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10月23日(水) 旧暦9月25日
足元には蓼の花。 いよいよ秋も深まるばかりである。 今日は珍しく秋晴れとなった。 秋陽が目に痛いくらいにまぶしい。 明日からはまた雨だという。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバーフレキシブルバック装帯有り 254頁 二句組 著者の藤永貴之(ふじなが・たかゆき)さんは、1974年福岡県小群市に生まれ、現在は福岡市に在住。1994年慶應義塾大学俳句研究会に入会。本井英に師事。「惜春」入会。2007年「夏潮」創刊とともに入会。2011年第2回黒潮賞受賞。夏潮第零句集シリーズ①『鍵』上梓。2015年「惜春」終刊とともに退会。2017年第1回満潮賞受賞、2018年第2回満潮賞受賞。「夏潮」運営委員。俳人協会会員。本句集は、1994年から2017年までの作品356句を収録した第1句集である。本井英主宰が序を寄せている。 もう何年も前から「句集」を出すことを奨めていたのであるが、今回やっと重い腰を上げてくれたので、こんなに喜ばしい事はない。その時が来たら、どんな序文を書いて上げようかしらなどと、甘い空想に耽った頃もあったが、今は筆者の健康状態がなかなか思うに任せず、周到な文を草することがとても出来ない。そこで「夏潮」の句評欄に折々書いてきたものの一部を並べて責めを塞ぎたいと思う。どの句評も一句の「よろしさ」を判って頂こうと一生懸命に綴ったもの。藤永さんの俳句のここまで来たった道の解説にもなっていよう。 という序文の前半におかれた文章であるが、本句集の制作をすすめている時点では、本井主宰は、闘病中でご入院されていたのだった。いまは回復されすっかりお元気になられたのであるが、周囲の方々は一時はとても心配されたのだった。序文を書き下ろすかわりにといただいた「夏草」の「句評欄」であるが、この句集欄が一句についての優れた鑑賞であり、一句はこのように味読されうるものなのか、目が開かれるようなおもいのする文章である。いくつか紹介したい。 蜻蛉が生まれ朝の日朝の月 季題は「蜻蛉生る」。蜻蛉の幼虫は「やご」、あるいは「たいこむし」と呼ばれて、小魚やオタマジャクシを捕食しながら水中で過ごす。初夏、水面から草などを辿って水上に現れ、背の辺りから割れて、中から蜻蛉の成虫が抜け出て来る。その後、しばらく羽などが乾くのを待って飛び立つ。作者はおそらく蜻蛉が羽を乾かしているところを見ているのであろう。いつの間にか夜は明けはなれ、一条の朝日が蜻蛉に当たる。弱々しかった羽が朝日を受けて、どんどんしっかりしてくる。あたかも朝日が生まれてきた蜻蛉を祝福しているかのようだ。作者がさらに中天を仰ぐと、そこには有明月が白々と懸かっていた。「朝の月」もまた蜻蛉を祝福して静かに見下ろしているように作者には感じられた。この世に生まれ来たった「命」への作者の尊敬の気持ち、あるいはすべての「命」を受け入れる造化への讃美の気持ちが一句に緊張感を与えて、丈高い詩の世界を現出した。 芍薬の芽の鉗めるに雨の糸 季題は「芍薬の芽」。薬草として渡来したもの。牡丹に似て牡丹よりやや遅れて咲く。牡丹は木だが、芍薬は草。「鉗む」は「つぐむ」。口を閉じてものを言わないの謂い。四月頃になると芍薬の畝からは紅紫色の芽が一斉に顔を出す。こつんとした蕾はやがてわらわらとほぐれ、ぐんぐんと背丈を伸ばし始める。一句はそんな芍薬の芽に春の雨がさらさら降りかかっている情景を写生したもの。「芽の鉗めるに」の措辞が適切なために景がきちっと立って見える。芽の堅い状態を「鉗む」という動詞で表現したところも当を得ているが、それ以上に「鉗みをる芽に」としなかったところも工夫の跡がある。 すこし考えてみよう。