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11月1日(金) 旧暦10月5日
茶の花。 小さな花であるが、蘂がゆたかでたっぷりだ。 昨今は会社の情報を知ろうと思えば、その会社のホームページに行けば、おおかたのことはわかる。 わたしも必要があって、親しい人間が最近就職したというある会社のホームページに行ってみた。 会社概要というのがあって、代表者の顔写真とともにご挨拶がある。 おお、しっかりした会社であることよ、などと思って安心したりする。 それで、思ったのであるが、ふらんす堂のホームページはどうだったけかな、と思って行ってみた。 「会社概要」があって「なかなかいっぱしじゃん」って思った。 ところがどうだろう。代表者の言葉なんてなくて、いろんな動物の漫画があって、それぞれが自分の仕事について勝手なことを喋っていて、なんともまとまりのない、見る人によっては(ふざけた会社概要とも)思われるものになっている。 自分で作ってもらったものであるはずなのに、ちょっと呆れてしまった。 よくこれで社会に通用するわねえ、皆さんよくお仕事をくださるものだわ、と。 今朝、数年前に新卒でふらんす堂に入ってくれた文己さんに思わず言ってしまった。 「ご両親たち、ふらんす堂に不安がらなかった? 訳わかんない会社なんてお母さまは思わなかったかしら」 「ふふふ、母はyamaokaさんてどんな方かしら、って最初言ってました。でもいまはブログを見て面白がっているみたいです」 「良かった!でもやっぱり最初は不安よねえ、顔写真のかわりに帽子をかぶった猫ですもんねえ」と、わたしが言うと、 「そうですよ、たまに写真を載せたりしたとしても指五本の靴下を穿いた足ですからねえ」とPさん。 ありゃまっ。 「あはははは……」と能天気に笑うわたしたち。 ほんとこんなんでいいのかしら、と思いつつ、お仕事を有りがたくいただくyamaokaである。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り。 210頁 二句組 著者の佐藤海(さとう・かい)さんは、昭和34年(1959)岩手県千厩町生まれ。平成9年(1997)俳誌「草笛」により俳句をはじめる。平成9年(1998)年より平成29年(2017)まで俳誌「門」に所属、平成30年(2018)に「南風」、現在に至る。津川絵理子・村上鞆彦に師事。平成14年(2002)草笛新人賞、平成18年(2006)門新人賞を受賞されている。本句集はこれまでの25年間の作品380句を収録した第1句集である。序文を村上鞆彦主宰が寄せている。 佐藤海さんは、以前は「門」に拠り鈴木鷹夫氏に学んでおられた。その鷹夫氏の死後、「南風」に入会。一度投句の絶えた時期もあったが、再び投句を開始し、現在では東京例会はじめ大阪の中央例会やその他の句会にも積極的に出席しては熱心に俳句に打ち込んでおられる。このたび句集を上梓する運びとなったのは、六十歳という節目を迎えて何か心に萌すものがあったからだろう。本来であれば、この序文の筆は鈴木鷹夫氏が執るべきものであるが、残念ながらそれは叶わない。代わりに不肖ながら私が執り、この句集へのはなむけとしたい。 という書き出しで序文ははじまる。抜粋して紹介したい。 白梅か紅梅かこの少年は まさに夢幻能の一場面を思わせる。著者は清らかな少年を前にして、この子は白梅の精か、または紅梅の精かと問うている。色白で頰に紅の差した美しい少年なのだろう。成長して男と女とに性が分化する前の、両性具有の美を貴ぶのは日本の伝統的な美意識の一つ。白洲正子の著作にも詳しい。繊細かつ優美、この句はこの句集のなかでも屈指の作として推奨したい。