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7月24日(水) 桐始花結(きりはじめてはなをむすぶ) 旧暦6月22日
農家の門前に野菜と一緒に売られていた盆花のアスター。 いろどりが美しい。 22日の「田中裕明賞の会」の帰り道のこと、車が角を曲がったとたん急に動かなくなってしまった。 (まずい、)小さな道で夜だったこともあって対向車も後続車もなかったので、何度かエンジンをかけてみてやっと動き出した。 それからはおそるおそる運転をしてどうにか家にたどりついたのだった。 朝ふたたびエンジンをかけてみると、どうも変な音がする。 エンジントラブルだ。 わたしは車はやめて、「田中裕明賞」関係の荷物をかついで、仕事場までいくことにした。 バス通りに出るとちょうど仙川行きのバスがやってきた。 それにヨイショと乗り込んで一息つき、終点まで。終点で降りても仕事場まではちょっと歩く。 肩に荷物を食い込ませながら、仕事場までたどりついたのだった。 もう、ヤレヤレである。 車は修理に出して、いまは代車で仕事場に来ているが、代車って苦手である。 「できるだけ小さいヤツにして下さい」って保険会社に頼んだのだけど、やってきたのは結構な大きさだ。 過去に代車をぶつけてしまい、エライ目にあったことがある。(大金を払わされた) 今日もおそるおそる運転をしてきたのだった。 さて、今日も新刊紹介をしたい。 四六判フランス装カバー装 202頁 白のシリーズの一環として刊行。 著者の安藤恭子(あんどう・きょうこ)さんは、1959年東京生まれ、東京都国立市在住。本句集は、第1句集『朝餐』〔2008年刊)につぐ第2句集である。安藤恭子さんは、大学で比較文化学を教えておられ、また宮沢賢治の研究者でもあり著書もある。俳句は俳人の石田勝彦・綾部仁喜に学び、現在は俳誌「椋」(石田郷子代表)所属。前句集より約10年ぶりの句集上梓となる。 本章は五つの章に分かれている。が、それに大きな意味はない、とわたしは思う。というのは、本句集は、頁を開き作品を読み始めたときから作品を詠み終わるまで、ひとつの大きな潮のような流れが貫いているのだ。わたしたちは、心地よいリズムのある流れにのって次々と俳句を読んでいくことになる。章はその流れがすこし局面を変える、そのくらいの変化なのだ。軽快に読み手に負担をあたえずに非常に気持ちよく本句集はじまっていく。 こんなにも鳥を見てゐて寒に入る 冬鳥の来て心より話しだす 晴れ晴れと刈つてくれたる冬の菊 白紙にくるまれてゆく冬薔薇 小寒の畑中に火をつくりたる 梨棚の剪定に火のしづかなる 最初の6句を紹介した。ひとつひとつの景は違うし季語も異なるのだが、はじめの句がつぎの句へ、次の句がまた次の句へと残像をのこしながら景が展開していくような、読み手がまさにその場面にいるような臨場感をあたえながら次から次へと場面が展開していくのだ。そして、「寒」からはじまったのであるが、6句目にきていつの間にか「春」の季節になっているのである。その季節への変わり方があまりにも自然で、読者は知らず知らずのうちに季節のめぐりの旅を作者とともにしていることになる。 わたしが思うにこれはものすごく巧みに編まれた句集である。 時間の経過が自然であり、しかもスピード感を伴って淀みがない。 本句集の魅力は、繰り返すようであるが一句一句に立ち止まらせるものではなく、句と句の連携のすばらしさである。 だから、好きな句はこれである、と、とびとびに一句を紹介する(こともできるが)よりも、句の響き合いを楽しむことができる句集なのだ。わたしはあまりこういう句集に会ったことがないので、ものすごく面白く読んだ。紹介するとしたら、58頁から61頁までの8句をそのまま紹介してみたい。 酒注ぐ実梅の硬さはかりつつ 雨脚をうかがふ顔や梅漬けて ほうたるの足のかそけきたなごころ ほうたるの激してきたる草の底 ほうたるの息ついてをる光かな 夜に穴のあくほうたるの消えるたび 眠ること恐ろしといふ百合の花 野につづく干し草の束白夜行 (チェコ) どうだろう。一句一句としてもいいが、やはり連続して読ませる面白さがある。