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9月19日(木) 旧暦8月21日
今朝駐車場で見上げた空。 「すっかり秋の空ですね」と、車から降りてきた顔見知りのマダムに声をかけられる。 「ほんとうに」とわたしも会釈をかえす。 あまりにも気持ちがいいので、大きく深呼吸をしたのだった。 損傷したわが家の屋根はまだなおらない。 大方忘れてしまっているのだが、友人が心配してくれたりしてときどき思い出す。 (そうよ、わたしん家の屋根!)っていう具合に。 今日も工務店に電話をしてみた。 「ああ、yamaokaさん、すみません。職人に連絡をとっているのですが、、、つかまらなくて」と電話口で社長さんが謝る。 こういう時って、強気に出るタイプとそうでないタイプがあると思うのだけど、 わたしは、どうも強気に出られない。 「そうなのですか。ドキドキして暮らしてます。よろしくお願いします」と言って電話を切った。 ここしばらくわたしの脳裏には「屋根」という言葉が棲みつくことになるだろう。 今朝庭に出て、たてかけてあるその破片に触ってみたのだが、いったいこれがどこにどういう風におさまっていたのか、とんと想像できないところが幸いというべきか不幸というべきか。。。 今日も新刊紹介をしたい。 四六判フランス装帯有り 198頁 二句組 著者の井上文彦(いのうえ・ふみひこ)さんは、昭和28年(1953)滋賀県生まれ、現在は滋賀県大津市にお住まいである。集名からも想像できるように医師でおられる。開業医のかたわら俳句をつくられて来られたのである。結社には所属せず、讀賣新聞の滋賀版に投稿しながら独学で俳句を学んで来られた方である。 「開業してから句を作り始めました。当初は、作った句をノートに記録していたのですが、しばらくして自分のクリニックでとっている読売新聞滋賀版の「滋賀よみうり文芸」(以下文芸と略します)欄に投稿し始めました。」と「あとがき」にある。そして「この句集は私の初めての句集で、これら新聞に掲載された百句と自選の二百四十二句の合計三百四十二句をまとめました。」と書かれている。本句集には、「滋賀よみうり文芸」の選者をされていた「俳壇花藻社」代表の稲葉茜氏が序文を寄せられている。抜粋して紹介したい。 往診に立待月を連れとして 聴診器掌で温めをり冬に入る 雨匂ふ待合室や花菖蒲 脈取れば赤きマニキュア浅き春 間に合はぬ看取りの往診木の実落つ 二の腕のまだ白くあり更衣 春愁や返すことなき父の辞書 長閑さや志ん朝咄のラジオから いわし雲ごしごし洗ふ登山靴 繰り言を聞く白桃の重さかな いずれも人間味豊か、医師としての一面と、家庭人としての半面が垣間見えて楽しい。 結社へお誘いすることも、ご多忙の先生にはご迷惑と思い差し控えた。 漸く壮年を迎えられた先生の今後のご活躍を期待しつつ筆を擱く。 本句集を貫いているものは、現役の医師の日々の生活である。人の生死に向き合う日常の明け暮れである。俳句はいつも著者の傍らにあってその哀歓を掬い取ってくれるようだ。 本句集の担当は文己さん。 夕飯のさらり終はりて花疲れ 約束をふたつ残して春逝けりとことこと二両電車や麦の秋 祈る日の多き八月終はりけり 泣かれても抱く初孫や鯉のぼり とことこと二両電車や麦の秋 一面の麦畑がみえる風景は黄金色の世界でとても気持ちがいい。いつまでも眺めていたいと思う。二両電車で麦畑を通るのはさぞ気持ちがいいことだろう。いくらなんでも「とことこ」とは、言い過ぎ?って一瞬おもってしまうが、だって電車ですから「とことこ」とはね、でも麦の秋の大景においては、わたしたちも鳥になって空からその景をみれば「とことこ」なのである。われわれの視点は乗車客のそれではなく、麦畑を行く二両電車を遠くから遠望しているものなのである。童話の世界のような長閑な景色が展開されている。こんな旅をしてみたいものだ。二両電車といえば、かつて乗ったことがある。そう、青森の旅で太宰治記念館に行ったとき、そう五所川原市を走る津軽鉄道がそうだった。あのときは冬だったと思う。麦の秋の季節ではなかった。 祈る日の多き八月終はりけり 著者の井上さんは、臨床医として患者さんの死に立ち会うことが多い。本句集にはそういう句も多くみられる。