「鉗みをる芽に」では表現が「遅い」のだ。つまり「芍薬の」と詠いだして、「鉗みをる」と続けた場合、「芍薬」は一旦「宙ぶらりん」の場所に置かれる。さらに「芽」の言葉が出るに至って、はじめて「芍薬の芽」即ち「鉗みをる芽」が並行的に表現され、下五を待つ形となる。それに対して「芍薬の」に「芽の」と続いた場合は連体修飾には違いないが「早い」。というより「芍薬の芽」はむしろ一語だ。少なくとも読者の脳裏には「芍薬の芽」が瞬時に写し出される。しかる後に「鉗める」と言って情報を部分修正させるのである。 俳句を「滑稽・挨拶・即興」と定義したのは山本健吉であった。山本は和歌一首がゆっくり朗詠されながら読者に伝わって行くのに比べて、俳句が殆ど瞬間的に読者に読み取られる点に注目した。それが山本の俳句理解の基本にあった。そうなると俳句の「語順」はあまり重大な問題ではないことになってくる。しかし掲出句などを見るとそうでないことが分かるだろう。たった十七音でも頭に入ってくる言葉の順序で一句の姿はまるで変わってくるのだ。 「「鉗みをる芽に」としなかったところも工夫の跡がある。」より以下の文章は俳句表現の本質にふれるものとして興味深い。 ほぐれ長けほぐれ広ごり牡丹の芽 (略)俳句は発見の手柄を作品にして、他人に伝えるものではない。山川草木、鳥獣虫魚の消息に触れ、それらの季節の息づかいを直接感じて歓ぶもの。その歓びの言葉が自然に十七音に凝集して心の奥から生まれ出るものである。「ほぐれ長け・ほぐれ広ごり」の心地好いリズム感は即ち、作者自身の愉快を伝えている。 全部を引用したいところであるが、「俳句性」について語っているところを紹介した。 跼まりて子はなほ小さし椎拾ふ 季題は「椎の実」。「椎」と言えば『源氏物語』、「宇治十帖」の「椎本」を連想される方も少なくないであろう。(略) 「跼まり」は「かがまり」、「子」がしゃがみ込んでいるのである。大人と違って、膝も腰も小さく畳み込んだ子供の姿は本当に「小さく」見える。 「なほ」は必ず「でも、やっぱり」と訳すのが古典解釈上の「きまり」。 従って一句を敢えて口語訳すれば、「すこし離れた処に、しゃがみ込んで椎の実を拾っている我が子の後姿を見るにつけ、でもやっぱり、この子はまだ小さい、と思わずにはいられない。」となる。 動物の世界の多くでは子供を育てるのはもっぱら母の役で、父はまったくその任に与らない場合も少なくない。熊や虎はその代表で、賢治の「なめとこやまの熊」に出て来る「母熊」と「子熊」の会話は、私たちの心を締め付けるほどに、母子の信頼と愛しさに満ちている。一方、ほとんど顔見知りではないはずの虎の「父子」の成長後の邂逅の場面でも「それと判る」という報告がされている。「父には父の」、掛け替えのない「子」への、何ものにも代えがたい愛情が深く深くあるのである。ましてや人の世では言わずもがな。その子を、やや離れて見つめるにつけ、「子はなほ小さし」との思いが湧き上がってくる。「子」にとって「頼みの存在」であるという自覚が自ずから「椎の実」という季題に託されたと説く向きもあろうが、それは順序が逆で、「椎の実」の持つそうしたメッセージを無意識のうちに感得した詩人の心に、一句の世界が拡がったとみるべきである。 花鳥諷詠・客観写生では「人生」が詠めぬ、と言う様なことを説く人々もいる。この句などは、それらの人々の蒙を啓くに足る、第一級の作品であると確信する。 句集名ともなった一句についての鑑賞の部分である。全文を紹介したいところであるが、抜粋にとどめた。写生句についての浅薄な思い込みに対してのまさに蒙を啓くそんな序文である。収録作品のうちの32句についてこのように懇切なる鑑賞を付した序文である。思いを込めたその思いが惻々と読者につたわくる。 