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11月5日(火) 旧暦10月9日
昨夕、駐車場からみあげた空。 冬の気配をなんとなく感じる空である。 昨日はまったりとした日を過ごし、仕上げは近所のお寿司屋さんに行って、大いに飲み大いに食べた。 このお寿司屋さんは駅から離れた住宅街のなかにあるので、安くておいしいのだ。 そこのメニューに「藤五郎鰯(とうごろういわし)の素揚げ」というのがあって、そばのお客さんが頼んでいたのでソイツを頼んでみた。 「藤五郎鰯」ってご存じ? わたしははじめて。 それがこれ。 素揚げであるが、小さな鱗が立って衣をまぶしたようになる。 始めて食べたのだけど、魚の香気が口にひろがり歯ごたえがシャキシャキとして美味しかった。 そして、鰭酒。 身体も心もあったまりました。 なにしろ家から歩いて数分のところなので、酔っ払ってもすぐに家についてしまう近さ。 こころおきなく、おおいに飲んで家までの道を良き気分で帰ってきた次第。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装 150頁 著者の花輪とし哉(はなわ・としや)さんは、昭和6年(1931)東京に生まれ、東京在住の俳人である。経済学を専門とする大学の先生でもおられた方だ。昭和53年(1978)に「萬綠」に入会し、中村草田男に師事、平成7年(1995)「萬緑」同人。「萬緑」は終刊まで所属しておられた。句集に『モーゼの角』、『冬の虹』がある。『冬の虹』は平成29年(2017)にふらんす堂より刊行。 本書は、雑誌「中央評論」(中央大学出版部)に掲載されたものを一冊に収録したものである。 本著は第1部と第2部に分かれ、 第1部は、「正岡子規の横顔」として子規論、第2部は「中村草田男とキリスト教」として草田男にとっての信仰に言及している。 第1部は、7章にわかれている。このブログでは第1章の「正岡子規の金銭感覚」と題したものより抜粋して紹介したい。 子規の金銭感覚はどうだったのだろうか。 子規に『仰臥漫録』という本がある。子規三十五歳の明治三十四年に書き始めたといわれている。当時すでに自力では寝返りも打てない重病人であった子規が、仰向いたままの姿勢で半紙に毛筆で書き綴ったものと言われている。その中で、事細かにものの値段等を書きとめている。 「伊藤候ノ薩摩下駄ガ桐ノ柾デ十五圓、落語家圓遊ノ駒下駄ガ何トカノ鼻緒デ七圓」とか「母オミヤゲ燒栗一袋(十個入二銭)」、「夕飯 鰈一尾(十四銭)」、「鰻飯一鉢(十五銭)」のような個別価格の表示もあるし、また書生時の収入について常盤会の給費毎月七円、大学在学中は同給費十円(当時の下宿料四円)で、五十円の月給が夢であったことが記されている。 この月給五十円の夢は、果たされていく。 日本新聞へ入社した明治二十五年、月給は十五円であったが、二十六年から早くも二十円になり、二十七年「小日本」新聞に関与することになり月給は三十円となり、「(月給が)三十圓ニナリテ後ヤウヽヽ一家ノ生計ヲ立テ得ルニ至レリ 今ハ新聞社ノ四十圓トホトトギスノ十圓トヲ合セテ一ヶ月五十圓ノ収入アリ 昔ノ妄想ハ意外ニモ事実トナリテ現レタリ 以テ満足スベキナリ」と述べている。このうち四十円に増額した時は︑物価上昇の結果社員全員が増額したのであり、今までのような自分の実力での増額ではなかったことも記されており、物価騰貴などにも関心のあったことを示している。月給五十円となり若き日の希望が達せられた時の句と思われる二句。 夕顔ノ実ニ富ヲ得シ話カナ (宇治拾遺) 鶏頭ヤ糸瓜ヤ庵ハ貧ナラズ 本著によると「子規は以上に衣食住に関心を持っていた」とあり、 「虚子(九段上)十六圓 瓢亭(番町)九圓 碧梧桐(猿樂町)七圓五十銭 四方太(浅嘉町)五圓十五銭 鼠骨豹軒同居(上野涼泉院)二圓五十銭 吾廬(上根岸鴬横町)六圓五十銭 ホトヽギス事務所 四圓五十銭 把栗(大久保)四圓 秀真(本所緑町)四圓(畳建具ナシ)」 これよりすると当時持ち家は少なく、皆借家であったこと、および虚子は、子規の家賃(六円五十銭。後掲の句では五円)や他の俳人と比べ超高級な家を借りていたことになる。またホトトギス事務所は、それほど高くないところに借りていたことになる。虚子時代に入って、丸ビルの中に事務所が入るが、それはかなり高かったのではなかろうか。 