ほかにも著者のナイーブな感覚の生きた句を挙げると、 餅花の花になりたく揺れてをり 鉛筆で描きし枯野の匂ひけり 暁のことにさくらのこゑ聞こゆ 積み藁のはるかに秋の雲一朶 白息のつぎの言葉を待ちにけり 臘梅のはつかに月の色宿す など、数多い。東北の風土性の息づく凜とした佇まいの句がある一方で、こういう優しく柔和な感性の生きた句も並んでいるところに、この句集が醸す豊饒な香りの所以が存していると言えよう。(略) 句会やその後の酒席で俳句について語るとき、ふだんは柔和な著者の語気に一瞬熱いものが混じることがある。眼差しにも強い光が宿る。そのときの「瞳の色」は、一体何を物語っているのか。自らの俳句の進むべき道を、どこに見定めようとしているのか。それを確認するために、今後も句座を共にし、著者の生みだす俳句に注目してゆきたいと私は思っている。 序文で「柔和な著者」とあるが、佐藤海さんは何度かふらんす堂にいらしてくださったが、いつもニコニコされてよく笑うとても気さくな方という印象が強かった。しかし、こうして句集を拝読すると、その印象を裏切るような繊細にして詩情あふれる作品が多く、わたしたちスタッフはいい意味で裏切られた感がある。ええ、佐藤海さん、こんな細やかな句をつくられるんだって、(ごめんなさい、佐藤さん) 担当は文己さん。 白梅か紅梅かこの少年は 湧水のひかりの中に葱洗ふ初夏やつぎつぎ波の力瘤 鉛筆で描きし枯野の匂ひけり 虎杖に気だるき風のとほるなり 蝸牛明るき雨を進みけり 虹たちて風新しくなりにけり ががんぼのすり寄つてくる故郷かな 遠慮なきはらからのこゑあたたかし 白息のつぎの言葉を待ちにけり 鉛筆で描きし枯野の匂ひけり この一句は、村上主宰も「ナイーブな感覚の句」としてあげておられたが、おもしろい一句だ。「枯野」が冬の季語。枯野に立っていると特有な匂いがする。「草も枯れ、虫の音も絶え果てた蕭条とした野原をいう」と歳時記にある。色彩をうしない、音を失い、しかし、嗅覚はそのなかで研ぎ澄まされるのかも知れない。だが、ここで匂うのは鉛筆で描かれた枯野である。それが面白い。鉛筆で描かれたモノトーンの世界、それを見つめていると枯野にたっているような感覚に襲われふっとその匂いが鼻をついたのかもしれない。画用紙に描かれたものか、その画用紙の匂いと鉛筆の匂いが枯野の匂いを思わせたのか、あるいは「枯野」を充分に味わい経験した者であるゆえに、鉛筆でさっと描かれた絵にもその匂いを思い起こすことができたのか、いずれにしてもこの句の面白さは、「鉛筆で描きし枯野」という視覚でとらえた枯野を、「匂ひけり」という措辞によって嗅覚に転換してみせ、そこに枯野を立体的呼び起こしたことだと思う。巧みな一句だ。 白息のつぎの言葉を待ちにけり 「白息」が冬の季語。寒い日に人と向かいあっている。ここは単なるお喋りではない。ある緊迫した関係のなかで会話をしているのだ。相手が何かを話した、白い息がよく見える。厳寒のなかで向かいあっているのだろう。いったいどんな言葉を返してくるのか、固唾を呑んでいる作者の緊張したさまも見えてくる。つぎの言葉は音でくる、しかし白息は目にみえるもの。ここでも視覚から聴覚へとさりげなく変換する場面が一句に仕立てられている。 雨脚の見えて青梅匂ふなり この一句はわたしが面白いと思った一句である。さりげない一句なのだが、この一句もそう、「雨脚の見えて」と視覚に訴えて、「青梅匂ふ」とこちらは嗅覚に転ずる、その転じ方がとても自然であるので、作為でそうしたのではないと思うが、佐藤海さんは五感が鋭い方なのではないかと思った。そしてこの句も繊細な一句である。 少年の自分へ逢ひに落葉踏む 好きな一句。甘い句であるのかもしれないが、いいなあって思う。