薄氷の面うつすら水を敷き 或時は吹雪のごとく梅の散る 扇風機家庭教師のわれに向き げんこつの如く大きく鶏頭花 立冬と書くや白墨もて太う 地を打つて魂抜けし霰かな 風の日の風の中なる椿かな 夕立にちから加はり来たりけり 囀れる小さき胸に夕日かな 螢火の高きは水に映らざる 鶏頭の襞や畳みに畳みたる 眠る山北へ〳〵 と重なれる スリッパに海女の名マユミ、カズ、ヒデヨ 茶の花のひらきそめ蕊あふれそめ ホームセンター裏とはなりぬ墓洗ふ ものゝ芽やまつたく音のなき雨に 田と湖とたひらにつゞく良夜かな 涼しさをとり戻したる死者の顔 芽柳や直線がまた曲線に セーターの教授寝癖でない日がない 海風はいつも冷たし花楝 瀧風や瀧の真ト面にはだかれば 秋の蚊のまとはることよ物書く手 句集『椎拾ふ』は読了後が爽やかである。読者のこころに必要以上に負担をかけない。それは、著者が俳句の定型の力と季語にゆだねてものを表現する力を信じているからだろう。一句の背後にどれだけの思いと時間が流れたか、そんなことも感じさせようとはせず、これみよがしな気持ちの押しつけもない、俳句(定型)をこころから信じている、その気持ちの良さが伝わっている句集だ。俳句で何を表現したいか、ぶれるもののない力に満ちた句集であると思った。 句集表題は集中の 跼まりて子はなほ小さし椎拾ふ に拠った。この本を私の二人の娘たちに捧げたいという思いからである。 英先生にはこのたび、選句の労を賜るばかりか、ご療養中のところ、序文まで整えていただき、感謝の言葉も見つからない。先生にはもう二十五年に亘ってお世話になり、報いるには大きすぎる恩を蒙ってきた。しかしこれから私が、今以上に虚子について理解し、少しでも佳句を詠み、一人でも多くの人と、俳句のよろしさや造化とともにあることの素晴らしさを分かち合ってゆくことができれば、なにがしかはその恩義に応えることになるかもしれない。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装丁は、山口デザイン事務所の山口信博さんと玉井一平さんである。 山口信博さんにデザインして欲しいという藤永さんのご希望であった。 山口信博さんは、俳人でもあり、すでに句集『かなかなの七七四十九日かな』を上梓されている。 ゲラを読まれた山口さんは、「拝見して写生句のもつ素晴らしさを知りました」と言われ、装丁に力を注いでくださったのだった。 色は黒以外はいっさい使わずにシンプルな装丁である。 タイトルの「椎拾ふ」と背にある「椎拾ふ」の文字の下にある椎の実ひとつが黒メタル箔。 あとはスミ刷り。 カバーを外したところ。 角背が美しい。 カバー、表紙、見返し、扉、みな同じ用紙である。 栞紐は、白。 フレキシブルバック。 開きがいい。 本文の目次。 シンプルな美しさとストイックなたたずまい。 筆者は藤永さんが「夏潮」の雑詠にどんな句を投じてくれるか、毎月ドキドキして待っている。一方、藤永さんも、それらのうちのどの句を筆者が選ぶか、ドキドキして待ってくれていることだろう。お互いに毎月試されている。毎月が真剣勝負である。 「序」の最後におかれた一文である。 ここには師と弟子の美しいともいえる緊張関係がある。 黄水仙の大きな花ややゝ低う 好きな句はいろいろとあって迷ったのだけれど、この句をとりあげた。「やゝ低う」の措辞がすごく好き。黄水仙に対する作者の目線がよくわかり、すこしでも黄水仙に近づこうとしている、等身大になるまでに、そんな関係もいい。「やゝ低う」という詠み方もやわらかで、すこし古風であり、この作者のなかにある古きものへの愛しい眼差しをも感じさせてくれる。作者はあくまでつつましやかで、黄水仙がわたしたちの目の前に立ち現れる。
by fragie777
| 2019-10-23 19:06
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