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9月18日(水) 玄鳥去(つばめさる) 更待月 旧暦8月20日
横顔の露草。 今日は仕事の作業上、「蕗の薹」という字を何度か書かなくてはならなかった。 「蕗の薹」の「薹」という字、辞書を見なくて書けます? わたしは実はいつもごまかして書いている。 おおよそこんな具合だったよなあ、こう書いておけば「蕗の」との組み合わせで詠めるだろう。 なんて安易な考え方で、きっちりと「薹」を認識していなかったのである。 だってこんなに複雑な字でしょ。 しかし、今日は思い直してこの際しっかりと「薹」を頭にいれておこうと思ったのだった。 で、漢和辞典を開いて練習をした。 よくよくみると覚えやすい字であることがわかった。 もうバッチシである。 今度わたしに会った方、「蕗の薹って書いて見せて」と言ってくださらない? シャカシャカと書いてみせますから。。。 下手くそな字ですが、、、これらは見ないで書いたもの。 すごいでしょ。 書けるんよ。(間違ってないよね) こういう時に間違えるのが、yamaokaである。 あはっ。 新刊紹介をしたい。 四六判ペーパーバックスタイル帯付き 104頁 二句組 著者の左近青風(さこん・せいふう)さんは、1953年大阪生まれの方。俳句は結社には所属せず独学で学んで来られた方である。「はじめに」で左近さんは、「俳句を始めたのは祖父の影響だ」と書く。おじいさまは金沢市のお生まれの方で「北雨」という俳号をもっておられたという。おじいさまについて歩いて一句をつくられたりしたこともあったという。ご両親も「旅行の折などに俳句を詠んでいた」と書いている。 昭和生まれの私にとって平成は子育て孫育ての時代で、介護生活も始まった。俳句をどなたかに習った訳でもなく、ただ淡泊な短い表現が好きで、本や雑誌の記事から学んだことが多いと思う。 と「はじめに」にある。 本句集は全体を四季別にわけほかに「「パリ・冬」「パリ・夏」の項目を立て、海外詠を収録している。著者の左近さんは、写真も撮られる方で、口絵に四葉の写真を載せておられる。 俳句のおかげで繫がった人間関係もある。平成三一年の早春に写真とイラストによる俳句展を大手通のギャラリーで開催し、ちょうど一〇〇人の来場者に恵まれた。 「あとがき」に書かれている。 本句集はこれまで書きためた俳句をご自身のために、また左近さんと交流のある方々へ向けて上梓された記念の一冊である。 本句集の担当は文己さん。 椅子の脚ばかりが見える梅雨の店 この町に八百八橋星涼し匙の音かちりと氷食べ終える 秋の星かかりて影の竹生島 名画へと車走らす古都の夏 「句集でも口絵に写真がありますが、写真がお好きなようでメールでも地蔵盆の様子など送ってくださいました。関東ではあまり馴染みのない風習なので面白く拝見しました。 」と文己さん。 ゲラのやりとりにおいても丁寧なお手紙をくださったということ、人と人との交流を大事にされるお方のようである。 椅子の脚ばかりが見える梅雨の店 この一句はわたしも面白いと思った。何の店であるかは分からないが、おそばやさんとかうどん屋さんとか気取らない飲食店を私はイメージした。見えるのは「椅子の脚ばかり」ということで、梅雨の時期の鬱陶しさがこちらにも伝わってくる。人間の脚が見えないというのは、暇しているのだろうか。梅雨の季節あまりせせこましい店には入りたくないもの。きっと著者もその店を素通りしたことだろう。 この町に八百八橋星涼し 「星涼し」という季語が利いている。「この町に八百八橋」という措辞もすっきりと胸におさまる。たくさんの橋があることはそれだけで暑苦しいように思えるのだが、表現如何によってかくも涼しくなるものか、って思った。 蟬鳴いて古坂の石欠けており 「古坂」というのは大阪の地名なのだろうか。それとも古い坂という意味なのだろうか。「古坂の石」という表記が独特の雰囲気を醸し出す。そこにおかれた石が欠けているという事実。どうということはない事実であっても「古坂の石」であればなにか格別のものがあるような。