ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko

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描写が触覚的なのだ。

10月17日(木)  旧暦9月19日



描写が触覚的なのだ。_f0071480_16294733.jpg

無花果。
熟す手前のもの。

大きな蠅が乗っている。


今日の仕事はほとんど「ふらんす堂通信162号」のゲラ読みである。
わたしは何度もこのブログでも書いているように、校正は苦手。
そんなわたしでも、いくつか気づくことがあるのでかならず全部に目を通すことにしている。
とくに「voix et bois(ボアボア)」のページは楽しみである。
「ふらんす堂通信を読まれた方々や、ふらんす堂の書籍を読まれた方々の感想などを聞ける唯一の場所である。
そうか、そんな風に思っていてくださったのか、とか、そんなご希望があるのか、などなど興味津々で読んでいる。
いろんな「声」聞かせていただきたい、というのがわたしたちスタッフの願いである。








新刊紹介をしたい。


森下秋露句集『明朝体』(みんちょうたい)。


描写が触覚的なのだ。_f0071480_16300259.jpg
A5判ペーパーバックスタイル帯あり。72ページ。五句組。第1句集シリーズ。

著者の森下秋露(もりした・しゅうろ)さんは、昭和51年(1976)生まれ。平成15年(2003)「澤」俳句会に入会、小澤實に師事。平成20年(2008)「澤」新人賞受賞、平成20年8月から平成22年10月まで「澤」編集長。現在「澤」同人、俳人協会会員。本句集は、「澤」入会以前の句4句に「澤」入会後の平成15年(2003)から平成30年(2018)までの作品305句を収録した第1句集である。序文を小澤實主宰が寄せている。

本集の著者森下秋露さんは、澤の四十代を代表する作者である。まだ若いが、「澤」歴も長く、若くして編集長の重責も担ってもらったこともある。信頼できる存在だ。

という書き出しで序文ははじまる。

 冴返る明朝体の止めと撥ね

本句集のタイトルとなった一句である。それについて小澤主宰は、

かつて「選後独言」(「澤」平成十八年五月号)で、ぼくは次のように鑑賞していた。「明朝体は活字の書体の一つ。縦線は太く横線は細い。 ごく普通に用いられている活字だ。大きな字体に見ると『止め』の強さと『撥ね』の鋭さとの差異はたしかに印象的である。かつて会津八一が書の手本としたという活字である。そこに「冴返る」という厳しい季感を取り合わせているのは理解できる。具体的な一字も示さない。 字体の一部分を示すだけで句にしているのには驚いた。まったく新しい発想である」。書体を素材に詠むということ自体が新しかった。取り合わせの季語との響き合いもみごと。

と記し、たくさんの句をあげて森下秋露さんの美質について論じている。そして恋句を詠んでも「叙情が過剰にならない。いずれも「もの」が芯にある」と語り、「もうひとつ秋露俳句の特徴を挙げるとすると、描写の幅の広さ、精緻さであろうか。」とし、

 使ひ捨てカイロ固まる毛羽立ちて
 鼻かんでティッシュ重しよ鼻水ぶん

熱を放出してしまった使い捨てカイロ、鼻をかんだティッシュなど誰も詠まない。しかし、秋露さんは取り上げる。前の句は「毛羽立ちて」まで見たことで、神々しさまで感じさせる。後の句は鼻をかみおえた気持ちよさまで即物的に表現していると思った。ぼくは俳句とはすべてのものに美を見出す行為と論じてきたが、その究極をこの二句に見る。

「使い捨てカイロ」や「鼻をかんだティッシュ」を俳句にすることはこれまでの俳句にあっても、その先(?)までなかなか俳句に詠んだ俳人はいない。見あげた挑戦者だ。小澤主宰は、上記の二句を「俳句とはすべてのものに美を見出す行為」としての究極であると鑑賞する。

本句集の担当はPさんである。

 さかあがりできずにおとなになり小春
 冴え返る明朝体の止めと撥ね
 汝が耳の静脈透くる桜かな
 汝が風邪のウイルスと思へばゆるす
 嬰泣くや柚子湯の柚子の寄り来れば

 
 汝が耳の静脈透くる桜かな

本句集には、「汝(な)」あるいは「汝(なれ)」という措辞がたくさん出てくる。同等あるいは目下の者をさすときの二人称と辞書にあるが、本句集の場合、前後の文脈からいうと、夫であるか子どもであるかのようである。この一句の場合、わたしは赤子の「汝」であるとみた。大人の「耳」であってもと一瞬思ったが、やはり赤子のやわらかな耳朶でなければならない。ほんのり赤く透けている、そのやわらかな耳たぶと桜の花びらのうすピンク色。「静脈」という言葉によって命の具体性があり、心音まで聞こえてきそうだ。桜の命に呼応している赤子のみずみずしい命がみえてくる一句である。

