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9月8日(日) 白露 旧暦8月10日
朝顔。 すぐ右横に虫(カメムシだろうか)がいる。 今日は「白露(はくろ)」。 昔の人は、草木に降りた露が白濁したように見えることを、夏から秋への交代期の目印としたそうです。昼間の残暑はまだまだ厳しい時期ですので、白露という言葉にせめて涼しさを感じとりたいものです。(『季節のこよみ』より) 台風接近まえか、蒸し暑い一日となった。 誰もいないのをよいことに、仕事場ではノースリーブとなって二の腕を出して仕事をしている。 もう人様にお見せするような二の腕ではないので、基本的に七分袖もしくは長袖しか着ないのであるが、今日は天下御免である。 非常に涼しい。 わたしの太い腕たちも大いに喜んでいる。 今日は髙柳克弘著『焦門の一句』と奥坂まや著『鳥獣の一句』より9月8日付けのものを紹介したい。 菊をテーマにした嵐雪の連作「菊花九唱」から三句、紹介したい。今日鑑賞するのは、嵐雪の代表句として、よく知られている作。元禄元年九月十日、芭蕉、其角、越人たちと素堂亭の菊見の宴に参加したときの句である。世の中にはさまざま趣向を凝らした名の菊があふれているが、黄菊と白菊だけあればじゅうぶんなのだ、他は要らない、という句意。菊は奈良時代に中国から渡来、元禄期には品種は二百を超えるほどで、とくに巣鴨や駒込の植木屋がさかんに菊の品種改良を行っていたようだ。平明、素朴を好み、華美や虚飾を拒んだ蕉門の考えを凝縮した、十七音の短い俳論ともいえそうだ。(『其袋』)季語=菊(秋) この『焦門の一句』であるが、虚子著の『俳句はかく解しかく味う』(岩波文庫)と一緒に読むと面白い。 この書で虚子は、芭蕉をはじめ芭蕉の弟子たちの句もかなりとりあげて鑑賞している。 なかでも凡兆、嵐雪、其角の作品は多くをとりあげている。 嵐雪については、「すべてもののやさしみをいうのに長けておる」とかたり、「余事ではあるが、嵐雪というのは芭蕉の主な弟子の一人で、其角と並称(ならびしょう)せられ、芭蕉の門人に其角、嵐雪ありと言ったと言われておる男である」と記している。 わたしが好きな丈草については、一句をとりあげているのみでしかもその一句は、「丈草でかしたり」と言って芭蕉がほめた一句なのだが、それについて虚子は「まだ何処か句に幼稚なところがある」と語り、その前にある太祇の句に軍配をあげている。その理由は太祇の方が「客観的に叙していて」とあり、すでにそこには、虚子の客観写生に基づいた鑑賞の目があるのだ。 奥坂まや著『鳥獣の一句』より。 或る闇は蟲の形をして哭(な)けり 河原枇杷男 「鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)」という漢語を俳句の文脈に直したら、このような詩句になるだろうか。「蟲の形」と置いた分だけ生々しく、膨れあがったり、凝縮したりする闇が迫って見えてくる。私には、恋を喪ったときの心の闇に思える。ある人は、二等兵として派遣され、幾多の戦友が斃れた満州の闇だと言った。人間の生の業は、誰にもこのような闇を経験させずにはおかないのかもしれない。(『密』)季語=虫(秋) わが家では朝から虫の声がよくしていた。 夜ではなく、朝に聞く虫の声はいよいよ秋が深まりゆくことを思わせる。 蝉の必死の鳴き声ももう聞こえなくなった。 その分、虫たちの声が賑やかになりつつある。
by fragie777
| 2019-09-08 19:50
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