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7月31日(水) 旧暦6月29日
国立の城山公園に咲いていた花。 花の名前は、、、 「チコリの花」であるとのこと。 きれいでしょ。 いまふらんす堂で大流行なのが、ユニクロのエアリズム下着。 ご存じでした? 身につけると涼しいという猛暑の夏には画期的なインナーである。 昨年より販売されて知る人は知るらしいんだけど、ふらんす堂では今年スタッフの間で大流行。 「yamaokaさん、知ってますか? ユニクロの涼しいインナー、それ付けて歩いているとサラサラと涼しいんですよ」とスタッフ。 「そんなのがあるの、全然知らなかった」ということで先日、わたしは白と黒のインナーを各一枚買ったのである。先日、里山遊びのときに身につけていったのであるが、ホント涼しかった。 そして、今日のこと、 「エアリズムのパジャマがあるんですよ。今日は給料日だったのでわたし買いました」とPさん。 文己さんはすでに購入済みらしい。 「ええ、そんなのがあるの、買って来よう」って、さっそく近くのユニクロへと走った。 物色していると、なんとパートのSさんもいる。 Sさんも同じものを求めてやってきた。 しかし、わたしは、残念なことにそのパジャマが半袖なのであきらめた。わたしは半袖のパジャマは着ないのである。Sさんは、「ちょっと思っていたのがなかったので、ネットで購入します。」と言って帰って行った。 昨夜は暑くてなかなか寝られなかった。クーラーをつけると寒くなってしまう。 付けたり消したり、そんなことばっかりしていて、ああ、わたしもエアリズムのパジャマが欲しい。。。 新刊紹介をしたい。 四六判小口折表紙。242頁。 俳人・大関靖博さんの評論集である。 昨年の秋に主宰している俳句雑誌「轍」が十五周年を迎えた。この間句集研究シリーズという名のもとに一句集による作家論を企画した。十七文字の俳句を出発点としたこのシリーズは十三万字となった。どうしてこの短詩形にこれほどの言葉を紡ぎ続けることができたか、自分でも良く分からないところがある。ただシリーズで取り上げた二十二名の俳人から受けた感銘の消え去らないうちにその感銘を言葉に定着させようと努力したことだけは確かなことである。それぞれの作家が十七文字でポエジーというコトダマ(言霊)を生け捕りにする苦闘を思えば十三万字の努力はさほどのことではないだろう。この俳人の努力の伝統は〈言霊の幸ふ国と語りつぎ言ひつがひけり〉という万葉集のことばに通じるものであろう。 「あとがき」の前半である。 本書は22人の俳人の句集評を収録し、それに附録として「俳句と『武士道』」と「第二芸術論再考」の二篇を加えたものである。 その22冊の句集を紹介すると、 正木ゆう子『静かな水』ーー式部再来 林 菊枝『遠い町』ーー比喩の狩人 潮 仲人『無用の水』ーー内気なダンディー 大木あまり『火球』ーー星彩煌煌 中根喜璵子『陰祭』ーー柳緑の粋な街 椎名 彰『風の葦』ーー須美禮の夢 平沢陽子『茫茫』ーー浪漫派の系譜 山崎十生『大道無門』ーー秘花朦朧 池田澄子『たましいの話』ーー鎮魂物語 吉岡桂六『東歌』ーー武蔵振り 村井和一『もてなし』ーーウイットの味覚 越村 藏『岩枕』ーーありのままの光 対馬康子『天之』ーー内面を見つめて 西村我尼吾『西村我尼吾句集』ーー利他主義と菩薩道 福永みち子『月の椅子』ーー相聞は月今宵 細谷喨々『二日』ーー砂洲のうちそと 稲畑廣太郎『八分の六』ーー対岸へと冬蝶 有馬朗人『鵬翼』ーー複眼的国際化へのまなざし 島谷征良『𦾔雨今雨』ーー俳諧のサムライ 奥坂まや『妣の国』ーー夕焼けの色のミサ曲 谷口摩耶『鏡』ーー人生合せ鏡 茨木和生『真鳥』ーーこの道高き嶺 登場する俳人は様々である。わたしがお名前を存じ上げている俳人の方、そうでない方、いろいろである。 ふらんす堂より刊行された句集もあるが、だいぶ前のものもある。最初の正木ゆう子句集から、茨木和生句集までおよそ十年以上が経過しているのだ。 句集評といっても、ひとつの句集に割いている頁数はかなりのもので、それぞれに付けられた表題(これはなかなかふるっている)からでも分かるように、句集を通しての作家論となっている。 タイトルを読んだだけでも、その俳人を彷彿とさせるものがある。 本書を担当したのは、Pさん。 Pさんは、本書をとおして「林菊枝」という俳人が印象に残ったという。わたしも実はこの俳人を知らなかった。あるいはどこかで名前だけは聞いたような気がするが、作品を思い浮かべることはできない。 本書をとおして始めてふれた俳人である。 本書の特質のひとつに、著者はとりあげた俳人の背景についてはほとんどふれていない、というのはどういうことかと言うと、その所属する結社やそこに誰が序文を寄せているかということは語られていない。それが大関靖博と作品との向き合い方なのだろうと思う。 句集を読むとき、あるいは作品を読むとき、どうしても師系のようなものを意識してしまうという癖がついてしまっているが、本書においてはそれは語られていない。大関さんがあえて意図してそうしたのか、それはご本人に確かめてはいない。 それでは、わたしも知らなかった「林菊枝」の作品について、一部を抜粋して紹介したい。 