ、若かったのよ」と秦夕美さん。 「昭和という時代の影響もありますね」と藤原月彦さん。 長岡裕一郎さんの装画、宮入聖さんの本作り、昭和がおわるころの若い俳人たちの詩歌への熱狂のようなものがこういう作品を生み出したのかもしれない。 「共同作品は昭和五九年四月~六三年三月に「巫朱華」誌上に発表したものである。」と秦さんの「あとがき」にある。 今日はお客さまがお一人あった。 黒澤さやさん。 黒澤さんは、俳誌「椋」(石田郷子代表)に所属しておられる。 この度、初めての句集を上梓することになり、その相談にお見えになられたのだった。 担当はPさん。 いろいろな資料本をご覧になって、クータバインディング製本のものをお選びになった。 伺えば、最初は違う本をイメージされていたらしいのだが、いろいろと見本をご覧になるうちに心がそちらに動かれたらしい。 句集名は「会釈(えしゃく)」。 「いい題ですね」ってわたしは申し上げたのだった。 「仙川っていい町ですねえ!」と、明るい笑顔を残されてお帰りになったのだった。
by fragie777
| 2019-12-04 19:43
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||