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11月13日(水) 地始凍(ちはじめてこおる) 旧暦10月17日
飯能市名栗の冬紅葉。 まだこれからである、赤く染まっていくのは。 今日は午前中に近くの病院に交替で行って、パートさんを除くふらんす堂スタッフの全員がインフルエンザの注射をすませた。 注射が苦手なスタッフもいれば、注射が得意(?)なスタッフもいる。 わたしはどちらかというと平気な方かな。 注射が平気なんて、そう褒められることでもないけど。 今年はすでにインフルエンザに罹ったという人がいるって聞いた。 一応は一安心。 ちょっと前の記事となってしまうが、10月14日づけの讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は藤永貴之句集『椎拾ふ』より。 鯊舟を下りてまた釣る鯊の秋 藤永貴之 鯊の秋というとおり秋は鯊の季節。鯊を狙って出すのが鯊舟である。天気のよい日には沖に何艘も浮かんでいる。釣り足りないか、釣りの気分を味わい足りないのか、鯊舟の人が突堤の人となって糸を垂れている。句集『椎拾ふ』より。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯あり 210頁 二句組 著者の河瀬俊彦(かわせ・としひこ)さんは、昭和18年(1943)香川県高松市生まれ、現在は埼玉県所沢市在住。平成20年(2008)4月に「遠嶺」主催の「俳句入門講座」を受講してより俳句を始める。その同じ年の10月に「遠嶺」に入会するも平成22年(2010)に小澤克巳主宰が急逝され終刊となる。平成23年(2011)「爽樹」創刊。現在は「爽樹」幹事長。俳人協会会員。本句集は平成20年(2008)より31年(2019)までの作品を収録した第1句集である。序文を川口襄主宰が、跋文を小山徳夫氏が寄せている。 序文を抜粋して紹介したい。 熊蟬の独占したる島の昼 初凪の島より島へ郵便船 はらからの集ひて島に春惜しむ 初凪や人より猫の多き島 河瀬さんは昭和一八年に、五人兄弟の次男として香川県高松市に生まれ、三歳より中学卒業まで「女木島」で育ったのである。ご両親が教育者であり、昭和(二一年に父上が女木中学校の教頭に、母上が女木小学校の教員として赴任するため、一緒に島へ渡ったのだという。 「女木島」は、高松市の北の瀬戸内海に浮かぶ小島で、昔話の桃太郎に登場する鬼が住んでいたとの伝説が残っており、別名「鬼ケ島」とも呼ばれている。高松港からフェリーで約二〇分の位置にある。周囲は約九キロ、北北東に約四キロ、東西に約一キロの細長い形をした島である。 島の人口は一六八人の過疎の地。確かに猫の数の方が多いのだろう。(略)道路に信号機がなく、電気が通じたのが昭和三五年、簡易水道が完成したのが昭和五一年というから驚きである。 三人の閉校式や島は春 廃校の母校を訪へば初桜 昭和三三年、女木中学校卒業と同時に同校は廃校のため、河瀬さんは最後の卒業生(二三人)となった。(略)豊かな自然に恵まれ、自然を相手に遊び回ったことが、今日俳句を作る上の指針になっているかも知れないと、河瀬さんは述懐しておられる。 瀬戸内海の島のひとつに「女木島」という島があることを恥ずかしながらわたしは今認識した。しかも桃太郎の鬼ヶ島の島らしい。そんな島で過ごした子ども時代。幼少の頃に培われたものは大きい。この島での体験はしたくてもできるものじゃない。著者河瀬俊彦さんの原風景となっているものだとわたしも思う。 跋文の小山徳夫氏も、 おむすびの如き故山や春の雲 夕凪や石垣高き島の家 春耕の背を伸ばせば瀬戸の海 河瀬さんは三歳から中学卒業までを瀬戸内海の女木島に育っており、「自然に囲まれ、自然を相手に遊びまわったことが俳句を作るうえで役に立っているかも知れない」と述べているとおり、句集名の「箱眼鏡」がまさにその望郷の思いを代表している。河瀬さんの望郷の「情景俳句」は、景を詠みながらしみじみとした望郷の情を滲ませている。 と、「望郷の情」に触れている。 本句集を担当した文己さんは、 父の背は大き浮輪や沖めざす 初夏の風を両手に一輪車 噴水の水の命を輝かす 雨を得て色を極むる鶏頭花 魂を野分の海に奪はるる 春の風紙飛行機に乗つて来ぬ ゼロ並ぶスコアボードに西日かな 東京に迷ひ込んだる雪女 目隠しの手のやはらかき夕涼み いつしかに妻の雑煮は母の味 芽柳の少年ほどの色であり 目隠しの手のやはらかき夕涼み あげた句のなかにこの一句に◎がつけてあったので文己さんの一番好きな一句とふんだ。実はわたしもチェックをした句である。ひんやりとしたやわらかな手をわたしも自分のまぶたに感じてしまいそうな一句である。「夕涼み」が季語。