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10月8日(火) 寒露 旧暦9月10日
杜鵑(ほととぎす) 先日の草履の件で俳人のふけとしこさんからメールをいただいた。 「お草履はボンドで貼るなんて乱暴なことを仰らないでちゃんと修理に出された方がよろしいのでは? 勿体ないですよ。」 まさに!! ありがたいお言葉。 人生の先輩の言うことは聞かなくちゃっね。 亡き母も「ボンドなんて、おまえをそんながさつな人間に育てたおぼえはない」ってあの世で嘆いているかも。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯あり 208ページ 4句組 俳人・松林尚志(まつばやし・しょうし)の第3句集となる。1930年、長野県生まれ。俳誌「木魂」代表、「海原」同人。現代俳句協会会員、現代詩人会会員、三田俳句丘の会会員。本句集は、第1句集『方舟』(1966刊)、第2句集『冬日の藁』(2009刊)に次ぐ藻のである。平成15年(2003)から平成30年(2018)までのおよそ15年間の作品705句を収録。松林氏には詩集『木魂集』などのほか、評論集『古典と正統』『子規の俳句・虚子の俳句』『斎藤茂吉論』などなど多くの評論集がある。 私は詩を読むことから俳句へ入っており、無季を容認した瀧春一先生のもとで学び、また金子兜太さんの「海程」にも加わって歩んできた。また詩の雑誌「方舟」を立ち上げ、詩集も出している。詩はどちらかといえば思いを陳べる表現志向が強い。俳句はゲーム性を具えた連句から出発したように、季語や切字など約束事の中で芸を磨く面が強い。季語の拡充は俳句に芸道的な面を加えながらその裾野を広げてきている。しかし俳句も詩歌の一端を担うとすればやはり思いを陳べる表現志向も底流しているはずである。昨年、金子兜太さんがお亡くなりになり、衝撃を受けたが、改めてその存在感の大きさに昂奮を覚えた。その兜太さんは、季語がなければならないと言った覚えはないとの言葉を残しており、最後の九句には無季の句が四句あった。兜太さんの人気は選者として作者の思いを汲み取ることにあったと改めて思う。私の場合、これまでの長い歩みを通じて詩は細り、芸道的な面での俳句に浸かることが多くなってきているが、やはり自己表現的な句や生活記録的なものが入り交じっていて前書のある句も多い。前書の句ではとりわけ追悼句の多さに時の流れを痛感する。改めてこれまで永らえ、この道に携わって来たことの幸運を思う。 「あとがき」を抜粋して紹介した。「思いを陳べる」、「思いを汲み取る」「自己表現的な句」「生活記録的な句」という言葉がみられるように、松林氏の俳句は、「自己表現としての俳句」にやや重きをおいておられるのかともおもったが本句集を拝読して、かなり自在に詠まれていて面白い句がたくさんあった。 炎日やわれは地を這ふなまけもの 梟や吾を見詰むる神をらむ 守宮まだわれと棲みをりわれも刺客ぞ しがらみもまた生きる糧白木槿 象の皺は地球の皺や秋時雨 雪の夜やけものの濡れし瞳も集ふ Z O O のけものら大方アンニュイ天高し 白長須鯨のやうに寝返り打つて春 作者は動物好きかもしれないと思った、というか、さまざまな動物が等身大のように作者の身近にあり、愛おしいものとして存在している。「守宮」も「いるか」も「象」も、だから当然「白長須鯨」にだってなってしまうのである。この句、わたしは「白長須鯨の寝返り」を実際見たことがないけれど、目をつむればおおいに想像できる。ゆったりとした白長須鯨がその身を美しく反転させて大海原で寝返りを打つ、海の青さに鯨の濡れた身体が光る。「シロナガスクジラノヤウ」という音の響きがややけだるくのどかで春の季節の寝返りにはぴったりである。比喩がバツグン気持ちいい。願わくばわたしも昼寝をするのであれば、白長須鯨のように寝返りをうって、春の長閑さをたのしみたいとおもった。 いるか語のきんきんぎしぎし秋天下 松林氏は、今年89歳になられるわけであるが、童心を感じさせる句があってはっとする。この一句もそう。童心というものは、生き物との間に境界線をもたない。わたしが思うにきっと松林氏は「いるか語」がわかるのだ。秋天下のひしめきあっているイルカたちの言葉、「きんきんぎしぎし」なんてとても楽しそうではないか。老成してもなお無垢な心を失わない詩人なのだ。宮沢賢治の世界にどこかでつながっているような世界がある。「雪の夜やけものの濡れし瞳も集ふ」この句だってそう。雪の夜に濡れた目をした「けもの」とは、、、。狼かもしれない、なんて思うとゾクゾクしてくる。 