「落葉踏む」が、人生を生きてきてそうそうそれなりの苦渋もあったらしい男をおもわせていいんじゃないって思う。もう若くない男だよね。その前の一句に「ポインセチア男にもつと棘欲しき」というのがあって、すこし笑ってしまったが、なんともこれも自身の内面をみつめてややため息をついている男を思わせる。優しい人なんだ、きっと佐藤海さんは。後半に「ナイフ錆び鉛筆は禿(ち)びわが晩夏」という句もあって、やや自嘲的な句であるが、ユーモラスで好きな一句だ。 ほかに、 雲ひとつなき空に触れ楤芽摘む 子を抱きて冬日に抱かれ童歌 冬耕の遠きひとりも帰りけり 柿林檎肌着と詰めて送りけり 幾時雨過ぎたる石に去来の名 ハンカチを折りて畳みて言葉継ぐ 白障子母のこゑして開きけり おかへりと母言ふ菊の揺るる中 初糶の箱をしたたる潮かな 先師鈴木鷹夫は朴の花のような師であった。亡くなられても、常に仰ぎ見る先生である。鈍なる弟子として膝下に学ばせていただいたことは、宝であり深く感謝を捧げる以外にない。 現師村上鞆彦主宰は泉のような人である。静かで透明感のある句を作られる。若いながらも感性と指導力は他の方々にひけを取らない。巡り合えたことは僥倖だと思う。 先師を火とすれば現師は水だろうか。おふたりに共通しているのは俳に詩性があるということ。 このふたりの師に学んだ二十五年間の作品より三百八十句を以ってこの『瞳の色』を編んだ。私にとって初めての句集である。 顧みて、本当に進歩の遅い弟子である。この二十五年の歩みの遅いこと。語彙の貧困は隠すべくもないが、「俳句が好き」だけでここまでやってきた。俳縁にも恵まれた。感謝してもしきれない。 「あとがき」を抜粋したが、なかなか素敵なあとがきである。 火の鈴木鷹夫、水の村上鞆彦。 わたしはなるほどと深くうなずいたのだった。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 「瞳の色」の装丁はちょっとむずかしかったのではないかと思うが、 佐藤海さんは、「青」を希望された。 句集名になった句 「玄帝の瞳の色に晴れわたる」の空が青だったとのこと 。 タイトルは黒メタル箔。 表紙。 見返しはブルーの用紙。 扉。 鮮やかなブルーが美しい一冊となった。 玄帝の瞳の色に晴れわたる 「玄帝」とは、冬を神格化した表現である。著者は冬晴れの空を仰いで、その澄んだ青色を「玄帝の瞳の色」と直感した。これまでに見たことのない鮮やかな比喩である。これによって、あたかも空全体が神の瞳であり、それに我々人間が見下ろされているかのようなスケールの大きさも出てくる。感覚の冴えと壮麗さとを兼ね備えた堂々の一句である。 村上鞆彦序文より。 蛍見し子をまんなかに眠るなり 好きな一句だ。 蛍を見た、ということが特別に素敵なことであったのだ。子どもにとっても大人にとっても。あるいは、蛍を見たのは、子どもだけだったのかもしれない。蛍を見たことを興奮して廻りの大人に語ってきかせたのかもしれない。いずれにしても子どもにとっても大人にとってもそれは、この世の一大事であって、たいへん大切なことなのだ。その素敵なことを経験した子どもをはさんでこうして寝ることの安らぎと幸福。子どもが蛍を見たということ、それだけでわたしたちは充分に仕合わせになれるのだ。 こんな風に詠まれた蛍は、はじめてである。 さっきスタッフの綠さんが、帰りしなに「わたし、この佐藤海さんの句、好きな句がたくさんありました」ってボソッと言った。 「あら、じゃこんどどんな句が好きか教えて」とわたしは言ったのだった。
by fragie777
| 2019-11-01 20:32
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