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10月24日(木) 霜降(そうこう) 旧暦9月26日
最近は朝に珈琲を一杯だけ飲んで出社することが多くなった。 これは今朝の一杯である。 なかなか派手な珈琲カップである。 実はこんな珈琲カップがあるなんて昨晩まで知らなかった。 椅子に乗って食器棚の奥を覗いていたら見つけたのだ。 これまで気に入ってあつめた珈琲茶碗はいくつかあるが、これにはとんと覚えがない。 二組あるので、きっと頂きものだろう。だが、いつ貰ったのかその記憶もない。 「ひゃあー、こんな派手なのがあるよ」と言いながら取り出して、つくづくと見た。 最近は家で眠っている珈琲茶碗を順番に取り出して使うことにしているのだが、これには気づかなかった。 これは何とも華麗なカップでわが家の雰囲気にはそぐわないものである。 しかし、使われないのは可愛そうなので、昨夜洗って今朝はこれで珈琲を飲むことにしたのだった。 飲みながらカップの底にある銘をみてみたら、「ROYAL ALBERT」って書いてある。 さっそくグーグルで調べたところ、あった、あった。「ロイヤルアルバート」とは、イギリスの陶磁器メーカーで英国のビクトリア女王に愛された磁器であるとのこと、 写真のものは、「オールドカントリーローズ」と言って、ロイヤルアルバートの代表作のものらしい。 ひぇー!! って思った。お値段はそんなにべらぼうに高いものではないようだが、なんとしてもビクトリア女王である。 わたしは正直もっとシンプルなものの方が好きなのだけれど、今日はビクトリア女王になった(!?)つもりでちょっと偉そうに、わが家の猫たちを睥睨しながら珈琲をいただきましたの。 珈琲もいつもとは違う味のような、なんてことはなかったけれど。 でも、いったいこの珈琲茶碗、どいう経路でわが家にやってきたのだろう。 謎である。 新刊紹介をしたい。 A6判ペーパーバックスタイルビニール掛け 140頁 二句組 著者の中島幾久子(なかじま・きくこ)さんは、1933年(昭和8)名古屋生まれ、現在は大阪市にお住まいである。1997年(平成9)に「諷詠」入会、後藤比奈夫に師事。2000年(平成12)「諷詠」同人。2014年(平成26)「諷詠」退会、2017年(平成29)NHK学園俳句倶楽部に入会。俳人協会会員。本句集は、第1句集『月の雫』に次ぐ第2句集となる。文庫本サイズのハンディな句集である。 『菊日和』は第一句集『月の雫』の一部も含め、二十年あまりの俳句のまとめです。 と「あとがき」に書かれているが、長い歳月にわたる作品を自選して収録したものである。四季別に編集。 空に音残し追羽根下りて来る 新年の句より。「追羽根」が季語。わたしたちが小さい頃は羽根つきをして遊んだけれども、お正月には路地路地で羽根つきをして遊ぶ子どもの風景が見られたけれど、いまはまずそんな風景を目にすることがない。無患子の実についた鳥の羽、それを羽子板で打ち合うと堅い音が響く、いつもより静かな街は、その羽子の音のみが辺りを支配する。いまこうしてブログを書いているわたしの耳にもそのときの硬質な音が蘇る。この句「空に音残し」が、追羽根遊びのその音が支配する遊びを言い得ている。コーンと打って高く上がった羽根はすぐに下りてくるけど、コーンはいつまでも空に響いていて、次のコーンがそれを追いかける。そうやって静かな正月の空にシンプルな追羽根の音は繰り返される。それは懐かしい昭和の風景か。。。 流れ込む闇の気配や鬼やらひ 冬の句より。「鬼やらひ」が季語。節分の日の行事だ。「オニワーソト、フクワーウチ」って父親が叫びながら豆をまくのをドキドキしながらついて言った幼い日の記憶がある。「鬼は外、福は内」なんだってだんだんと知るようになった。鬼がいるんだって思ったら少し怖かった、だからお父さんはあんなに大きな声を出して、鬼をおっぱらうんだって。福の存在はあまりリアルでなかったけれど、鬼の存在は子ども心に恐怖心を植え付けた。この句、「流れ込む闇の気配や」がさらに怖い。鬼やらいの行事をしながら、ふっと家のなかに流れ込む闇、明るさの影に潜む動く闇があるんだってこと、それが鬼よりも怖い。その気配に背筋がぞっとしません? 若き日の手擦れの本に春の塵 わたしの家には書斎ならぬ本棚がひしめいている一角があるが、そこにわが「若き日の手擦れの本」がわんさかある。