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10月3日(木) 水始涸(みずはじめてかる) 旧暦9月5日
釣船草(つりふねそう)。 山道に咲いていた。 釣船草躍りやまぬよ瀬にふれて 大関靖博 先日、会場を間違えてしまった件であるが、朝のミーティングのあと場所を確認しようとしていたわたしは、「浅草ビューホテル」と呟いていたんだそうだ。 二人のスタッフが「yamaokaさん、そう言ってましたよ」と言う。 そうだったのか。。。 いったい、いつ、どの時点でわたしのなかで「浅草ビューホテル」が「湯島ガーデンパレス」にすり替わってしまったのか、わたしには皆目わからないのである。 しかし、いまに始まったことではない。 こういうことは(まっ、仕方ないか……)と自分を笑い、秋風にでも吹かれているしかない。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装 210頁 2句組 著者の今越みち子(いまこし・みちこ)さんは、昭和4年(1829)石川県生まれで現在は金沢市にお住まいである。昭和55年(1980)「風」入会、平成14年(2002)「風」終刊とともに「万象」「白山」入会、「白山」「風港」を経て、平成19年(2007)「万象」同人。平成21年(2009)「りいの」創刊同人。俳人協会会員。本句集は、昭和54年(1979)から平成31年(2019)までの40年間の作品を収録した第1句集である。今回句集を上梓されるにあたって、俳人の山﨑(今越)祐子さんが「義母の句集をつくってください」と山﨑さんからご紹介をいただいたのだった。そして本句集にはお嫁さんの山﨑祐子さんすなわち今越祐子さんと娘さんの成瀬真紀子さんと酒井恭子さんが、「娘たちより母へ」と題してそれぞれ文章を寄せておられる。 今越みち子は私の夫の母にあたります。義母が沢木欣一主宰の「風」に入会したのは昭和五十五年。私は義母にすすめられて、昭和五十九年に入会しました。今越は珍しい苗字ですが、当時、今越美智子(義母の兄嫁)、みち子、祐子と「風」の会員欄に三人の今越姓が載りました。 朝顔の一番咲きや子の忌日 (昭和六十二年) 「子」とは私の夫、亡くなって半年後の月命日の句です。当時の私は「風」の投句も怠りがちでしたが、この句を「風」誌上で読み、胸が一杯になったことを覚えています。 今越祐子さんの跋より紹介した。今越(山﨑)祐子さんは、今越みち子さんのすすめで俳句を始められたのだった。今越祐子さんは、みち子さんの「卓越した記憶力」と「旺盛な好奇心」が「活力の源」であると記し、 変りしと思ふ手相や置炬燵 (平成十九年) 確かに手相は変わります。この句集に収められている四十年間は、夫、息子、母、そして後書きにあるように、俳句の師を次々と見送った歳月でもありました。「変りしと思ふ手相」とは、義母が自ら切り開いていった人生の証だと思っています。米寿のお祝いにと思っていたのが、卒寿のお祝いになってしまいましたが、その間も、変わらず元気に俳句を作っていました。私は年に四回、義母を含めた金沢の句友と句座を共にしています。こうして、義母にとりまして、俳句がそばにある人生を送れるのも、金沢の師やお仲間のおかげです。この場をお借りして、嫁として心より御礼申し上げます。 娘の成瀬真紀子さんは、 かはせみの一羽に池の華やげり 炉煙の中に作るや兎罠 近松忌雨脚照らす箔屋の灯 玉三郎の舞まなうらに猛吹雪 大寒の草の息吹を貰ひけり 暖かやさくらさくらを試し弾き 母の俳句は素直で気負の無い写生句で、その眼差しは優しくあたたかい。年を重ねても、新しい時事や言葉も詠んでいて驚く。 母は年を追うごとに、歩くのが遅くなり、視力も低下しているが、句会の皆様に助けられながらまだ俳句を作っている。皆様のご厚意・ご配慮に感謝でいっぱいである。母にはこれからも俳句をゆったりと楽しんで欲しいと思う。 酒井恭子さんは、お母さまのお転婆ぶりと闊達な好奇心と趣味の広さをあたたかく語る。そして、また母の悲しみを思い、健康に気遣う。抜粋して紹介したい。 そんな母の人生は順風満帆だったわけではない。五十四歳で夫に先立たれ、その三年後には支えとなってくれていた愛する息子を亡くし、一時は生きる気力さえ失いかけたようだ。その時母を救ってくれたのが俳句で、中山純子先生が慰めと共に「悲しい俳句を作らないでおきましょうね」と言って下さったことで、人生の積極的な面を見るよう調整して頂いたようだ。 それぞれの方のお母さまへの思いを抜粋して紹介した。 本句集の担当は文己さん。 手拭で顔一撫でし泥鰌焼く 末枯へ木地師の膝を払ふ音蜘蛛の糸客にからまる壬生念仏 漂へる羽毛に冬日とどまりぬ 海めざす電車の軋み稲の花 雪籠り薬缶の笛に返事して 変りしと思ふ手相や置炬燵 ずわい蟹己が値札を動かせり 末枯へ木地師の膝を払ふ音 わたしも立ち止まった一句だ。