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10月29日(火) 霎時施(こさめときどきふる) 旧暦10月2日
ピラカンサスの実と野葡萄の実。 野葡萄の実は宝石のようだっていつも思う。 この実を前にすると、空気の冷たさを感じる。 いま、俳人の波戸岡旭さんのエッセイ集の校正をしているのだが、面白くてつい読み込んでしまう。これじゃ校正にならないなあって思いながらも、いつしかストーリーに巻き込まれいってしまうのである。瀬戸内海の島のひとつで生まれ育った波戸岡さんが果物への思いに託して幼少期からを綴っていくのであるが、波戸岡さんをめぐる登場人物があまりにも生き生きと描かれて、著者とともに喜んだり怒ったり涙をながしたり、一篇の小説を読むようである。戦後の昭和のなつかしい時間の手触りを感じながら、瀬戸内海の美しい海を思いうかべながら校正をしている。明日には終えて、明後日には校了にしなくてはならない。 新刊紹介をしたい。 四六版ソフトカバー装。 236頁 2句組 著者の上迫和海(うえさこ・かずみ)さんは、1962年鹿児島県生まれ、鹿児島市在住。大学在住より「ホトトギス」「郁子(むべ)」に投句。2000年、ホトトギス同人。2005年より俳誌「天日(てんじつ)」を主宰。平成23年度鹿児島県芸術文化奨励賞受賞。日本伝統俳句協会会員、日本現代詩歌文学館評議委員、鹿児島県俳人協会評議員。本句集は第1句集『四十九(しじゅうく)』に次ぐ第2句集となる。序文を稲畑廣太郎「ホトトギス」主宰が寄せている。 序文のタイトルは「結社の未来ー序に代えてー」。 この度上迫和海さんが句集を上梓されることとなった。誠に喜ばしい限りである。上迫和海さんといえば、鹿児島のホトトギス同人として「天日」という俳誌も主宰しておられ、現在鹿児島の伝統俳句の雄として大活躍されている。お歳を申し上げては失礼かも知れないが、昭和三十七年生れと、私事で恐縮であるが、私の弟と同い年である。これから益々のご活躍が約束されていると言っても過言ではないだろう。 という書き出しではじまり、俳句を抄出し鑑賞をされている。抜粋して紹介したい。 松原も春の波濤も太古めく 噴煙をまた足す空や春深し 神杉も霧の一樹として高き 鈴蘭の香といふ風のごときもの 海芋咲く雨ににじまぬ白をもて ざっと自然を詠んだ作品を抜き出してみると、確かに雄々しさが漂ってくる句ではあるが、的確な季題の見つけ方、季題を雄弁に語らせる表現が抜きん出ていて立体感も豊かであり、花鳥諷詠の世界の拡がりが際立っている。 はかどらぬ仕事も春を待つひとつ 父逝くやかつて我にも端午の日 サングラス和風の鼻にのつてをり 父の日や逝きて見えくる心あり 人事的な句においても、作者の季題に対する洞察力は素晴らしく、喜怒哀楽を決して表に出すことなく、全て季題に語らせているところは非凡と言わざるを得ない。 この後の序文において、稲畑廣太郎主宰は、結社の大切さが希薄になりつつある現在、「結社に入って研鑽することは大切だと思っている。そしてその結果としての作品を世に問う、という意味でも句集上梓は大きな意味を持つと信じている。」と語っている。 本句集の担当は、文己さん。 文己さんの好きな句は、 紫陽花を抜け来し白は猫であり きりんの目つぶら日本の梅雨に濡れ 社長なる人のぬくもり初便 戸一枚開け春風の診療所 海苔摘んで海踏み戻り来る男 父の日や父たる役も終るころ 紫陽花を抜け来し白は猫であり この一句、わたしも立ち止まった。紫陽花にひそむ様々な色、そんな紫陽花に目をうばわれていた矢先、足下を通り抜けていったものがある。まず「白」という認識があった。で、物体(?)は、「猫」であった、というのだ。あるいは、遠見で紫陽花を見ていたのかもしれない。そこを白が抜けてきた、おお猫か!という驚き。いずれにしてもこの一句にある「白」から「猫」になるまでの時間の差が面白い。この一句、「白」をまず印象づける。そして再び意識は「紫陽花」へと戻り、そこに紫陽花の多彩さを感じ、しかも紫陽花が咲く頃の葉は緑が際立って鮮やかである、その緑の中の「白」が立つ。紫陽花からはじまってスピード感をもって緑と白が頭の中を擦過する。 戸一枚開け春風の診療所 病院とか医院ではなく診療所である。やってくる患者さんたちが気安く診てもらえるようにドアー一枚ですぐにお医者さんのところに行けるのが診療所の良さである。だから扉一枚を開ければ、春風はすぐに入り込んでしまう。春風だったら大歓迎である。春風のなかで診察をしてもらう心地よさ。冬の寒さに耐えて、待ち望んでいた春風だ。「戸一枚開け」という措辞が、春にうきたつこころを表している。 