このブログの更新通知を受け取る場合はここをクリック

ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko

fragie.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

ふらんす堂の編集日記と最新ニュースなど。 By YAMAOKA Kimiko
by fragie777
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る
Twitter Facebook Instagram
< February 2021 >
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28
カテゴリ
全体
インタビュー
本紹介
賞
未分類
以前の記事
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
more...
最新のコメント
muuyamaさま ..
by fragie777 at 18:57
最近、私もデジカメをアス..
by myuyama at 10:17
失うべきものを失わないと..
by koichi at 13:33
https://www...
by math at 13:14
Yukukoさま ..
by fragie777 at 18:15
高遠弘美さま 第3..
by fragie777 at 18:59
山岡様 いつもありがと..
by 高遠弘美 at 15:46
桂幾郎さま コメン..
by fragie777 at 13:31
お久しぶりです。 いつ..
by 桂川幾郎 at 10:43
kensukeさま ..
by fragie777 at 23:52
検索
画像一覧

もっと見る
エキサイト
XML | ATOM

Powered by Excite Blog

会社概要
プライバシーポリシー
利用規約
個人情報保護
情報取得について
免責事項
ヘルプ

『焦門の一句』の楽しみ方。芭蕉の弟子はいったい何人?

7月28日(日)  旧暦6月26日


『焦門の一句』の楽しみ方。芭蕉の弟子はいったい何人?_f0071480_17494331.jpg
昨日遊んだ名栗の山里。

渓流をわたる。


『焦門の一句』の楽しみ方。芭蕉の弟子はいったい何人?_f0071480_17494621.jpg

木の橋がかけられているだけ。



『焦門の一句』の楽しみ方。芭蕉の弟子はいったい何人?_f0071480_17494819.jpg

ちょっと緊張。

落ちたところで浅瀬なので命には別条ないが、、、、



『焦門の一句』の楽しみ方。芭蕉の弟子はいったい何人?_f0071480_17495126.jpg

遠くに青鷺がいる。

暑い日であったが涼しさも味わえた1日だった。





今日の朝日新聞の青木亮人さんによる俳句月評は、「『こころ』と『鰯』」と題して、宮坂静生著『俳句必携 1000句を楽しむ』(平凡社)と、小川軽舟句集『朝晩』(ふらんす堂)と故時実新子川柳句集『愛は愛は愛は』(左右社)をとりあげている。全文を紹介することはできないので、ここでは、ふらんす堂刊行の『朝晩』を中心に紹介しておきたい。
宮坂静生は「俳句はこころの表現である。私の思いや考えが季節の移ろいや社会の変化に触発され、ことばに命が託される」と。

(略)「こころの表現」とは何か、と。小川軽舟(58)の『朝晩』を見てみよう。
 一階に管理人住む蚊遣かな
 踏切に見上ぐる電車クリスマス
小川は日常生活の些事と季節感を組み合わせて「私」のペーソスを漂わせる手練(てだれ)だ。より上手に詠みたいと願う初心者は、小川のような句群を目標に励むと「こころ」を表現しやすくなろう。
同時に「こころ」に明確な答えはない。今日の結論は明日の結論となり、往時の不安はある日の確信となる。(略)
故時実新子の川柳集『愛は愛は愛は』に秋の季語がある。それをいかに受け取るかは、あなたにかかっている。

 人や憂し鰯はザルに溢れいて








髙柳克弘著『焦門の一句』の紹介をしたい。



『焦門の一句』の楽しみ方。芭蕉の弟子はいったい何人?_f0071480_17495585.jpg

四六判変形ソフトカバー装 230頁 定価1714円+税


髙柳克弘さんの『芭蕉の一句』(2008年刊)の姉妹篇とも呼ぶべき一冊であり、昨年の一年間ふらんす堂のホームページで1日1句というかたちで連載したものを一冊としたものである。
「焦門の一句」と題して芭蕉の弟子たちの作品を紹介し、そこに鑑賞を付したものである。
芭蕉の弟子っていったい何人くらいいたのであろうか。
わたしたちがよく知っている弟子といえばと、思って思い浮かべてみると、いまわたしは指折り数えてみた。恥ずかしながらぱっと名前があがったのが、12人くらい、こう言う仕事をしていながらそれだけって言わないで、じゃ、あなたはどの位の名前をいえる?
弟子の名とそれぞれの代表句が一句言えたら上出来っていうもんよ。
ちょっとためしてみて。


