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7月16日(火) 旧暦6月14日
先日行った新宿の映画館の水槽に泳いでいた熱帯魚。 最初見たときは、作り物めいていておもちゃかと思ったが、 いやいや、生きていた。 この目、である。 午前中に銀行に行った。 かなりの混み方である。順番札をとると22番とある。 「5,6人待ちだな……」と思いながら番号札をポケットにつっこんだ。 そして女性週刊誌を手にとって読み始める。 ええっつ、 「石原さとみ、青年実業家のMさんと破局!」の記事に釘付けになった。 いったい、どうして! そうか、、、、 ふーむ、なるほど、 ふと、声がする。 「〇〇の方いませんか」と窓口の女性の声、顔をあげると立って見渡しながら呼んでいる。 「22番の方いませんかあ!」 あれ、わたしだ。 「はい、います!」と週刊誌をおいて勢いよく立ち上がったのだった。 新聞の掲載記事を紹介したい。 7月15日づけの岩岡中正さんによる「俳句月評」は、「家族と日常への詩」と題して、ふらんす堂より刊行の句集二冊を取り上げている。 ふたつの句集を紹介するまえに、岩岡氏は、「俳句界」7月号の特集『森澄雄ー澄雄が遺したもの」に注目したと記している。金子兜太と比較しながら、 澄雄は芭蕉の自在に立ち戻って近代人の分別や才気を超え「我を捨てる遊び」へと俳句世界を拡げることで、人間探求派を超えようとしたのではないか。この点で、たんに一九七〇年代の「伝統回帰」現象としてではなく、戦後の時代潮流への警告とその転換点としても森澄雄の存在は大きい。 と記している。以下句集について、 句集では小川軽舟『朝晩』(ふらんす堂)。ここにも昭和から平成への時代の終焉と漂泊の思いが投影しているが、他方でこれに対する拠り所としての「家族」とその行く末への静かであたたかい観照が共感を呼ぶ。 秋の灯の部屋寄り添つて一つ家 ひぐらしや木の家に死に石の墓 飯蛸(いいだこ)やわが老い先に子の未来 また本書は、ささやかな日常の詩としての俳句の愉しさにあふれる。改めて日常の些事への歓びを通して、一日一日のかけがえのなさに気付かされる、いわば己への存問(そんもん)の句集である。 短日は横歩きして古書肆出づ 松蝉の声古釘を抜くごとし いつか欲し書斎に芙蓉見ゆる家 藤本夕衣句集『遠くの声』(同)は若々しい原初の声に満ちている。静謐清冽で、遙かなものへ心を寄せるのは若い作家の特権。 掌(てのひら)にみづうみの水なつやすみ そのなかの一羽こゑだす初氷 比叡より僧の降りくる桜かな 新緑の奥のみどりの濃かりけり 同じく毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」では、大牧広俳句日記『そして、今』より。 終点に気づかずにゐて巴里祭(パリーさい) 寝込んでしまって終点に気づかないことが時にある。誰かに教えられて慌てて下車するが、一度だけ、地下鉄が終点で折り返し、次の駅で目覚めた。誰も教えてくれなかった冷たい世間を嘆いたが、もちろん、自業自得。今日の句、俳句日記「そして 今」(ふらんす堂)から。作者は本年4月、88歳で他界。昨日が巴里祭だった。 私事ながら、日曜日は電車で寝込んでしまいだいぶ先まで行って折り返したのだった。そして、昨晩はワインを飲んでいい気分でバスに乗った。家まではわずかな距離であったがすぐに寝てしまい、ひとつ先の停留所ではっと気づく。飛び降りて人気のない夜道を歩いて帰ったのだった。わたしの場合、寝込んでしまって降り損ねるのは日常茶飯事であるが、幸いなことに終点まで行ってしまうっていうことはない。「天の声」がするのよ、「もう起きなさい」って。嘘、嘘、でもおおかたいいタイミングで目覚めるのだ。 でもね、いい歳をした人間がいっけんマダムよ(あはっ)、それが乗り過ごしたあ!っていってガバッておきて、どたどたとバスから飛び降りたり、女性週刊誌に夢中になって飛び上がったり、どうよ、それでいいのかyamaokaっていう声が、いや聞こえはしないけど、母が生きていたら、「調子に乗るのもいい加減にしとけ!」(母は男言葉だった)って怒るだろうなあ、、、。 どう、 yamaoka、やっぱ調子に乗ってるって思います? いまに調子に乗りすぎて、昇天! なんてね、 笑い事じゃないわ、、、 ホント。 昨日付の讀賣新聞の「枝折」では、髙柳克弘著『焦門の一句』が取り上げられている。 芭蕉の弟子である基角、支考、嵐雪らの句を1日1句ずつ紹介する。「365日入門シリーズ」の一冊。 本書をまだこのブログでは紹介していないんだけど、実はいま改めて読んでいるところ。読み出したらすごく面白い。どう面白いかはあらためて紹介したいのだけれど、弟子たちがほんといろいろで芭蕉も指導に手をやいただろうなあなんて思えてくるのだが、要するに過去に俳句をつくった俳人たちでありながら、目の前に現存するかのように生き生きと弟子たちが作品とともに蘇ってくるのだ。わたしは電車の中やお風呂のなかでいま読んでいて、7月のところまで来た、読み終えるのはあともう少し、読み終えたら紹介するつもりだが、実作者の人たちにもすこぶる参考になると思う。弟子たちの背後には芭蕉の目があって、彼がどう指導をしたか、実作をとおして見えてくるのである。 これはひとえに高柳克弘さんの資料を読み解く目とその筆力に負うところが大きい。 『芭蕉の一句』(目下再版中)も優れた一書であるが、こちらもまさるとも劣らない、いや、いろんな俳人が登場することにおける面白さはこちらに軍配かな、しかしその背後に芭蕉の目が貫いている、その目が半端じゃないのだ。 そういう関係性の面白さがある一書である。 あら、いやだ、わたしったらまだ紹介しないなんて言って、ずいぶん語っちゃた。 今日もこれからお風呂でよむつもり。
by fragie777
| 2019-07-16 19:43
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