 さかあがりできずにおとなになり小春

「小春」は、立冬がすぎてからの春のようなあたたかな日を言い「冬」の季語である。逆上がりができないまま大人になってしまった我に気づいた自分がいる。逆上がりは子ども時代には一度とならず挑戦してみる鉄棒の遊びだ。そして大方の子どもができるが、なかにどうしても出来ない子もいる。わたしは運動神経はどちらかというと鈍いほうだけれど、逆上がりは結構上手い方だった。鉄棒でくるくる回ることもできるほど。逆上がりが出来なかったという記憶はけっこうひきずるかもしれない。しかし、大人になれば仕事や雑事におわれ、また運動神経だけが評価される世の中ではないので、その哀しい記憶も薄らいでいくだろう。だが、寒さの厳しい冬のある日ぽっかりとあたたかな日があったりするとふっと身体も心も緩んで「逆上がりができなかった子どものわたし」が思い出されたりするのである。(逆上がりできなかったなあ…)なんて思いつつもすでに大人として社会生活を送って頑張っている自分がいて、そんな自分をいくぶん愛おしいように思っている作者にぽかぽかと日差しはあたたかい。

 さくらはなびらうらおもてありふれみれば

この一句、当たり前のことのようだけれど、こうしてひらがなのみの俳句となって目の前にあると、しっとりと湿り気をおびたやわらかな桜の花びらの感触が指の蘇ってくるような思いにとらえられる。しかし、裏と表の感触がどうことなるかまでは蘇らない。というのは、そこまで意識して桜の花びらを触らないからだ。著者の森下さんは、そこをさらに追求したのである。表と裏の違いってわかります。見た目ではなくて、「ふれみれば」とあるのだから、あくまでその感触である。どうちがうのだろうか。触って確かめたくなる一句である。

 おはやうの「は」より出でくる息白し

この一句も繊細なこだわりを感じさせる一句である。たしかに「おはよう」と声に出して言ってみると、「は」に力が入る。だから息づかいもつよくなる。それを視覚にとらえた一句であり、「息白し」という季語を詠んだ句となった。厳寒の朝、ためしてみよう、きっと「は」の音を発するとき、息が白くなるだろう。おはようと声かけあって、皆「は」で息が白くなる。「「は」より出でくる」の表現が達者である。


得意科目が「人生」だったなら、多分私は俳句を作らなかったでしょう。大学卒業後、夢に向かって歩んでいるはずが中々近付けない毎日の中、たまたま見た風景を「日経俳壇」に投句したら掲載されました。通っていた図書館で歳時記を読んだり俳句雑誌を読んだりして息抜きと称しながら、職を得たらきちんと結社に入って勉強しようと思っていました。結局、当初の夢は果たせませんでしたが、勤務先からの縁で「澤」俳句会に導かれ、「職を得たらきちんと結社に入って勉強する」夢は叶いました。ただし、結社に入るだけでは駄目で、勉強は一生続きますが。(略)
皆様のおかげで、私はこれからも俳句を詠み続けることができます。


「あとがき」を抜粋して紹介した。

本句集は「第1句集シリーズ」の一環として刊行された。
装丁は和兎さん。


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 ふぢつぼのあまたくぢらの目のまはり

透徹した眼を感じる。森羅万象に関心が向けられ、それぞれくっきりと映像を結ばせている。それぞれ眼をもって触れる感じもある。描写が触覚的なのだ。

小澤實主宰の帯文を紹介した。
「描写が触覚的なのだ。」とはまさにである。




 くちびるに触れ己が髪昼寝覚

「昼寝覚」を詠んだ句としては、面白い一句だと思った。この句もまさに「触覚的」であると思った。昼寝より目覚めた瞬間に感じたものは自分の唇にふれている自身の髪の毛であるというのだ。かなり微細なことを素通りしないで俳句にしていると思う。日常の些事ひとつひとつにするどく五感を働かせてそれを俳句に詠む森下さんはなかなかガッツのある俳句精神を持った人だと思った。ここまで詠むか、、というところまで詠んでしまって、読者を立ち止まらせるのである。だって「明朝体の止めと撥ね」ですよ!








ブログを書き終えて、ホッとして机のまわりをみたら、ゲッとした。

汚い。
あまりにも汚い。
積まれた雑誌がいまにも崩れ落ちそうである。
ほかのスタッフの机を見た。
それぞれゲラなどがおかれているが、整然としている。
わたしの机は整然としていたことがない。
どうしてなのだろう。。。。



今日は比較的はやくブログが書けたから、すこし整理でもしていくか。。。

ああ、
だめだ、
島忠に言って、猫たちの食料を買わなくてはならかなった。

だから、
このままで帰ります。

アシカラズ。








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by fragie777 | 2019-10-17 19:04 | Comments(0)


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