で、わたしは本著には弟子の作者一覧が収録されているので人数を数えてみた。
62人である。
どう、62人の名前をずらって言えまして。
もちろん、本著は62人の弟子たちの作品が均等に同じ数だけ紹介されているわけではない、芭蕉の弟子としてよく知られている作者の、たとえば其角、去来、丈草、嵐雪、凡兆などは圧倒的に多いし、よく知られている作品もある。と言ったところで、わたしはそれほど詳しくないので、髙柳さんがこれは名吟であると鑑賞していても、知らなかったわ、という句もたくさんある。そういう意味では、この一冊は「焦門」への格好の入門書なのである。

この本の楽しみ方として、というか、わたしはこの本をとても楽しく読んだ。
どう読んだかというと、作者のところは指やしおりなどで押さえて名前を見ないで読んだのである。まず作品を読んで自分勝手な鑑賞をする。そしてその作品が好きか嫌いかを思う、そうやって読んでいると好きな句に巡り逢うのである。(おっ、この句好きだな)って思って作者名を読む。そんな風にしてすべてを一通り読み通したのであるが、すると自分の好きな作者が分かってくるのだ。焦門といえどその作風は千差万別であり、やや古くさく思えるものや今の時代でも通用するような新しみのあるものもある。へえーなんて思いながら読んだ。その結果、わたしが好きな焦門の俳人は、丈草だということに気づいたのだった。知る人は丈草がどんな作品を作っているか、あるいはどんな傾向の作品をつくっているかすぐわかるのだろうけど、不肖yamaokahaはそのへんの知識は赤子のごとくまっさらだと言ってもよい。
じゃ、 丈草のどんな句が好きなのか、ちょっと紹介しましょう。鑑賞を含めて。

 淋しさの底ぬけてふるみぞれかな   丈草(じょうそう)  (1月22日)

「底」という一字の凄さに、圧倒される。本来は具体的な物について用いるはずの「底」を、「淋しさ」という感情について用いた発想が非凡である。ただの言葉遊びではなく、柄杓だとか鍋だとかの底が抜けて、水がこぼれるイメージを生かしつつ、水ならぬ冷たい「みぞれ」を迸らせたところに、実感がある。「時雨」でも「雪」でも、この淋しさの極みには釣り合わない。感情が臨界を超える瞬間を、鮮烈に再現してみせた。感情表現は使わない方が良いといわれる現代俳句の固定化したセオリーも、この句を前にしてはいかにも空しく響く。芭蕉の墓がある義仲寺の領内に結んだ自身の草庵「仏幻庵」での一句。(『篇突』)季語=みぞれ(冬)

 夕立にはしり下(くだ)るや竹の蟻   丈草  (6月30日)

折からの夕立に、竹を歩いていた蟻が慌てふためき、下へ下へと素早く逃げようとしている、という句意。「はしり下る」は「蟻」に掛かっているのだが、この語調は「夕立」の勢いまで感じさせる。夕立の本意である「勢ひある心」(『俳諧雅楽集』)をよく汲み取った句である。夕立の雨の筋、下っていく蟻の列、そして竹─縦方向の直線で構成されていて、絵面に緊張感がある。「横縞よりも縦縞の方が『いき』であるのは、平行線としての二元性が一層明瞭に表われているためと、軽巧精粋の味が一層多く出ているためであろう」(『「いき」の構造』)という九鬼周造の説にならえば、これはまさに「いきな句」。(『篇突』)季語=夕立(夏)

この「夕立」の句は結構すきな一句である。

 松の葉の地に立ちならぶ秋の雨  丈草   (11月2日)

するどい松の葉が、地の上に幾本も刺さっている。折しもそこに秋の雨が降っている、という情景である。普通の土では、さすがの松の葉でも立つに及ばないから、地の苔の上に刺さっているのだろう。蕉門ではイメージのはっきりした「景気」の句を重要視したが、これはその典型である。雨の中では、散った木の葉は濡れて地にへばりつくばかりだが、松の葉はぴんと立っている。その違いに目を留めた。秋らしい自然の相を純然と切り取った句とみてもよい。過ぎていく秋の景色をまのあたりにして、どうしようもない虚しさを覚えた作者
の感慨が託された句とも取れる。(『後れ馳』)季語=秋の雨(秋)

 うづくまる薬の下の寒さかな  丈草   (11月22日)