木地師って「轆轤などを使って、木材から盆や椀の日用器物を作る人」と広辞苑にあるが、お住まいが金沢市であるから木地師さんとはいろいろと面識がおありだと思う。仕事をしていた木地師が立ち上がって膝の木屑を払った。パサッ、パサッと、あるいはサッサ、サッサと渇いた音を立てながら。この一句「末枯」がなんとも上手いと思う。木地師は一年中膝の木屑を払っているであろう。それこそ四季を問わずである、が、この「末枯」の季語によって「木地師」という仕事の孤独感や淋しさがあぶり出された。それがなんとも心に迫る。 ずわい蟹己が値札を動かせり この一句、わたしの好きである。成瀬真紀子さんもあげておられた。売り物のずわい蟹につけられている値札がわずかに動いた。まだ生きている蟹が身体を動かしたのだ。それを「己が値札を動かせり」とすっきりと詠んだ。食べられるために売られていくずわい蟹である。そこに付けられた値札。動いたとき、あれっまだ生きてるんだって思ったとき、愛おしいような気持になるかもしれない。あるいは新鮮でうまそうだなって思うかもしれぬけど、ちょっと切ない一句だ。 まんさくへ早瀬のはじく日の光 この一句、まさに早春の景である。まんさくが咲くころはまだまだ春寒の季節で空気は冷たい。日の光もかたく、早瀬にはじかれた日差しは水辺ちかくに植えられたまんさくの花を射貫くようだ。早瀬の水音、まんさくの黄色、ややとがった日差し、冷ややかな空気、早春がすべてこの一句のなかにある。 炎天の大工怒鳴りて教へをり コワイね、炎天の大工さんは。炎天で怒鳴っているという。だまっていたって暑いのに怒鳴っているとはすごい。しかし、炎天の大工さんは本気である。「教へをり」だから、弟子たちに仕事を伝授しようと必死なのである。暑さだって知ったこっちゃない。「大工仕事でおまんま喰うのはそんなこといちいちかまってなどいらねえ」と。しかしである。季節がもうすこし寒かったりしたらきっともっと静かに教えられたのかもしれない。極暑が大工さんの血をあたまにのぼらせた、「暑くて暑くてたまんねえのに、なんで覚えねえんだよっ」っていうことか。「炎天の大工」は最強にコワイ。 私が俳句を始めてから四十年余り経ちました。長年出版をためらっておりましたが、今回健康で卒寿を迎えた記念に句集を出したらと子供たちが背を押して呉れたのです。 俳句を始めるきっかけとなる事がありました。ある日「今夜は中秋の名月だから」と友が道端の芒を折りました。芒は節から折れば簡単に折れるのに、私は迂闊にもいきなり握ったため、掌に一筋の傷が出来たのです。その時「芒折る手に一筋の傷走る」が浮かび朝日新聞の石川俳句に投稿してみました。その句を思いがけず高島筍雄先生に選んで頂き、本当に嬉しく俳句を作ってみようと思うようになりました。 「あとがき」で、俳句を始められたきっかけを語っておられるが、素敵な俳句との出会いである。 その後、夫、兄嫁それに息子にまで先立たれ本当に生きる張り合いを無くしてしまいました。ある日句会で純子先生が「みち子さん、貴方の気持ちは良く分かります。私も経験していますから。悲しい俳句を作れば作るほど益々悲しくなりますからね。悲しい俳句は今日限りにしましょうね。」とおっしゃいました。その励ましのお言葉が身に沁み感謝の気持ちでいっぱいになりました。それからはくよくよせず明るく暮らすことをモットーに今日まで過ごして参りました。いつも純子先生のお陰と思い涙がこぼれます。そして、嫁と娘といっしょに俳句が出来て本当に嬉しいことです。 師・中山純子との思い出のところを抜粋して紹介した。 人と人生に素直に向き合う著者の心の姿をみえてくる「あとがき」である。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 綺羅のはいった用紙を用いた。 全体がいきいきとあたたかな感じになるようにと。 明るい緑がテーマカラーである。 表紙。 扉。 本句集は、全体を4章に分けてあるが、その章ごとに今越みち子さんの手による装画で飾られている。 ちぎり絵のものだ。カラーでないのが残念であるがとても美しいもの。 いくつか紹介したい。 若い頃は淡いサーモンピンクのグラジオラスのようだった母も今は白花たんぽぽのようだ。背は低くなったが、今も変わることなく好奇心一杯に少女のような心と目で周りを見ている。 酒井恭子さんの跋文より。 本が出来上がった時に、今越みち子さんからお電話をいただいた。 コロコロと鈴がなるような可愛らしい声の持ち主だった。 「白花たんぽぽ」 なんとすてきな方でしょう。 大寒の草の息吹を貰ひけり 句集最後におかれた一句。 句集名ともなった一句である。
by fragie777
| 2019-10-03 20:22
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