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8月1日(木) 八朔 旧暦7月1日
百日草。 町中でよく見る花であるが、山里でみるとひときわ鮮やかだ。 急激な猛暑で身体をこわす人がわたしの廻りにもたくさんいる。 わたしもまだときどき咳が残っており、またこのごろでは身体がアレルギー反応をおこして身体中が痒くなったりしている。 人間はかくも季節の変化に敏感に反応するものか、この私でさえそうなのだから、体調を崩しておられる方はほかにもたくさんいらっしゃると思う。 ご自愛くださいませ。 今日は神野紗希さんがご来社くださった。 秋にむけて「女の俳句」が刊行される予定だが、その打ち合わせに見えられたのだ。 「女の俳句」は、「ふらんす堂通信」に連載されていたもので、この度一冊となって刊行される。 連載中のときから好評だったが、それにすこし手を加えて、いっそう中身が濃いものとなる予定。 さまざまな俳人が「おんな」を詠んでいる。 「女性」ではなく、「おんな」というのがいい。 わたしも「おんな」の端くれだが、この「おんな」というお腹にくる響き、そしてそこから立ちが上がってくるものをなぜかコワイと思ってしまうのよね、ヘンだろうか。 「女の俳句」には、さまざまな女が登場する。 俳句を通して「おんな」を学習するよい機会になるかもしれないです、と言っておきます。 「BRUTUS」(マガジンハウス)が送られてきた。 さまざまな角度からの「ことば」へのアクセスがあって、面白い。 そのひとつに「怖さが潜む、ゾッとするフレーズ」というページが2ページにわたってあり、精神科医で作家の春日武彦さんが、書物のなかよりその「フレーズ」を紹介している。 1ページ目は、二冊紹介されていて、そのひとつが内田百閒の『無弦琴』所収の「殺生」よりだ。 もうひとつが、髙柳克弘句集『未踏』である。 ことごとく未踏なりけり冬の星 の一句に黄色のマーカーで線が引かれている。そして、その怖さに理由が記されている。のだが、ここでは紹介しない。本誌を読んでくださいませ。ただ、句集の紹介のところに「青春俳句も多く収め、掲題の句に絡めたタイトルも力強く爽やか。天金ならぬ天黒を施した造本が美しい。ふらんす堂」とあり、嬉しく思った。この本にこめた本作りの思いが認められたようで。。。この句集をつくるときは、絶対に「天に色をはろう」って勝手に決めていた。装丁が決まったときに、「ああ、これは黒がいい」って。しかし、製本屋さんが引き受けてくれるかどうか。当時の並木製本の高橋さん、休みを返上してご自身が真っ黒になりながら、天黒にしてくださったのだ。わたしは密やかに満足だったが、当初あまりこの「天黒」のことは話題にならなかった。しかし、『未踏』を手にとるたびにその時のことが思い浮かぶ。「品切れ」とあるのが、なんとも残念であるが。。 そうそう、この特集に北大路翼さんも登場してます。 新刊紹介をしたい。 四六判ペーパーバックスタイル 198頁 著者の辻内京子(つじうち・きょうこ)さんは、昭和34年(1959)年和歌山生まれ、「鷹」(小川軽舟主宰)同人。平成20年に第1句集『蝶生る』で、第32回俳人協会新人賞を受賞されている。平成30年(2018)に鷹俳句賞受賞。本句集は第2句集となる。帯に小川軽舟主宰が言葉を寄せている。 身近で親しい情景なのに、なんて静かなんだろう。 それを遠く眺める作者の目は、生きてきた時間を見ているのかもしれない。 私は辻内さんと同世代だから、とりわけそう感じる。 思わずもの時間を呼び止めたくなる。 そうか、小川軽舟主宰と同世代であられるのか。 そう思って本句集を読むと、やはり日常の暮らしが見え、家族の一員である著者の思いのようなものが見えてくる。 さざなみのごとく妻たり蝉しぐれ 灯してわが家ちひさし春のくれ 家々に表札のある西日かな 毎日にゆふぐれのあり瓜冷やす 寒林に父の帽子を探しにゆく 滝を見て帰れば母の泣いてをり 父を待つ冬日の坂は過去のごとし 物干しに家族のかたち豆の花 いくつかあげたが、単に家族を詠んだというにとどまらず、ここには物語を呼び起こすようなものがあり、また、家族を構成する「妻」「母」「父」とかの属性を大きくはみ出すようなものがある。 