うららかや居さうな椅子にをりし人 「うららか」が春の季語。「春の日のうるわしく照っているさまの形容」と歳時記にある。「居さうな椅子」はどんな椅子なのかは、詠まれていない、読者に任せられているわけだが、この句のおもしろいのは、その椅子に「をりし人」が「居さうな椅子」であるというのである。つまり「をりし人」から立ち戻ってその人の「椅子」を見て納得するのだ。つまりは椅子とその人間がよく似合っているということをややまどろっこしく表現したのであるが、このやや冗長な措辞が、「うららか」という明るい柔らかな季語によく響いているのだ。椅子に坐っている人は作者のよく知っている人なんだろう、その人をゆったりと眺めている作者も春の日に心を安らわせている、すべてが長閑である。わたしもそんな椅子にすわってゆったりとした春を感じてみたくなる、そんな一句である。 鎌倉に虚子忌の空の青があり 鎌倉は虚子のお墓があるところである。虚子忌にお参りをした日の空を詠んだのだ。「ホトトギス」作家の上迫さんにとって、虚子忌は格別な日である。そこで見上げた真青なる空。それはただ青い空というのではなく、その空の「青」は虚子忌の日の空の色、格別な色なのである。そして、その「青」は鎌倉で虚子忌に見上げただた一回の青であり、どこにでも見ることのできる青ではないのだ。つまり「青い」ではなく、「青があり」と詠んだ「青」は固有の青であって、ほかの青と置き換えがきかない「青」なのである。その「青」は固有の「青」として上迫さんの脳髄に焼き付けられた色なのだ。感情をまじえずに淡々と詠まれた一句にみえるが、虚子へのはるかなる思いを託したオマージュの一句である。 「青」もそうであるが、本句集には実はたくさんの色が登場する。ご本人が意識しているかどうかは分からないが、上迫さんはとても色に敏感であることを句集を拝読して思った。わたしはその中でも「白」を詠んだ句にとくに引かれた。いくつか抜粋して紹介したい。先ほどの「紫陽花」の句も白が登場するが。 ジャスミンは初心の白を咲かせきる 海芋咲く雨ににじまぬ白をもて 雲の峰まつたき白とまだ言へず つつじ咲く曇れば白のまされる日 どうだろう、「白」へのこだわりを思う。稲畑主宰もあげておられたが、「海芋咲く」の句がわたしは特に好きかもしれない。 この句集は、平成二十四年から平成三十年までの七年間のものから、四百句をまとめたものである。句の並びは、私の日記としての側面を優先した。作句にあたっては生活や現実を大事にしているからである。(略) 主宰誌の「天日」は、十周年を過ぎ、今年、十五周年を迎えている。 私的な面では、平成二十五年に、父の上迫岬夏(こうか)を見送った。ホトトギス同人でもあり、三十年以上の年月にわたって共に俳句に親しんだ一人の句仲間でもあった。平成二十八年、末っ子の息子が高校卒業とともに鹿児島を離れて夫婦二人の生活に。平成二十九年には長女が結婚し、今月、私も「おじいさん」になった。 そういうことを口にするのは気が早いようにも思うが、それでも、行きて戻らぬ人生の最盛期が今や過ぎゆかんとしている、という心持ちがあるのは否めない。そんなこんなで、句集名を「壮年」とした。 「あとがき」を抜粋して紹介した。公私ともにご多忙な日を過ごされている上迫和海さんである。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 「ステンドグラス」の描かれているラフイメージを上迫さんは選ばれた。 窓の中にできるだけたくさんの色を配して欲しい、というのがご希望だった。 句集を拝読して、その所以が分かったような。。。 表紙。 見返し。 平成の最後を飾る作品の数々が目白押しである。鹿児島といえば、桜島や西郷隆盛等のイメージから、雄々しいという印象を持つ人が多いのではないかと思うが、確かに重厚な作品が多く収載されているのである。 稲畑主宰の序文より。 茶の碗の手触りにある冬初め 本句集のなかで、地味な一句かもしれない。しかし、こころが止まる一句。「冬初め」の季感がよくわかる一句だ。茶の碗を触ったときの冷ややかな感じ、指先から身体の中心に突き抜けてくるような冷たさ、そこに冬のはじまりを実感する。作者の感慨がわたしの指に呼び起こされた記憶によって伝わってくる。 上迫和海主宰の「天日」 日頃あまり目にする機会がないので送っていただいた9月号をここに紹介。(題字は虚子の手による字。虚子記念文学館所蔵品より転写)
by fragie777
| 2019-10-29 19:55
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