元禄七年十月十一日の夜、大坂御堂筋の花屋仁左衛門方貸座敷で臨終の床にあった芭蕉が、集まった門人たちに、夜伽の句を作るように命じた。門人たちが示した句の中で、芭蕉は丈草のこの句のみを、「丈草、出で か し 来たり」と誉めたという(『去来抄』)。去来、惟然、支考、正秀、木節、乙州といった名だたる門人たちによる趣向を凝らした句が並ぶ中で、いちばん真情のこもっていたのが丈草のこの句だったからだろうと、去来は考察している。「薬」とは、漢方薬を煎じる鍋のこと。看病しながら、寒気と不安に耐えている自分のいささかみっともない姿を、正直に描き出したところを、芭蕉は評価したのだ。(『枯尾華』)季語=寒さ(冬)

 鷹の目の枯野にすわるあらしかな    丈草   (12月12日)

獲物を睨みつけて今にも飛び掛かろうとしている鷹の眼光の鋭さを、下五の「あらしかな」で受けとめた。鳥の王と称えられる猛禽の威厳をよく伝えている。「鷹」の本意の「いさミたつ心 大勇の心持有るべし」(『俳諧雅楽集』)が、そのまま当てはまる。怒りや酔いのために一点を見つめることを表す「目がすわる」という慣用的表現をいったん解体して、間に「枯野に」を入れたのがミソである。「鷹の目が枯野にすわっている」といわれると、まるで目玉だけが枯野に居座っているかのように錯誤する。読者の脳裏を刹那掠めるその奇怪なヴィジョンも、この句の魅力を高めている。(『菊の香』)季語=鷹・枯野(冬)


丈草の句は、本著の中でも基角、去来のつぎに多く3番目である。
どう?
あたなのお好みですか。
名前も丈草なんてちょっと可愛らしいくて好き。句も大仰でなくて身辺のものを写実する感じである。名前を伏せて読んでいって、これって丈草じゃない?なんて思って当たって喜んだり。もちろん知らない弟子たちがぞろぞろ出てきて、彼らもいい句を詠んでいて、芭蕉が褒めたりしてそういう芭蕉の目に出会う面白さもある。

其角はさすが面白い句ばかりで、嵐雪はその名のとおり句に華があると思った。丈草のつぎにいいなとおもったのが、凡兆。とくに好きな凡兆の句をふたつ紹介したい。

 なが〳〵 と川一筋や雪の原    凡兆(ぼんちょう)  (1月10日)

目の届く限り、川の流れが続いている。その流れの他は、ことごとく雪の積もった景である。一面の雪の原、などと言ってしまっては、平凡になってしまう。ひとすじの川の流れを示すことで、雪の原の果てしのない広がりが見えてくるのだ。凡兆の句を、正岡子規がそうしたように、写生という文脈で評価するのは、賛成しない。川のほか、人家も畑も、生き物の影すら見えない「雪の原」は、定家が「花も紅葉もなかりけり」と詠じた浜辺以上に茫漠としていて、寂しさを通り越して可笑しさすら湧いてきはしないか。自然描写にとどまらず、人の内面まで踏み込んだ句と捉えたい。(『猿蓑』)季語=雪の原(冬)


髙柳さんの一歩踏み込んだ鑑賞が冴える。もう一句。この句大好き。


 下京や雪つむ上の夜の雨    凡兆  (1月31日)

凡兆が上五を置き悩んでいたところ、師である芭蕉が「下京や」と置くように提案し、「これ以上にふさわしい上五がもしあるならば自分は俳諧をやめよう」とまで言ったという、会心の上五である(『去来抄』)。下京は、三条通り以南の市街地。中七下五は風景の描写であり、商家の並ぶ「下京」を配することで、自然と人事のバランスがうまく保たれている。ウ音の多い訥々とした調べで、昼の賑わいとは打って変わって静まり返った雪夜の下京の雰囲気を伝えている。内容に風格があり、句の立ち姿も凜々しい。蕉風俳諧が、和歌・連歌に対する只のカウンターカルチャーではなかったことを物語る、名吟である。(『猿蓑』)季語=雪(冬)

「名吟」って髙柳さんは書いている。
ほかに、今の時代でも十分わかる句を3句紹介したい。

 行く雲をねてゐてみるや夏座敷   野坡(やば)   (7月30日)

流れてゆく雲を、寝ながらにして見ている、ああ、夏座敷のなんと快いことよ、という句意。『方丈記』に「家の作りやうは、夏をむねとすべし」とあるように、高温湿潤の日本では簾や葭戸を使って風の通りの良い部屋作りが成されてきた。いかにも昔からありそうな季語であるが「夏座敷」は先行句が少なく、当時の新季語のひとつであった。その本意は「奇麗なる心 涼しく見晴しあるべし」(『俳諧雅楽集』)。まさにこの句の気分に合致している。空と自分とがつながっているような、はればれとした一句である。前書を踏まえれば、客と主人の寛いだ気分を表したことになるが、一人でいる景と取ってもよい。(『炭俵』)季語=夏座敷(夏)