さざなみのごとく妻たり蝉しぐれ この「さざなみのごとく」の妻っていったいどんな、と一瞬思うが、やがて「さざなみのごとき妻」だったらなんとなくわかるような気がするなと。しかし「さざなみのごとき夫」だとそれはないな、いや、そういう夫でもいいか、伴侶が「さざなみのごとき」だったらちょっと気持ちよさそう、と思ったら「蝉しぐれ」である。これはもう若い夫婦間というよりも、やや年季のはいった夫婦関係における「さざなみ」だろうって、思った次第。 滝を見て帰れば母の泣いてをり これはえらいことである。母の泣く理由は明らかにされていない。ただ目の前には泣く母がいるばかり。作者の背後にはまだ滝音がごうごうと鳴り響いているかもしれない。「滝」と「母の涙」がまるで拮抗しているのだ。母の慟哭には、滝音の轟音がいちばんふさわしい。「さざなみ」の句もそうであったが、「季語」と「事がら」が同じウエイトで緊張関係をたもちながら、一句を構成している。 家々に表札のある西日かな 辻内京子さんもやはり軽舟主宰と同様に家族というものをあるノスタルジーを伴って愛おしんでいるように思える。西日のあたる表札のある家、これは戦後の昭和の風景を呼び起こす。セピア色をしている映画のワンシーンであるような。そしてやがてそういう風景もなくなっていくのかもしれない。しかし、「西日」と「表札」ってなんとお似合いなんだろう。 句集名『遠い眺め』は「目の前を遠く眺めて春焚火」に拠ります。春焚火を眼前にしたときの心理であり、言うなれば人生の実相でもあると思います。眼の前のことだけにとらわれていると決して見えないこと、それはちょっとした心の置き方によって気づくことができます。日常の中で見えるものや景色を詠む。そこにもう一歩先にある世界が立ち現れ句に重層性が生まれる。それが私の目指す俳句表現です。 「あとがき」の言葉である。 梟や廊下の先は何もない 白藤に真昼の音を盗られけり 月見草までの時間を歩くなり 貝がらのうすむらさきのさむさかな 風鈴や日暮はいのちしづかなり みしみしと湯灌すすみぬ青田風 湯ざめしてカーテンに夜がはりつきぬ みしみしと湯灌すすみぬ青田風 この一句、好きなというか驚いた一句である。「みしみしと」がすごい、生者と死者が混然一体となった重さである。生きている人間のきびきびした動きがあり、そこを青田風が吹き抜けていく。青田には命がみなぎっている。静止しているものは死者の肉体である。しかし、死の陰りはなくて明るさが支配している。著者が言うところの「人生の実相」である。 歳晩のジャングルジムの暮色かな 雪だるま片側暮れてゐたりけり にはとりにみづかきの無き春夕 まんじゆしやげことりと日暮来りけり 塩ふつて肉うるみをり夕桜 夕方のニュースはじまる網戸かな 夏至の日暮は大海原に漕ぐごとし 暮れ暮れの水鳥の声くぐもりぬ 俎ににじむ肉汁夕野分 ひぐらしの森引き潮のごとく暮れ きちきちばつた風は夕日に届かない 本句集には、夕暮れや日暮れ詠んだ句が多いことに気づいた。そして面白い句が多い。ここに記した句はほんの一部である。辻内京子さんの心が夕暮れを欲するのか、夜がちかづくと著者のこころはますます自在となるのか、本句集をひもといて夕暮れのさまざまな景をたのしむのも一興かもしれない。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 ブルーの色の仕上がりを辻内さんは望まれた。 淡いブルーと濃いブルーのコントラストを希望されたのだった。 表紙の濃い青が夜を思わせる。 扉。 まさに遠さを感じさせる一冊となった。 「あとがき」の言葉である。 畳拭く足裏若し鳳仙花 すきな一句である。畳を拭く若い女性の立ち働く姿が気持ちいい。季語の「鳳仙花」がよく合っている。パチンとはじけそうな鳳仙花の種。「足裏若し」で肉体の充実した張りがよく見えてくる。しかし、こういう風景も少なくなりつつあるんだろうなあって思ってしまうのは、、、、嫌だね。
by fragie777
| 2019-08-01 20:34
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