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9月10日(火) 旧暦8月12日
秋薔薇。 一昨夜の寝不足がまだ尾を引いているのか、今日は眠くて仕方がなかった。 バランスボールに乗ってゲラを読んでいてときどきひっくり返りそうになった。 今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、小島一慶句集『入口のやうに出口のやうに』より。 我のこと我は好きなり八つ頭 小島一慶 自分を心底嫌いな人はいないだろう。多少でも見所があると思えばこそ折り合いをつけて生きている。ヤツガシラは芋の一種。親芋小芋が分かれず、玉となるので頭がいくつもあるようにみえる。句集『入口のやうに出口のやうに』より。 この一句はわたしも好きである。今日のこに記事には、ヤツガシラと記して八つ頭のグロテスクとも言ってもいいような写真が添えてある。グロテスクでありながらやや滑稽、小島一慶さんは、ご自身を八つ頭にたとえておられるわけではないだろうけど、八つ頭の気持ちがわかるのかなあ、こんなグロテスクな我であっても愛おしい我と八つ頭は言っているような気がしてくる。 新刊紹介をしたい。 四六判小口折表紙帯有り。 204頁 二句組。 著者の吉田林檎(よしだ・りんご)さんは、東京生まれで東京在住。昭和46年(1971)生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。本句集は、平成22年(2010)から平成30年(2018)までの作品を収録した第1句集であり、西村和子代表が序文を、行方克巳代表が帯文を寄せている。 初仕事去年の我よりメモひとつ 机上にある自分自身のメモは、初仕事として今日しなければならぬことーー。 明日への課題を日々の心に書き止めながら、吉田林檎の進むべき一歩一歩が見えてくる。 行方代表の帯文である。 著者の吉田林檎さんは、子育てをしながら果敢に働く女性である。本句集はひとりの女性の日々が俳句となってこまやかに詠まれているが、行方代表は著者のキャリアウーマンとしての一面をとらえた。 西村和子代表は、最初からの俳句の指導者として吉田林檎さんの俳句の歩みを見てきたゆえに、その歩みに添って作品をとりあげその成長についてあたたかなエールをおくっている。 木洩れ日を掃き寄せてゐる夏袴 塵や落花や落葉を掃き寄せているのではなく、木洩れ日を掃き寄せているとは、どういうことだろう。目に立つ塵やごみなど、ほとんどないのである。いつも掃除がゆき届いている場なので、掃き寄せるものとてない。はた目には、まるで木立の間から洩れる光そのものを掃いているように見えるのだ。 それはどんな場所であるのか、「夏袴」が語っている。夏でも袴を身につけて、箒を手にする所。清浄な神社の庭か、弓道場のようなところか。どんな人物が、どのような姿で、どんなところを掃いているのか、おのずと見えてくる。清らかな木洩れ日も、静かな場所も、ゆるやかで無駄のない動きも。 男には務まらぬこと春ショール さあ私の出番だ、という自負がこの句にはある。家族内のことでも、仕事の上でも、世の中は男と女で回っているのだから、男女は分権で力を発揮すればいいのだ。女には女の務めがあるという自覚と自信に満ちた句だ。 春ショールが大いに語っている。まだ風は冷たい春先、ショールは華奢な体を守るものでもあり、おしゃれ心の表われでもある。明るい色の薄いショールを翻して、自分の務めを果たしてゆく女性。拍手をもって見送りたい。 (略) さらに見逃してならぬことは、 押し出され押し出され咲く椿かな 藤棚に佇つ靡かざる者として 何でもない何にもなれる春の雲 まな板の裏まで濡らし西瓜切る 未婚でも既婚でもなく寒茜 自然界に向ける確かな眼差が、人間界さらには自己の内面まで真直ぐに向けられ、対象に迫る表現力を我がものとしている点だ。 序文を紹介した。 本句集には子どもをみつめその成長を詠んだ句がかなりあり、また働く現場での句もあり、母でもなく仕事人でもないひとりの女性としての思いを詠んだ句も、あるいはさらにツライ内面に踏み込んだ句もある。