 野の露によごれし足を洗けり    杉風(さんぷう)   (10月5日)

元禄二年中秋、友人と隅田川沿いに遊んだ折の句。草葉に結んですぐに消えてしまう「露」の伝統的な本意は、なんといっても無常の思いにあり、『俳諧雅楽集』にも「哀なるこゝろ 消安き心」とあるとおり、それは俳諧においても変わらなかった。杉風の句では、野遊びの足を汚すものとして、実感に即した「露」が詠まれている。たとえば百人一首で有名な「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ 天智天皇」の歌のように「露に濡れる」という表現は多々あるが、「露に汚れる」といったのは新しい。(『角田川紀行』)季語=露(秋)

この杉風の一句は歳時記にもあって、わたしの愛唱の一句だ。

 はつ雪を見てから顔を洗ひけり   越人(えつじん)   (11月29日)

起き出してきてその年はじめての雪に驚き、眺めをたっぷり楽しんでから、いつものとおりに顔を洗う。何の変哲もない行いではあるが、今日はとりわけ顔が清らかになる気がする、といった句意。「初雪」については『俳諧雅楽集』に「甚風雅なる心 めづらしき心」とあるように、賞美されるものであった。その風雅さのために、顔を洗うという日常的行為までもが特別なものに変わったというのが、一句の読みどころである。顔を洗う水のきらめきや、洗い終わった顔の冷ややかさ、つややかさが感じられてくるのも、「はつ雪」ゆえ。読む者の心まで清められるような、清冽な一句である。(『あら野』)季語=初雪(冬)
 
どの句も少しも古びていない。

もっともっと紹介したいのであるが、たとえば其角の笑ってしまうような一句だったり去来の代表句だったり、杜国の句や、嵐雪の句などなどいいなと思った句がたくさんある。
本著を読むと、芭蕉の弟子たちを非常に身近に感じられるようになるのだ。それもさまざまな個性がひしめく弟子たちの顔が浮かび上がってくるのだ。
また、本著の魅力の最大のものは、髙柳さんの鑑賞である。365日よくこれだけ充実した鑑賞をしつづけられたかと思うほど、密度の濃い鑑賞である。季語の本意について、あるいは言葉の背景と歴史について、わたしたちは学ぶことができる。「季語」の本意についてもう一度本著をとおして思い巡らしてみるのもよい。

本著を読み終えたとき、芭蕉やその弟子たちが決して過去の俳人ではなく、いまもなお生き生きとその作品によってわたしたちの前に立ちはだかる俳人たちであることがわかるのだ。
こころから一読をおすすめしたい一冊である。


ほかに、『芭蕉の一句』を読むことをおすすめしたい。(目下好評再版中)

『焦門の一句』の楽しみ方。芭蕉の弟子はいったい何人?_f0071480_22025684.jpg


さらにもっと知りたい方には、既刊の矢島渚男著『歳華片々ー古典評釈』を併せ読んでみることをおすすめする。芭蕉の弟子たちの作品をいかに矢島渚男氏が鑑賞しているか、さらに理解が広く深まるのではないだろうか。

『焦門の一句』の楽しみ方。芭蕉の弟子はいったい何人?_f0071480_22025922.jpg




Tweet
by fragie777 | 2019-07-28 22:04 | Comments(2)
Commented by Daxiongmao at 2019-07-28 23:30 x
yamaokaさま

思いがけずお目にかかれて良かった!
ご多忙にもかかわらずお元気そうで、さすがです。

今日お話ししたような小さなグループの中で、
井の中の蛙になるのが怖くなります。
だから、私の知らない色々な世界を知る、yamaokaさんのような
方の存在はとてもありがたく、大切なんです。

これからも、どうぞよろしく!
Like
Commented by fragie777 at 2019-07-29 19:45
玲玲さま

こちらこそ短い時間でしたがお話できて嬉しかったです。

話しているときの玲子さまはとても生き生きされてました。
本当に充実した時間なんだろうなあって。

あの後お別れした直後、たぶん中国人のカップルに電車の行き方を尋ねられ、よくわからないままおどおどと応対したのでした。山口さんのお姿を眼でさがしましたが、、、
見つからず。。。

(yamaoka)
Like


<< 俳誌「橘」五百号記念大会 バスに揺られて。。。 >>

ファン申請

※ メッセージを入力してください