しかも8句目は「チェコ」の海外詠がおかれている。だがこの海外詠さえも前句の「百合の花」の白さを残像としての「白夜行」である。 このようにところどころに海外詠をはさみながら、句集『とびうを』の世界は闊達に展開していくのだ。 淀むことがない、という句集はそれだけでも魅力的だ。 海の色すつと変はりしとびをかな 本句集のタイトルとなった一句である。 「とびうを」というタイトルも面白い。 著者の安藤恭子さんが、俳句で目指しているひとつに、「気取りを排する」ことがある。 一句における気取り。名句をつくってやろうという気取り、そして自身に執すること、本句集は自己というところに力点をおかず、季語が導くものに力点をおいた。だから読み手は気持ちよく読めるのだ。著者の内面はストイックなまでに排除され、動き生成し変化する自然に読者は心をよせることができる。詠まれているのは小さな自然であっても、躍動する自然だ。読んでいくと停滞しているものはない。 つぎつぎに子どもでてくるバンガロー ガレ場より吹き上げらるる揚羽かな 片方の眼ぬぐつて蜻蛉発つ フーコーの振り子ゆつくり秋めきぬ 石畳乳母車跳ね木の実跳ね 水底のどんどん近く曼珠沙華 ほほづきの鳴るごとく鳴き春の鹿 プルトップ音立てて引く跣足かな 触れること散らすことなる冬の菊 ぢりぢりと坂にかかりし毛虫かな 明易の島に着きまた島に着く 小さきものから大きいものまで命の躍動感に満ちている。 羚羊のじつと見てゐる我等かな この一句、「羚羊のじつと見ている」とあるが、見られているのは自身である。しかし「見られている」とは作者は詠まないのである。あくまでも「羚羊」(季語)が主体であり、その見るものが「我等」であるという。「我等」は羚羊の見る目的なのである。この一句に象徴されるように、本句集を読んでいくと、作者の目線はいつも全体を俯瞰する位置にあり、その目線は変わらずに目の前で展開される季語を中心とした作品世界がある。だから自身でさえもその俯瞰の対象なのだ。読者もいつのまにか作者と同じ目線となって生き生きした自然をたのしむことになる。 その視点に立って、著者である安藤恭子さんは、本句集を編集したのであると思う。句の並べ方に細心の注意をはらったのではないだろうか。 その結果、清新の一冊が出来上がった。 安藤恭子さんにとっては、「俳句とは何か」ということは極めて明解なのではないかと思った次第だ。 島に渡る船で一夜を明かし、朝焼けとともに甲板に出て海を眺めていると、飛魚の群れが突然現れました。海が色を変え、水面が割れ、船とともに魚が駆ける。このような、思いがけず世界が変わる光景に出会う瞬間、自分の心の余計なものがどこかに消えていってくれるのを感じます。 『とびうを』は、私の第二句集です。第一句集の『朝餐』以降の約十年間の作品から選び、三三六句を収めました。この間、公私ともに旅することが多く、落ち着かない日々ではありましたが、それは、多くの出会いの中で新たな自分に出会える日々でもありました。 「あとがき」の言葉である。 本句集の装丁は和兎さん。 美しいトビウオだ。 カバーをとったところ。 見返し。 これからも、さまざまな場所に出かけていくことになるでしょう。しかし、訪れる場所それぞれに風が吹き、時がめぐるように、私も変わるはず。それを「希望」として、俳句と向き合っていきたいと思います。 「あとがき」の言葉である。 フランスに置き忘れたる夏帽子 好きな句はたくさんあるが、ここではこの句。「フランス」と前書きのある一連の作の最後におかれた一句である。「フランス」に忘れるとはなんというおおざっぱな、と思えるようだが、俯瞰的な視座のある作者の作品からすればすこしも不自然ではない、また、この「夏帽子」という季語とフランスがよく響き合う。「冬帽子」では重くなる。「フランス」という言葉の軽やかさに「夏帽子」も飛び立ちそうである。 句集『とびうを』は、俳句という文芸がもつひとつの魅力を十全に満たしているのではないだろうか、と思ったのだった。
by fragie777
| 2019-07-24 20:26
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