担当スタッフのPさんは、「虚子って子規よりもずっと良い家に住んでたってことがわかったのが面白かった」と。 虚子は暮らしが潤沢だったのだろう。 第7章の「子規の墓碑銘」と題した章に、その墓碑銘が記されている。 正岡常規又ノ名ハ處之助又ノ名ハ升 又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人 又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東 京根岸ニ住ス父隼太松山藩御 馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養 ハル日本新聞社員タリ明治三十□年 □月□日没ス享年三十□月給四十圓 (注)□は空白を示す。実際は「明治三十五年九月十九日没ス享年三十六」とあるべきところである。 「月給四十圓」とあるのが面白い。金銭へのこだわり、わたしには健康的なこだわりに思えてきて、嫌味がないが。 第一部は、ほかに子規の二章「季語感」、三章「言文一致論」、四章「俳句の社会性」、五章「女性観」、六章「芭蕉感」について言及している。 第二部は,草田男論であるが、おもにキリスト教の信仰の面から捉えた草田男論である。著者の花輪とし哉氏はカトリック信者でおられるので、草田男の信仰がいかなるものであったか、草田男に大いなる影響をあたえた哲学者ニーチェの思想と拮抗するなかでの信仰などに触れている。草田男の信仰にかかわる一句をあげ、それより論を発していく。全部で22句、ここでは「勇気こそ」の有名句についての章を抜粋して紹介したい。 勇気こそ地の塩なれや梅真白 (昭和十九年作) 中央線の立川駅で乗り換えて、五日市線の武蔵増戸駅で下車、単線の線路に沿って歩く事二十分程で、カトリック教会に出会う。そのあたりから坂道となり、カトリック墓地が始まる。 草田男の墓地は、丘の上部にある。(略) 墓地は西欧式のいわゆる寝墓で、わが国ではまだ珍しいものの一つであろう。その墓の上に、「勇気こそ地の塩なれや梅真白」の句が彫られている。草田男の代表句は、他にも多いが、夫人の希望だったと伺っている。もちろん草田男の同意があったことも事実である。(略) 昭和十九年の春、成蹊大学の教え子三十名が「学徒出陣」する「かどで」に際して、無言裡に贈った俳句と「自句自解」の中で述べている。草田男は死の直前にカトリックの洗礼を受け、この句ができたときはまだ信者ではなかったのであるが、聖書の文句である「地の塩」という語については、馴染み深い語であったのではないか。もちろん草田男の年齢からすれば、内村鑑三や新渡戸稲造などのキリスト教の話を聞いていただろうから「地の塩」という語はよく知っていたと思う。(略) 昭和十九年といえば、戦線が拡大し、まだ出征するには早い学生が「学徒出陣」という美名の下に、戦線に送られたのであるから、学生の多くは、自分の目指していた学問を止めて出征せざるをえなかったし、戦場に行けば死もまた必然と考えられたので、自暴自棄、絶望、不安に苛まれたこともあったであろう。それゆえ勇気がまず必要と考えられたのであろう。まだキリスト者でなかった草田男にとって、「地の塩」を詠み込んだことはやや勇み足と考えられなくもない。しかし当時のインテリであった草田男が教養として聖書に通じていたとしても、それ程おかしくはないだろう。さらに草田男の家族が熱心なカトリックの信者であったことを考えれば、「地の塩」を詠み込んだとしても非難されることはないだろう。 問題は、草田男がこの句でどんなメッセージを贈りたかったのかということである。真っ白な梅が今庭前に凜々と咲いている。その中で学業途中の教え子を戦地へ送らねばならなかった教師の心が問われているのである。「今こそ勇気が必要なのだ。勇気は地の塩である。いろいろと不安も心残りもあるだろう。しかしここで迷っていたのでは、駄目なのだ。勇気こそ大事である。梅も自然に真っ白に咲いているではないか。心安らかに出征しなさい」というメッセージが私には伝わってくる。この句が反戦句だったと言う人もいるが、私には、そのようには感じられない。 竹橋の国立近代美術館で、藤田嗣治画伯の展覧会があり、拝見する機会があったが、一番心打たれたのは、戦争時に描いた、もしくは描かされた絵、「アッツ島玉砕」とか、「サイパン島同胞臣節を全うす」などが並んでいたことだった。