しがらみもまた生きる糧白木槿 露けしや開きし古書に蔵書印 家にても旅する心水の秋 黄花コスモス車椅子押す人も老い 虞美人草老人ホームひそとあり 処方箋待つ熱帯魚見詰めつつ 実存も戦後も遠し枯葎 この句は、まさに昭和、平成を生きてこられ、90歳を目前にした人間の述懐である。「枯葎」は、「道ばたや空き地などにぼうぼうと生い茂った葎が、ものに絡みついたまま枯れ果てた様」と歳時記にあるようにある殺伐とした心の風景を呼び起こす。サルトルを熱く語った青春時代、あるいは戦後の繁栄のなかで必死に生きてきた時間、そういうものが遙か彼方に追いやられて、老いゆく自身のあはれさに向き合っているのか。あるいは長く生きてしまったたことへの感慨か。本句集には、童心の作者とともに老いをみつめる知識人としての作者がいる。 ほかに 胸底の濡れた落葉を踏んで行く ケータイにある小さき窓春時雨 寒星をみしみし踏んで大熊座 ベンチ三つ老人三人蝌蚪の紐 黒揚羽ぶつかりて来し告知あり 忘れた旅の手帳のやうに夏の雲 雲水の身から出て行く秋茜 貌が棲む一樹一樹に冬深む 綿虫の一つ浮かんではるかなり 仮初ならぬ一会のありし紫荊 火事跡は昨夜のままに梅白し 広場にガーゼ踏まれしままに凍ててあり 百日の一日目なり百日紅 大根提げて類人猿のごときかな 処方箋待つ熱帯魚見詰めつつ 故郷の水仙一花抱き起こす 好きな一句である。水仙は、群生して咲く花である。たぶんこの一句においては、強風によって一叢の水仙がある方向へ雪崩れるように倒れてしまったのだ。わたしたちもよく知っているように背の高い花ではない。それを抱き起こしたのである。「抱き起こす」といったところに作者の「水仙」への思いがある。膝を土につけて顔を水仙とおなじくらいの高さにして、そっと抱き起こしたのである。水仙の香りがきっと作者の鼻をついたであろう。この一句、抱き起こしたのは単なる水仙ではない、「故郷の水仙」である。実はこの句をとおして作者は故郷へのオマージュを表わしたのである。さりげない一句であるがこの句に寄せた思いは深い。 外題の山法師は、我が家の前に並木があり、初夏の季節になると清楚な白い花を咲かせ、心が洗われる感じがあって好きな樹である。白い四片は花でなく苞のようであるが、我が家のどくだみも白い四片の苞を負けずに開いていてその呼応も季節を印象づける。この集には山法師を詠んだ句を幾つか載せている。そんなことから迷わず決めた。 「あとがき」で句集名のことに触れられている。 装丁には「山法師」をあしらった。 和兎さんの装丁である。 山法師は、山の木である。 街路樹などにも最近は多くあるが、山の木のもつ野趣があっていい。 そしてその清潔感も。 表紙。 表紙と見返しは同じ用紙で。 扉。 4句組 気高く清潔感のある一冊となった。 晩年は素のままがよし山法師 たくさんある「山法師」のなかから一句のみ紹介した。 遠い日向見つむるわれも遠い日向 本句集の最後から二番目におかれた一句である。不思議な一句である。「見つむるわれ」がいてさらにそれを超えた視点がある。しかもそれらはすべて「遠い」。この「遠さ」は時間的、空間的両方の「遠さ」である。本句集を流れているものは、この「遠さ」が意味するところの「はるけさ」である。単に日常を詠んでいるのではなく、日常を超えた視点があるのだ。その視点は、歴史という時の流れを超えた一点に浮かんでいる視点であり、生けるものの小さな命にも目をとめる視点であり、死にゆく条理から逃れられない人間をみつめる視点である。季語はその命に寄り添っている。心引かれる一句だ。 今日はお客さまがおひとりいらっしゃった。 富山珠恵さん。 富山さんは、俳人・上田睦子さんの俳句の良き理解者である、と同時に上田さんの俳句が大好きである。 好きが昂じて、『富山珠恵著『螺旋を巡る 上田睦子の世界・私の世界』、『水湧き初む 上田睦子の世界・私の世界・続』の二冊の上田睦子論を上梓されている。 そして、今日は三冊目となるお原稿をもってご来社くださったのだ。 加藤楸邨を師とする上田睦子さんの俳句は、なかなか難解である。 その難解さが魅力であるのかもしれない。 「わたしのは、論なんてものじゃなく、作文ですのよ」と謙遜されるのだが、こういう評者がいるということは、俳人にとって嬉しいことであると思う。 前回とおなじく、Pさんが担当。 富山珠恵さん。 前回ご来社くださったのが、ほぼ一年前であるので、三冊目を一年で書き上げられたことになる。 すばらしい筆力である。 富山さんがお帰りになったあと、上田睦子さんにお電話を差し上げた。 「ああ、懐かしいわ、お元気?」と上田さん。 「お会いしたいわ」とも。 わたしも「是非に!」と、力をこめて申し上げたのだった。
by fragie777
| 2019-10-08 19:42
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