蝉はただはげしく鳴くのみ。猛暑の一日だったのだろう。 下駄の緒をゆるめ花火の上がる待つ 左近さんは、大阪の人である。浴衣を着て花火見物に出かけたのか。花火を見ることと下駄の緒をゆるめることは、なんらの因果関係もない。しかし、花火を待つのに「下駄の緒をゆるめる」という仕草が、花火の季節を心から楽しもうとしている作者の思いがそこはかとなく込められているように思え、読者もまたそのゆったりとした時間を楽しむような気持ちにさせられる。ともに花火見物をしている人たちも遠慮の無い打ち解けた関係なのだろう。 運河淀み舟まだ眠る夏の明け 海外詠の中の一句。オランダの街の風景か。あるいはデルフトあたりか。(ここはかつてわたしも行ったことがあり、運河が印象的である。もちろんフェルメールでよく知られた街だが。)夏の明け方の運河の街の、これから動きだすその前のすこしけだるいような重くれた雰囲気の感覚が伝わってくる一句である。この一句を詠みながらわたしは五月のデルフトの運河を思い出していた。 私は結婚生活四〇年余りのうち、二年間をアメリカで過ごした。ナッシュビルとボストンに各一年。ボストンの倉庫のような本屋で英語版の源氏物語に出会い、帰国後ドナルド・キーン氏の著作を知り、奥の細道や徒然草を読み直した。ちなみに澪標は源氏物語の第一四帖で登場人物の運命が複雑に交差する。俳句の季節をたよりに、短い詩形をまとめる作業は分析的で、感覚に頼りがち な日本人以上に海外で理解されているようだ。在米の友人が私の俳句を季語だけでなく音の繰り返しにまで気を配って読んでくれた。英詩なら押韻は基本だからかと思った。 「あとがき」より抜粋して紹介した。海外生活を通して、俳句を自身のなかに肉付けしてこられた方でもある。 本句集の装幀は、和兎さん。 シンプルさを心がけた。 グレーの素材感のある用紙にタイトルは白の箔押し。 帯は白の光沢のあるものを用いて表紙の素朴感とはことなる雰囲気を出してみた。 ワイン色はテーマカラーとした。 左近さんはおしゃれなマダムでおありのようである。 扉は華やかに。 初茜迷う思いにみおつくし 「みおつくし」は旧仮名では「みをつくし」、漢字では「澪標」、英語では「channel-buoys」といった表記がある。 題を取った「みおつくし」は古来から水路の道しるべを意味して大阪市の市章でもある。 俳句のおかげで繫がった人間関係もある。 俳句を作るのは一人のときだが、自分は一人ではないと実感した。 と著者の左近青風さん。 ふとんの子睫毛は長く頰あかく 好きな一句である。「ふとん」が冬の季語。布団にくるまって寝る子どもの顔の一部を詠んだもの。いかにも子どもらしい様子である。これが大人だったら、熱があるんじゃないか、とか、酔いがまださめてないんじゃないかとか思ってしまうけれど、子どもだからふとんにくるまれてあたたかな様子で寝息をたてていることがよくわかる。「ふとんの子」という表現が俳句ならではだ。幸せな眠りの中のふとんの子である。近づけば子どもの匂いまでしてきそうな一句である。 今日はお客さまがいらっしゃった。 佐瀬はま代さん。 はじめての句集を上梓されるために句稿を持ってご来社くださったのである。 佐瀬さんは、俳誌「知音」(行方克巳・西村和子 代表)に所属する俳人でおられる。 今日はいろんな本の見本をご覧になって、二つを選ばれてすこし検討されるという。 選ばれた本の造本は、フレキシブルバック製本と、クータ-バインディング製本のもの。 どちらも製本技術を要する凝ったものである。 見本を家に持ち帰られて、すこし考えられるということである。 大切な一冊である。 十分に検討していただきたいと思う。 佐瀬はま代さん。 赤い眼鏡がおしゃれ。 ご主人が題字を、息子さんが絵を、娘さんが口絵のカットを寄せられる予定であるという。 ご家族も楽しみながら本作りに関わってくださるのだろう。きっと。
by fragie777
| 2019-09-18 20:18
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