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8月2日(金) 大雨時行(たいうときどきにふる) 旧暦7月2日
みそはぎ(千屈菜)は秋の花だが、もうすでにあちこちで見られる。 先日行った神代水生公園にも咲いていた。 みそはぎに蜂が止まっている。 こっちは蝶がぶら下がっている。 今日は花の金曜日である。 スタッフたちは皆いそいそと帰って行った。 わたしはひとり淋しくこうしてキイボードを打っている。 淋しい? そりゃ嘘だろ。。。 内面の声がする。 どうなんだろう。 「淋しい」を広辞苑で引いてみた。 知ってます? 淋しいには四つの意味があることを。 恥ずかしながら、いま認識した。 要するにすべてがかの偉大なる「源氏物語」から呼び起こされる四つの淋しさである。 わたしが「ひとり淋しく」と言った場合、広辞苑によれば①と④の意味に当てはまるかもしれない。 内面の声が指摘した「淋しさ」は正確に言うと③だ。 で、③だってわたしの心を支配することがある、と言っておきたい。 「淋しい」の4つの意味は、広辞苑を引かれたし。。。 新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル 72頁 4句組 第1句集シリーズ 著者の板倉砂笏(いたくら・さこつ)さんは、1947年(昭和22)山梨県生まれ、現在東京都立川市在住。2002年(平成14)より句歌詩帖「草蔵」創刊同人。本句集には佐々木六戈代表が序文を、かとうさき子さんが跋分を寄せている。 佐々木六戈代表の序文は、「壺公の俳諧」と題して、著者の砂笏さんとの不即不離の関係から説き起こし、砂笏さんの俳句のありようにふれる。このヘンは佐々木六戈さんの博識と教養が織りなす世界であるので実の文章にふれて味わっていただきたい。そして、 わたしは板倉砂笏さんの句集『壺の中』を楽しく読んだ。この句集は季語の陳列でもなければ、作家のビルドゥングスでもない。手練の煮詰まりではなく、言わば、壺の中への句の投入れである。投入れとは華道の手法である。枝ぶりのままに挿すから人工の臭さはない。その枝ぶりを見てみよう。それらは四つの壺に投げ入れられた。 炎昼や黄金仏のひとねむり 「夏の壺」 穀象を探し出しては翫ぶ 「夏の壺」 石叩きアウシュヴィッツに来たりけり 「秋の壺」 三秋の人ごみの中壺の中 「秋の壺」 かまはぬよ寒の戯作と風呂談義 「冬の壺」 凍滝やルノアール額縁の中 「冬の壺」 陽炎のなかの旅行き遊行期や 「春の壺」 もう一歩山の笑ひに出逢ふべく 「春の壺」 「なくてもあるべ」き句を引いてみた。まだまだ引いてみたいのだが、なくなると困るので止めておく。 この「なくてもあるべき句」というのは、先に引用されている『三冊子』からのことである。 跋分を書かれたかとうさき子さんは、板倉砂笏さんの詩を紹介しながら、 さて『壺の中』の句群は、誹りを覚悟で言えば、詩的世界の副産物として世界を成しているように思える。即ち俳句というものよりも詩の方が先行しているのではないだろうか。 坪庭に骰子もあり風光る 油虫不可解にしてカフカかな 緑蔭の寝息老人の溜息 小春日にほうけてゐたる寝覚鳥 どれも自由で独創的。そしてユーモラスな視線が十七文字の余情を深くしている。《坪庭に骰子》《油虫とカフカ》《緑蔭の寝息》は実に軽妙であり《小春日にほうけている鶏》もどこかあか抜けている。それは決して意図したものではなく、衒いのない作者自身の底流に息づく詩片と言えようか。当然、壺中天の作者にして作者ならではのものなのだ。羅列した一連もふと見返せば、結果的にではあるが一つの詩篇の姿を呈しているのも面白い。 本句集の担当はPさん。 いつか見し色を尋ねん遠花火 ひと雨の重さをかかへ百日紅 マスカット食べおだやかに海眺め 白壁のほころびを縫ふ草の花 三秋の人ごみの中壺の中 水割りのグラスのなかや春隣 冬の日の本棚白く読書かな 白梅や暦と暮らす人とあり 水割りのグラスのなかや春隣 わたしもこの句はチェックした。いったい春が近づいたことを水割りのグラスの中に見いだすなんて、面白いけどよっぽどの酒飲み!って思った。何のお酒を飲んでいるのだろうか、ウイスキーかな、昔だったら水割りと言えばウイスキーだけど(わたしもまあ少しは飲んだ)、いまは焼酎もある。ただ思うに、これはきっと焼酎であろうかと、お酒と氷とそしてグラス、すべてが透きとおっていなくてはいけない。ウイスキーのような黄金色が入ってしまうと、春隣というよりも秋近しっていう感じ。