藤田は、戦争画を描いたことで、戦後の日本の画壇から爪はじきされ、日本を去りフランスに帰化することになる。いくら心の中で、反戦であったとしても、軍部の命に従って絵を描いたということが当時の画家達に認められなかったのだろう。画家にとって、絵が描けなければ画家で居られなくなるからである。何が何でも絵を描きたかったのだろう。その上画家がすべて反戦でなければならないということはない。あの時代である。戦争に協力的であったとしても充分共感できる。むしろあの時代の作品を駄作としてすべて抹殺する態度に疑問を感じるのである。人間は弱いものと考えれば、意に反した作品でもその折、情熱を込めて作ったものならば、生涯を通して評価するようにしなければ本当の評価にはならないだろう。そうした意味で、この草田男の句は、必ずしも反戦句でなくとも、良いのではないかと考える。 巻末の「私の中村草田男」で、著者の花輪氏は、草田男におけるキリスト教の信仰についてこのように書く。 中村弓子氏は、その著『わが父草田男』で、「父の洗礼のことなど」を書き、父である中村草田男の洗礼のことを書いて居られる。それ故中村草田男が真実カトリックの信者になられたことは疑いはない。しかし、それで草田男の創作した俳句がキリスト教俳句であったと言えないのではないか。生前の草田男は、むしろニイチェに心酔していたようである。ニイチェは、むしろ反キリスト教であり、当時の知識階級の拠り所であったと思われる。その意味で、草田男も当時の知識階級の一人であったのではないかと考えられる。生前、成田千空が、よく草田男の作った俳句はキリスト教俳句であるかという質問をされたことがあるが、それはまさに成田千空も草田男のキリスト教俳句を気にされていたからもしれない。第一の選者であった香西照雄も、第二の選者であった北野民夫も、草田男のキリスト教との接点について何も言及していない。反対に、積極的にキリスト教徒としての草田男を強調する俳人もいる。例えば、かつては「萬緑」同人であり、そして後の「方舟」主宰の宮脇白夜である。意見が真二つに割れている。私は、むしろ草田男俳句はキリスト教俳句と距離をおいていると考えている。その意味で草田男のキリスト教俳句の解釈は十分慎重に行われるべきものと考える。もちろん草田男は、キリスト教の良き理解者であることは否定できないであろう。 本著における中村草田男の句は、キリスト教という観点にたって抄出されたものであり、そういう意味では、草田男のキリスト教にまつわる俳句を知るにはよき資料となるのではないだろうか。 本著の装丁は和兎さん。 ラフイメージを何案か用意したときに、花輪氏は「蜻蛉」の図案を気にいられたのだった。 表紙。 見返し。 扉。 ![]() 本書の「前書き」に、花輪氏は、本書は第三部を予定していた、と書かれている。 「俳句における虚子の存在は大きい。いまだその全貌をつかみきれないでいる。それ故、本書では割愛せざるをえなかった。いつの日かきっかけをつかみたいものと考えている。私にとっては、また草田男が虚子から別れた理由が、わかるようで、わからないのである。いつの日か再び挑戦したい。」と。 是非に挑戦していただきたいと思っております。 2018年9月にふらんす堂より中村ひろ子句集『ドロップ缶』を刊行したが、本句集が第22回自費出版文化賞の特別賞を受賞した。 中村ひろ子さま、ご受賞おめでとうございます。 ![]() ![]() この句集『ドロップ缶』はすでに品切れで著者の中村ひろ子さんのところにももう在庫がなくなりつつある、ということで、この度、中村ひろ子さんのご希望で、POD(プリントオンデマンド)にて入手が可能となった。 PODとは、一冊一冊注文に応じて作成するものである。 欲しい方はAmazonもしくは三省堂にて入手できます。 Amazonはこちらから↓。 右が本来の句集。 左がPODのもの。 ペーバーバックスタイルであること、本の用紙は選べないこと、そういう制約はあるが、句集を読むということにおいてはなんの差し支えもない。 在庫がなくなったときに、版が対応できればこういう選択もあります。 著者が欲しいという人にご自身で購入し、差し上げることもできるのです。
by fragie777
| 2019-11-05 18:14
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