死はいつも傍らにある。八月という月は死者のための月と言ってもいいかもしれない。広島、長崎へ原爆がおとされ多くの人が亡くなった。またたくさんの死者を出した大戦が敗戦というかたちで終結したもの8月である。旧盆には死者の魂がこの世に戻ってくる。八月は死者の声に満ち満ちているのだ。その死者に向き合うときわたしたちは祈りの形でしかもはや向き会えない。近親の死者の魂へ祈る悲日々であり、また戦争によって死んでいった死者の魂をも思い祈る日々である。そんな八月も終わろうとしているのだ。 聴診器掌で温めをり冬に入る 稲葉茜さんも序文であげておられたが、わたしはこの一句に立ち止まった。医師としての著者の優しさを思う。聴診器って直に肌にあてるものだから、寒い季節にはびくっとするくらい冷たい時がある。患者さんの心臓を驚かせないように、掌ですこしあたためてから診察をしようという心配りである。わたしは何度か聴診器を当てられたことがあるが、そのような配慮をされたことがないのでちょっと感激してしまった。季節を実感しながら働く医師の姿がここにはある。 梅雨冷えの癌を告げたる夜診かな なんともこちらの心も落ち込んでしまうような一句である。夜の診察もなさっているのか、「梅雨冷え」が気持ちをいっそう寒々と重くさせる。告げる方も告げられる方も逃れることのできないツラさである。自身の医師としての現場をこうしてもう一度句にすることによって、自身に人の生死の定めの非情さを刻印しているのかもしれない。 青嵐郵便配達急発進 漢字のみの一句である。情景は手にとるようにわかる。青嵐の青と郵便配達の車の赤と色彩を呼び起こし、そしてはげしい動きを詠んでいる一句である、が、視覚的には漢字のみで表記されているので硬直しているように読み手にみせるところが面白い。内容が表記をみごとに裏切っているのだ。印象的な一句である。 水中花ジャズの流れる喫茶店 これは昭和の匂いがプンプンする一句である、と言ったら叱られるだろうか。著者の井上さんは、青春期がちょうど70年代、70年代は喫茶店というものが街のあちこちにあり、ジャズ喫茶も多かった。タバコをくゆらしながらジャズを聴く若者は珍しくなく、わたしの青春の風景にもよくある光景だった。水中花をかざる喫茶店というのもまさに昭和のややうらぶれたイメージである。平成はもとより令和となった今、このような喫茶店(というものが少ない)に出合うのは、逆立ちをする猫に出合うよりむずかしく思える。水中花、ジャズ、喫茶店、どれもいまの若者には無縁なように思えるが、わたしにはこころがぎゅっとするような感じでなつかしい。 俳句は私の生活の中で、決して中心的存在ではありませんが、ある意味で確固たる存在感があります。俳句を始めてから、いや正直に言うと新聞に投句するようになってから、目にするもの、音、匂いなど生活のすべてが俳句の対象になりました。花、鳥、空、湖、樹、山、月など周りにあるすべての自然が四季それぞれに新鮮に感じられます。ありがたい、いろいろな意味で豊かな生活です。また、開業医の仕事としての外来や検査、往診なども句材になります。とりわけ往診の帰りの車中は句作にはもってこいの時間のひとつです。私の日常である午後の往診から、「往診の午後」をこの句集の題名といたしました。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装幀は君嶋真理子さん。 「希望した通りの素敵な本になりました」と井上文彦さんは喜んでくださった。 見返し。 メインカラーはグリーン。 ブルーのものと二種類用意したが、グリーンのものをお選びになった。 扉。 栞紐は、白。 これからも、日常生活の折々で句を詠んでいくことでしょう。どのような気づき、どのような感動に出会うことができるのか、今からワクワクしています。 ふたたび「あとがき」より。 往診の帰路はつかの間花人に この一句。臨床医というハードな医業に携わりながら、心はつねに季節に開かれている作者の姿がある。 本句集にはその姿勢が貫かれている。 それが素敵だと思う。
by fragie777
| 2019-09-19 20:34
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