本句集には、吉田林檎さんの人生の日々が俳句に詠み込まれているのだ。 この句集の担当は、Pさん。 子の夏やサドルを高くしてやりぬ 木漏れ日を掃き寄せてゐる夏袴 蝶々の遠くを目指すとき疾し 草餅の香をうち広げ寄席楽日 子の夏やサドルを高くしてやりぬ 子育ての一過程だ。「子の夏や」という措辞がいい。母親の子どもへのまぶしいような愛情にあふれている。ぐんぐん成長する我が子、しかし、まだ自分では自転車のサドルを高くするすべは分からない。母がすることを食い入るように見ている子どもの目、そしてそれに応える母の頼もしさ。自転車にまたがった子どもはさらに視野がひろくなって夏空のもとを駆け回ることだろう。 黒葡萄吸ふやいよいよ変声期 これはわたしが面白いと思った一句である。サドルを高くしてやったまだ小さかった男の子も成長し声変わりの兆しがある。この頃の母親の気持ちってすこし複雑かもしれない。お母さん、お母さんってべたべたしてきた男の子もやや距離をおくようになって、彼らのこころもそれほど単純ではなくなる。ふっと視線に陰りを見せ、母親を冷ややかに見つめることだってある。そんな男性へとなりつつある息子が黒葡萄を食べている。その黒葡萄は暗い陰りをもって光っている。息子が吸い込むのは黒葡萄の果肉だけでなく、なにか人生の不穏な兆しも加味されているような思いがしてくる。ああ、もう可愛いだけの子供じゃないんだわって、そんな覚悟の一句とも。 待つ人も待たせる人もなく暮春 この一句、なんともアンニュイな一句である。心がドスンと落ち込むような、そう「暮春」と最後に置かれたのが決定的である。こんな淋しいことってある。おおかね、生きていればこういう思いを抱くこととはままある。しかし、ねえ、春の暮だけにはこんな思いになるのは避けたいってわたしなど思ってしまうけど。「暮春」がとりわけ重たい。心に重石をおかれたみたい。 藤棚に佇つ靡かざる者として そうそう、こうでなくっちゃ。これはyamaoka好みの一句である。「靡かざる者として」がなんともカッコいい。藤の花が咲きあふれはんなりした空気の下での決意であるので優美さも加わっていいんじゃないかしら。優雅に揺れる藤の花、そこにわたしはわたしであるとの決意をもって凜と立つ女性。 思えば俳句の世界に導いてくれたものはどれも身近な人のさりげない一言でした。 句集のタイトル「スカラ座」は〈パンプスを鳴らしスカラ座灯涼し〉からとりました。喜劇王チャップリンがこんな言葉を残しています。 人生はクローズアップで見れば悲劇だが、 ロングショットで見れば喜劇だ。 この言葉と俳句を詠む行為に相通ずるものを感じ、句集のタイトルとしました。 どん底と思われる時期でも、自分を客観視し、笑いに変えることすらできたのは俳句のおかげです。 「あとがき」を抜粋して紹介。 本句集の装幀は和兎さん。 まだまだお若い吉田林檎さんにふさわしく華やかな一冊となった。 吉田林檎さんは東京生まれの都会的な女性。 「スカラ座」というタイトルを金箔に。 見返しはマーブル模様のもの。 小口折表紙なので、表紙とカバーは一体化している。 扉。 子供部屋この頃広し秋の風 巻末近くに置かれたこの句は、林檎さんの人生の次なるステップを予感させる。それは俳句作者としてさらに充実したものになることを信じている。 ふたたび「あとがき」より。 この「子供部屋」の一句、わたしも好きな一句である。子供部屋を詠んだのに「子の部屋の窓を借りたる月見かな」という句もあってこちらも好き。子どもを育てておられる吉田林檎さんにとって「子供部屋」の存在は大きくて大切なんだろう。その子供部屋が広く感じられたというのは、子供部屋が実際に広くなったのではもちろんなく、子育てをしている吉田林檎さんにゆとりが生まれて来たのだろうと思う。子どもとご自身との関係もいい距離ができて風通しがよくなってきている。そんな吉田さんの今を、西村和子代表は俳人としてのこれからの歩みの更なる一歩として導こうとしているのだ。
by fragie777
| 2019-09-10 19:49
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