ああ、こんな本読んでいたんだ、などと取り出すと線が引いてあったりして、へえーこんなことに感激してたんだなんて、20代の自分に改めて出合うような気持ちになる。そしてちょっと愛おしくなったりする。最近買った文庫本などは捨てられるけど、若き日の手擦れの本は捨てられない。もう読まないと思っても絶対捨てないと思う。どうしてだろう。って今考えた。若い時に愛読した本は、自分の細胞の一部になっていてそれを捨てることは自身のアイデンティティを失うことになる、なんて、ちょっとオーバーかなあ、でもきっとそういうことなのだ、このブログを読んでいる方々はどうだろう、捨てられる? わたしはダメ。 だからその上につもった春の塵、だって愛おしいのである。「春の塵」が明るさをもたらしている。 水槽の角で金魚のふと消ゆる 夏の句より。「金魚」が季語。水槽の金魚を見ていると、こういうことってある。金魚はたいてい赤い色をしていて華やかであるから、その金魚の姿が角度によって見えなくなったりするとまさに消えた!って思う。その一瞬をとらえて一句にした。金魚はまた現れるのだけれど、これは水槽がもたらすマジックでよくわたしたちも経験することだ。そんな何気ない一瞬を五七五にさっとしてしまう、作者の老いることのない作句精神を思わせる一句であると思った。 残るものいとほし残る暑ささへ 秋の句より。「残暑」が季語である。これまで「残暑」を「愛おしいもの」として詠んだ句は見たことがない。大方、残暑に辟易している俳句が多い。今年86歳を迎えられた中島幾久子さんは、生きていることの日々を大事にされながら、自身のあとに残っていくものへの愛おしい気持ちをかみしめておられるのだろう。生きてきたことすべてが愛おしいと。だからこうして残暑の中にいるもこと生きていればこそのことと、切々とおおらかに思うのである。でもわたしがウロウロとこんな風に書くより、この一句が端的に作者の気持ちをなによりも言い得ている。駄弁を弄しました、アシカラズ。 着ぶくれて花鳥風月遠くなる 笑ってしまった一句。「着ぶくれ」が冬の季語。作者は、後藤比奈夫氏に師事し、「花鳥風月」をしっかり学んで来られた俳人である。その「花鳥風月」は身に染みこんで、そこから離れることは金輪際ないのだが、このとぼけた俳諧性が作者のおおらかな人柄を思わせて面白い。あるいは、「花鳥風月」が遠くなるというのは、作者にとってとりもなおさず「俳句をする心」と言い換えてもいいのか。それを花鳥風月を愛でる心がぶくぶくに着ぶくれた我が身から遠ざかっていくようだ、とユーモラスに詠んだのである。そう詠みながらゆったりとした心持ちを感じさせる一句だ。 ほかに、 鉛筆をけづれば雪の林の香 雪兎白くつめたくあたたかし 蕗の薹雪のふところより覗く あぢさゐの水色のまま暮れにけり 水のやうに切幣浴びる夏祓 水に馴染めぬ純白の水中花 葉の先は空の入口天道虫 雨蛙ゆびの先まで濡れてをり 次世代へ託すやうにも落し文 なつかしきこの世のにほひ昼寝覚 見えぬもの求めるやうに踊の手 新涼や豆腐みどりの影を持ち 老深む日々に親しき小菊かな 家族の介護、自身の大腿骨骨折などいろいろありましたが、皆様に温かく支えていただいて俳句を続けることができました。 これまで支えて下さった先生、句友の皆様はじめご縁を頂いたすべての皆様に心からの感謝を申しあげます。 「あとがき」の言葉である。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 小さな本であるが、シックに品よく出来上がった。 ビニールをとると、用紙の地模様がよく見える。 タイトルはかぎりなく黒に近い紫。 扉。 手のひらにのるサイズ。 とても軽い。 菊日和一と日楽しく疲れけり 句集名となった一句である。 煤逃に月まで行つてみようかと 句集の終わりの方におかれた一句である。著者の茶目っ気のある自在さはこの一句にて決まった。後藤比奈夫を師とすることが彷彿としてくる一句である。かの師にしてこの弟子ありと。 ますますのご健吟をお祈り申し上げたい。
by fragie777
| 2019-10-24 19:55
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