お孫さんでもあろうか、うしろにまわっておじいちゃんに背伸びをして目隠しをした。おじいちゃんもピンときたが、誰だなんていわないでお孫さんの手の感触を楽しんでいる。多忙な生活圏からははずれて時間にゆとりを持った人の句である。およそ孫の手の感触をたのしむゆとりはやばりじじばばになってしまうか。この一句、そんな風に人間を規定しなくてもいいのかもしれないが、そうでないとあまりにも色っぽい一句となって、すこしあけすけな色っぽさは好みではないので、やはり小さな手としておきたい。 父の背は大き浮輪や沖めざす 回想の一句であろうか。島にそだったからこそ生まれた一句かもしれない。沖をめざして泳ぐお父さんの背中にのっかっているのだ。素晴らしい父であり、こんな信頼に足る浮き輪はない。この一句、わたしも父の背にのっかって島を背後に沖に向かっていくような気持ちになる。いいなあ、こんな父の思い出をもっている人は。この幼子に瀬戸内海はどんな風に見えたのだろうか。のびやかに育った少年時代。 簡素なる父の戒名雲の峰 前のほうにある一句である。これはわたしの好きな一句であるが、偶然、浮輪となったお父さんのことだっていま抄出して思った。「簡素なる父の戒名」というのが素敵である。人口わずかの島に赴任し、ご夫婦で子どもたちの教育あたられたご両親である。立身出世や名誉栄達をもとめず、豊かな島の自然のなかで子どもたちとともに時間を過ごされたのであろう。時には子どもを背中にのせて大海へと泳いでいく。「簡素なる父の戒名」にはそんな父の父らしさがこめられている。「雲の峰」が父の誇らしさを伝えている。 桑の実やまぶしき母の割烹着 こちらは母の句である。お母さまも教育者であられた。島の子ども達を夫と一緒に教えておられたのである。著者の河瀬さんにとっては、島の先生であると同時に割烹着を着て働くお母さんであったのだ。白い割烹着をきて、甲斐甲斐しくはたらく母は作者の目にはとりわけ輝いてみえた。桑の実が真っ赤に熟れている。青く光る海、真っ赤な木の実、そして母の真っ白な割烹着、わすれられない母と島の記憶である。 私が句集を出すことを考えたのは、俳句を始めてから十年が過ぎ、喜寿を目前にした今、これまでの句を振り返るのも、それなりの意味があるのではないかと思ったからである。(略) 句集名「箱眼鏡」は「深きより海神(わだつみ)のこゑ箱眼鏡」によるもの。子供のころ素潜りをして海の中のさまざまな音(船のスクリューの音、波の音、魚の声)を聞いていた。また、学生時代に読んだ『きけわだつみのこえ』も頭に残っており、それら がないまぜになって出来た作品である。 「あとがき」より抜粋して紹介した。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 著者の河瀬俊彦さんのご希望は、「一見平凡にみえるけど味があるもの」というご希望。 これはなかなかハードルの高いご希望だ。 君嶋さんはそういう著者の気持ちに応えるべくいくつものラフ案を作った。 そして決定したものがこれである。 タイトルは黒メタル箔。 多くの色をつかわず紺系ですっきりと。 表紙はやや緑がかったブルー。 写真よりも若干濃い。 背は黒メタル箔。 見返しもやや緑がかった渋いブルー。 扉。 花布は紺と白のツートンカラー。 栞紐は、紺。 海を思わせるイラストである。 父母の亡き島へ帰省の橋渡る ふるさと「女木島」での幼少の頃の原体験が、本句集全体に主旋律となって、静かに、豊かに、滔々と流れている。そして帰るべき「心のふるさと」を持つ河瀬さんが羨ましいと思う。 「序」より。 薄氷のあはひを雲の流れけり 好きな一句である。写生句だ。「薄氷(うすらい)」が春の季語。うっすらと張った氷、すぐにとけてしまうようなはかない氷である。すでに割れてその間にはゆるみはじめた水が空を映している。そこを雲が流れた。その発見の感動もつたわってくる。この一句はその内にゆったりとした時間の経過を含んでいて人の心も春となってほぐれてきたことを思わせる、そんな感触のある一句となった。 本句集の作者の河瀬俊彦さんといい、先日校了にした「天頂」主宰の波戸岡旭さんといい、瀬戸内海の小さな島でそだった方の著書にふれる機会となった。 島の自然はとても豊かであることを知った。 波戸岡氏のエッセイ「島は浜風」には、果物を題材にしたエッセイが豊富で、さきほどの「桑の実」も出てくる。それはもう美味しくて厭きるほど食べたとエッセイにあった。 そういう桑の実なのである。 わたしのように秩父の山に囲まれて育った人間には、瀬戸内海の島なんてまるでまるで異郷である。 どんな少女時代となっただろう、なんて思ってしまう。
by fragie777
| 2019-11-13 20:38
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