雫してあぢさゐの芽の乳首ほど 街ぐるみ水底となるサングラス 初蝶が芝居の蝶のうごきせり 太刀魚を一振りもらふ朝日かな 鈴の音のしさうな稲架の落花生 冒頭で句集『遠い町』のなみはずれた卓越した着想のよろしさに言及したが、更に細部における比喩の斬新さを示す作品として右の五句をあげることができよう。一句目の〈あぢさゐ〉の芽を〈乳首〉と把握した目は、形象にもとづいた比喩と思わせる。しかしやがて房をなして咲く〈あぢさゐ〉の花を思えば、その量感や肌合いまでをも想像させることができるであろう。ここで作者のイマジネーションを思えば、〈あぢさゐ〉の芽としか言っていない段階で、すでにして将来の〈あぢさゐ〉の花のことまで先回りしているところがしたたかなところであると思う。二句目ではサングラスを通して見た街が水に沈んでしまうところが感性として鋭敏であるといえよう。三句目の〈初蝶が芝居の蝶のうごきせり〉はとても面白いところをとらえている。歌舞伎の芝居などで蝶がでてくるが、非常に大袈裟な飛び方をしてわざとらしく、それがかえって棒の先で飛んでいることを思わせない錯覚を起こさせる。こうしたぎこちない飛び方を作者は眼の前の初蝶の中に発見したのである。四句目は、太刀魚を〈一振り〉ととらえたのである。ここで下五の〈朝日かな〉と連続する所では〈一振り〉はなかなか効果的な比喩であると思う。五句目はなかなかお洒落な表現である。落花生の殻の中で豆が鈴の音をたてそうだと思っている作者の耳は詩人そのものである。 「比喩の狩人」と題したところにふさわしい箇所を紹介した。 作者の比喩の卓抜さは単に頭の中で作られたものではない。大変地道な現実のスケッチの積み重ねの上に成立したものなのである。 と記している。 Pさんは、比喩を使った俳句表現を通して、林菊枝という人間の生きる必死さのようなものを感じましたという。 もう一冊句集評を抜粋して紹介したいが、大木あまり句集『火球』の評をとりあげてみる。わたしにはとても懐かしい一冊である。 火に投げし鶏頭根ごと立ちあがる 毟りたる羽はふりこむ焚火かな あかき火となりゆく藁や昼の虫 火を乗せし菊に生気の寒暮かな なにもかも晴れて冬至の火消壺 太陽へ灰をとばしてどんどかな 注連焚くや鴎は腋をゆるめつつ 火にぬれて干鱈の匂ふ夕べかな 小鳥くる火箸の丈をいとしめば 火のなかのものよく見えてちちろ虫 冒頭の〈火に投げし鶏頭根ごと立ちあがる〉は句集中の白眉のひとつと確信できる。まず作者の眼力の鋭さ恐ろしさを思わせる。このある種の〈凄み〉は極めて大きな迫力を持って読者にせまってくるであろう。この作品の解釈は眼前の景色として捉えれば良いわけでその景色は極めて印象明瞭なものである。又イメージとして考えても可能な景色である。そしてその〈凄み〉は加藤楸邨の〈火の奥に牡丹崩るるさまを見つ〉(『火の記憶』)の昭和二十年五月二十三日のB29の東京空襲の際の作品に比肩するものであろう。まさに大木あまりはこの作品をもって『火球』の著者として人々の記憶に残るのかもしれない。この作品を追うかのように作者は焚火に毟った鳥の羽根をほうりこんだり、菊を焚いたりするのである。著者の火中のものを見る眼力は〈火のなかのものよく見えてちちろ虫〉なのである。恐ろしい眼力である。しかし作者の眼力は燃えさかる炎を見つめるドラマチックな景ばかり注目するわけではない。〈あかき火となりゆく藁や昼の虫〉といったたいへん微妙かつ繊細な視線をもそなえているのである。実に炎の作家の登場ともいうべき『火球』の一巻である。 一句集にかなりの紙面をさいて論じているので、本書を読んでいただければ、その力のこもった批評にふれることができると思う。また、附録としてついている評論もけっして付け足しものではなく英文学者でもある著者の守備範囲に広さを思わせるものであり、複眼的な視点をもって俳句を縦横にかたる読み応えのあるものである。 本書の装丁は和兎さん。 メタリックな仕立てである。 二十二名の作家については夢中で書かせて頂いたというだけのことであった。かえりみて俳句団体の系譜をみて驚かされた。現代俳句協会・俳人協会・日本伝統俳句協会・国際俳句交流協会のそれぞれの各作家が網羅されていたのである。この事実をみると本著では俳句の系譜の上の多様性が実現されていることを知る。一方で句集の出来た時代を考えると全て平成の時代のものであるということに気づく。つまりこの評論は平成という単一性をもつ。二十一世紀の世界的テーマは〈単一性と多様性(unity and diversity)〉といわれるが、本著の作家の多様性と句集の成立の時代の単一性を思えば不思議と二十一世紀の人類の最大のテーマと一致するように感じられる。つまり本著が平成の時代の多様な作家論として認識されることを願望する。加えて新しい時代の令和の意味として〈美しい調和(beautiful harmony)〉ということが言われているが、本著も調和の一書としてあればと願う。 「あとがき」の後半に書かれているものである。 この評論集を脇にかかえた大関靖博さんの眼差しは、これから始まろうとしている令和へと向けられている。
by fragie777
| 2019-07-31 20:01
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Comments(2)
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