まったりとして香り高いウイスキーよりもさらっとしてシャキッとしている焼酎の方が「春隣」にふさわしいって思うんだけど、いかが。。。 起き抜けにみな背のびする五月かな わたしの好きな一句である。五月の爽やかな季節こそ背伸びはふさわしい。細胞に新しい風を呼び込んで、なんだか背も高くなってしまいそう。んってことはないけど、まわりの人たちが、いや、東京中の人たちが、いやいや日本中の人たちが、5月にはみな起き抜けに背伸びするなんてどう。この句、「五月」が絶対動かないって思う。 手ぶらにて怪しき人の秋の暮 この句も笑った。すきな一句である。板倉砂笏さんの句にある「ゆるさ」がいいなあって思う。「手ぶらにて」という措辞がいい。「怪しき」に行くまでにはちょっと論理の飛躍があるようにも思えるのだが、これは「手ぶら」と「怪しき」は同格で、そういう人がいたのである、ある秋の暮に。「秋の暮」になるとそういう人を見かけないこともないが、「秋の暮」なので、ちょっと淋しさもあってまあ、いいか、ってやり過ごす。 独り居の炬燵のうへやトルストイ ひょっとすると板倉砂笏さんはひとり暮らしでいらっしゃるのかもしれない。ほかにもそのような句があった。「トルストイ」というのが、昭和戦後生まれの世代をおもわせていい。トルストイの長編「戦争と平和」をずっと詠み続けておられるのか。若き日にすこしは読んだトルストイを時間がたっぷりある今、もう一度読み直そうと。このトルストイの本は文庫本というよりハードカバーのがっしりした本の方が絵になるかなあ。 たとえば、この「トルストイ」を「プルースト」に置き換えるとぐっとその人となりが違ってみえてくるような気がするんだけど、どうだろう。そして炬燵はあまり似合わない、もっとしゃれた暖炉とかね。 青壮年期、学生期から家住期は、カタカナ語に彩られたものでした。ベビーブーマーの時代状況とマスコミュニケーションの擡頭の渦中で、都市生活者としてのライフスタイルの確立が急務でした。ペダント、ダンディー、アナーキー、デカダン、ニヒル、エピキュリアン、ビートニク、ニート、スノッブ、等々、「シティボーイ」になりたくて、「世界は、リゾーム、人間はノマド」を信条に、迷宮めぐりを心懸けました。上記、日本語(翻訳語)に表記を統一できないのは、私の器量不足と、ご容赦ください。 結局、「スノッブ」をスタイルとして選択しましたが、「日本の伝統は形・型に始まり、形・型を抜ける」「学ぶことは、真似ることである」等が、通奏低音としてありました。 「不肖の弟子」という言い方、立ち位置が好きです。老若男女を問わず、多彩な畏敬すべき師に出会うことができ、音楽、文芸、建築、編集、茶の湯、料理、美学、服飾、絵画、等々、身につけておいたほうが良い「作法(マニエラ)」を学びました。 「われ以外みなわが師」ということになります。 昨今は、師の影を踏み続ける毎日ですが、ご海容のほど、お願いいたします。 そしていまは、「旅は道連れ、世は情け」の俗諺が気に入っています。林住期から遊行期へ、旅の道連れは、「仏法僧一羽」かも知れないのですが、私の小さな旅は、いま始まったばかりのようなのです。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 ほかに、 君の手の金魚すくひの水あさく 友の顔色あせてをり十二月 風花の光のなかを銭湯へ 卓袱台に昭和の傷や日永し 白梅や暦と暮らす人とあり 対岸の乾いてゐたる春の土 永き日の更地に杭の打たれある ブランコはひとりで揺れて真昼どき 本句集の装丁は和兎さん やや暖かみのあるグレーである。 三秋の人ごみの中壺の中 壺の中には壺の外の世界が密封されているだけのこと。何となれば壺の外も壺の中も世界のリバーシブルなのである。そこを仙人は、否、俳人は出入りするのだ。但し、中も外も寸分違わぬ世界なのだが、俳人は俳句の分だけ変身するのである。 帯・佐々木六戈 いまはもう静かな背中墓洗ふ この一句も面白い。この背中はご本人のものであってもあるいは一緒に来た連れの人間の背中であってもいいのだが、たぶんそれは同世代のかつての同士といった関係で墓はその同士のひとりだった友人の墓である。いろんなものを背負って時代に逆らい戦い傷つき怒りや悲しみをためていた背中であるが、いまはそのような思いもさっぱり消えて、静かな背中となったのである。というのは一つの見解であるが、いかように想像してもよいわけで、墓を洗う「静かな背中」がさまざまなことを語っている。
by fragie777
| 2019-08-02 19:56
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