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7月26日(金) 旧暦6月24日
ときどき見かける花である。 「夏水仙っていうのよ」って友人が教えてくれた。 ようやく梅雨があけたとおもったらこの暑さだ。 わたしはクローゼットの中より、ペラペラのたっぷりと生地をつかったティシャツまがいの白いヤツとやはり超薄手の紺色のストライプがはいているパンツを取り出し、身につけた。 どちらも羽衣のように薄くて軽い。 歩くと風が立つ、(ってオーバーな ![]() 「ヨッシャ、仕事するでえっ」とお腹をポンとたたいて仕事場に向かったのだった。 新刊紹介をしたい。 四六判フランス装函入り 246頁 著者の鬼頭桐葉(きとう・とうよう)さんは、大正10年(1921)のお生まれであるが、実はすでに亡くなられている。数年前のご存命のときに、ふらんす堂に連絡をいただき句集をおつくりになりたいというご意向をいただいたのだが、しばらくそのままになっていたのである。今年になってご息女の吉田美智子さまよりご連絡をいただき、吉田さまとお二人のご息女が相談に見えられてこの度の句集上梓となったのである。 亡くなられたお母さまのご意志を引き継ぐかたちでの句集出版となった。 吉田美智子さんがご希望されたことは、遺句集と銘打たないこと、フランス装であること、そして函入りであるということだった。それはきっと今は亡き鬼頭桐葉さんの句集へのご家族の思いであり、また鬼頭さんがご存命であったらきっとそう望まれたものであろうと思う。句集の略歴には鬼頭さんの小さな写真が添えられている。わたしは作品を通し、またそのお写真を通して、鬼頭桐葉という俳人に始めて出会うそんな気持ちで句集を拝読したのだった。 鬼頭桐葉さんは、生前に一冊句集『春蘭』を上梓されている。三重県津市のお生まれだ。かつて故岡井省二主宰の「槐」に所属しておられたと伺ったが、略歴にそのことは記されていない。 本句集は、「春」「夏」「秋」「冬」の順序で四季別に分かれている。「あとがき」などはない。 句集の担当は、文己さん。 まず、文己さんの好きな句を紹介したい。 すつぽりといま春風の八十路かな あけぼののわたくしの靴さがす夢 きこえないことはよろしくうらうらと 糸屑が走りだしたり子蟷螂 さわさわと楓の影に夏の果 散策の路地に消えけり月の人 秋ふかく点して椅子のやはらかき 赤とんぼ一匹とべば庭ひろし 湯豆腐のゆれ初め夫に掬ひけり 追ひかけて掃く凌霄の落葉かな 冬田いま夕焼けいろの水たまり 大いなる御手ひらけり初明り 見えぬもの待つ菊炭のあかあかと 赤とんぼ一匹とべば庭ひろし 「第二回関西俳句大会特撰句 (昭和四十一年)」と前書きがある一句である。秋の項の最後におかれた一句である。庭に赤とんぼがやってきた。おっ、赤とんぼって思い、たぶんその秋にはじめてみる赤とんぼだったと思うのだ、一匹の赤とんぼに心が動いたのだから、見慣れていたり集団でやってきたらそうはいかない、秋になって空気が澄んだ庭に赤の色が鮮やかな赤トンボがやってきた。赤トンボがすいすいと飛ぶわが庭である。赤トンボの自在な動きを追っているとそんな庭もあらためて広々と感じたのだ。赤トンボを喜ぶ著者の気持ちが伝わってくる一句だ。 かの人はどこかきらりと春コート 「春」から一句。わたしの好きな句である。「かの人」は男性か女性かどちらかか、わたしは女性と思ったのだが、「かの人」であるから作者とはそれなりに親しい人。しかし、うんとべったりした関係ではなく、ちょっと作者が一目を置いている人なんじゃないだろうか、その人が春のコートを着て現れた。ああ、やっぱりどこか違って光るものがあるるわって、そんな心情をまじえてさらりと一句に仕立ててみせた。 水やうかん伊万里の皿でちとふるへ 「夏」の句より。水ようかんが皿に盛られた一瞬を詠んだ句。「伊万里の皿」がいい。伊万里焼きは有田で生産される磁器だが、白地にいろいろな美しい染め付けをされたものだが、わたしはここでは青色の染め付けの皿をおもった。「ちとふるへ」が涼感を呼ぶ。 かき氷頭よせ合ひみな一人 これも夏の句。かき氷をみな一心不乱に食べている。四人くらいを思った。「暑いわねえ、かき氷たべましょうよ」とか言って誘い合う関係だから、気の置けない友人たちだろうと思う。かき氷が出てくる間もぺちゃくちゃとお喋りをして、扇子でバタバタと扇ぎ合ったりして、おお、かき氷だ。苺やらメロンやら小豆やらそれぞれのかき氷、お喋りはすこし返上してかき氷に集中する。みんな頭を寄せ合ってね、その一人である我が、ふっと、こんな風にしててもやっぱり一人なんだわ、って思ったりする。しかし、その思いは気持ちのいいくらい、さっぱりとしている。「一人。。」そういうもんよ。そう思いながらも、かき氷が喉をつめたく通っていく。 法師蟬わかつてわたし不整脈 秋の句より。面白い一句である。法師蝉が鳴いている。もううるさいほど。聴いていると、蝉といえども自然の摂理に従って、ある規則性をもって鳴いている。立派なほどの規則性だ。しかし、うるさい。わが心臓と言えば目下反乱をおこしているではないか。ドキ、ドキ、ドキ、と正確に脈打つことをすっかり忘れて、わたしの身体を脅かしているのだ。もうたくさん、少し黙ってくれないと、俳句で訴えている。 燈火親し一つをともし一つ消し これも秋の句。「一つをともし一つ消し」が、秋のさびしさをにじませていていいなあって思った。夜が長くなり灯りをつけて過ごす時間が増える。虫の声も聞こえてくる。ああ、あの部屋の灯りがつけっぱなしだったと消す。本を読むために小さな灯りを灯す。そんな風に細やかに生活する時間が秋になると増えてくるような気がする。 たが影もなく雪折の音したり 冬の句。「たが」は「誰が」ということだろう、人の気配やあるいは動物の気配もないのに「雪折」の音がしたという句だ。それだけのことを詠んだのであるが、「雪折」という季語に読者は立ち止まる。そしてはっきりと雪折れの音を作者どうように聞くのである。気配の一句だ。「雪折」にはこういうことがよくあると思う。が、それをすっきりと言いとめた。 わたしの好きな句を紹介してみたが、わたしが抜いたのはどちらかというとわかりやすくやさしい表現のものが多いと思う。 校正をしてくださったみおさんは、次の句を選んだ。この句も面白い。 浮いてこいこの世満更でもないよ 「不思議な凄みがあって、とても惹かれます」 と。 著者の鬼頭桐葉さんは、九十歳を超えられていたと思うが、作品はとても若々しく手垢がついていない。 生前にお目にかかりたかったと心から思う。 この句集の装丁は君嶋真理子さん。 ご家族は、函の色味は「夜が明けてくるときのような色味」をご希望 された。 函からフランス装の本体が出てくる。 表紙のタイトルは暁色。 見返し。 扉 扉の前には遊び紙。 金銀が織り込まれた和紙である。 栞紐は薄いオレンジ色。 大いなる御手ひらけり初明り 句集名となった一句である。 そして、本句集の最後に「二句」と題して絶句がおかれている。 虹渡る一葉観世音御裾より 三界の果なる虹の橋を今 鬼頭桐葉さまのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
by fragie777
| 2019-07-26 19:52
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