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7月8日(月)温風至(あつかぜいたる) 旧暦6月6日
梅雨只中の矢川緑地。 熱い珈琲を淹れて飲んだときとか、つめたい麦茶を飲んだときとか、どうやらわたしは、飲んだあとに「アア-」とか「ヒャアー」とか「ファ-」とか声を発するらしい。 「うるさいから止めてください」とある日言われた。 ちょうど珈琲を飲んでいる時だったので、 「あら、そんなことないわよ」と言いながら、ゴクッと飲んでみせ、「アア-」と声を発し、 「あら、ホントだ」ということになった。 「でも、小さい子がよくやるじゃない、何かを飲んだあとに声をだすってさ」と言ったところ、 「子どもは、一度だけですが、そう何度もやるのはおじいさんですよ」とスタッフは言う。 これは、世にいるおじいさんたちが怒るかもしれないが、(そういうおじいさんばかりではありませんので)言われてみれば、飲むたびに声を発しているおじいさんが目に浮かんできた。 ほら、ビールなど飲んだとき、最初の一杯ではっする声、あんな感じ、それをどうやら飲む度にわたしはやっていたらしい。 今日もおやつの時間に麦茶をついでもらって、ぐいっと飲んだら、また声をはっしたらしく、「ほらほら、また」と言われてしまった。そして、スタッフ一同が笑うのよ。 スタッフが言うには、おばあさんはあまりやらない、おじいさんがやる、という。 で、yamaokaは、どうやらおじいさん化しつつあるらしいのだ。 これは全然意識していなかったことなので、きっとわたしはこれまでに人前で大いにやってきたかもしれない。 そう思うと、俄然恥ずかしくなる。 どう? わたしやってた? ブログを読んでいる人の中でわたしを知っている人もいるでしょ。 教えて。 飲む度に恥じらいもなく「ヒャアー」とか言ってたかなあ。 新聞の記事を紹介したい。 昨日の朝日新聞の「風信」に、高橋多見歩句集『蹲る鳩』が紹介されている。 著者の第一句集で、2005年から17年mでの318句が収められている。 一隅を得たる百足や涅槃絵図 今日の毎日新聞の「新刊」紹介の記事には、小川軽舟句集『朝晩』が紹介されている。 毎日俳壇選者の第5句集。現役のサラリーマンとしての日々の哀歓を、ていねいに詠み続けた一冊である。 遠ざかる町に家族や立葵 若者の貧しさ眩し更衣(ころもがえ) めらめらと氷に注ぐ梅酒かな 「三田文学」夏季号2019を送っていただいた。 詩人の杉本徹さんが、森 雄治詩集『蒼い陰画』の書評をしておられる。 これは少し先になるが、「ふらんす堂通信」に転載をしたいと思っている。 すこしだけ抜粋して紹介したい。 森雄治さんは、1963年に大阪に生まれ、1995年に病気で31歳の若さで亡くなっている。生きていれば杉本徹さんと同じ歳だった。本誌集は画家であるお兄様の森信夫氏が編集されて世に出したものである。緊密で凝縮した詩篇がたくさん収録してあるが、森雄治さんが17歳から20歳のときに書きためたものである。 しかし、この一冊の詩篇群が書かれたのは、驚くなかれ、なんと作者が17から20歳のとき、なのだ……本当だろうかと、いまだ素朴な疑問はぬぐいきれないが、ともかくそれくらい作品の孕む水位は高く、世界に向けられる視線は深く、言葉の最良の意味で作者は「成熟」している。おそらく大半の読み手は、私自身も含めて、自分がこの年齢でこのような詩は絶対に書けないと、痛感するはずである。 (略) 聖堂前で象は立ったまま死んでいる あらゆる流れという流れが存在せず 樹木は垂直に静止している曇日に 鉛色の 深く広大な象という名の歳月は荘厳な歴史の地図を皮膚という皮膚に刻みつけたまま死んでいた。(「象」) (略) 一冊の過半をしめる散文詩群の、ほんのごくわずかな数行を引いた。 行分け詩も魅力だが、散文詩のいくつかにはこの詩人の、作品世界の求心的な象り方、さらには反-世界としての蒼い陰画の領域の、示唆とあらわれが、より重奏的に実現していると思われる。(略) 巻末の、もっとも長い一篇「神話」の、そのコーダは以下―ー「彼の見たものがそれだったとしても、彼の生命の終り方によって彼自身が崩れその見てきたという廃墟(ソドム)になる他はない」 ……これは、墓碑銘のようにも読める。詩とは、しかしそもそも本質において廃墟にひとしい存在(非ー存在)なのではなかろうか。そして、廃墟という陰画であるからこそ、だからこそ詩はまた永遠に生きつづけるともいえるのだ。 (ふらんす堂刊・本体2500円+税) おなじ三田文学の夏季号に、俳人髙柳克弘さんが「死季折々 第12回忌日俳句その2」という連載をやっている。 このたびの号では、「本来の忌日俳句の在り方から隔たった”飛躍”のある忌日俳句を紹介し」ている。 今日はちょうど髙柳重信の忌日である。 髙柳重信の詠んだ忌日の句も紹介されている。それを忌日にちなんでここでは紹介したい。 あ・あ・あ・とレコードとまる啄木忌 第11回では「啄木忌いくたび職を替へてもや」の一句を取り上げたが、この安住敦の作に比べると、髙柳重信の作のほうが、”飛躍”が大きい。古いレコードの上で針が行きつ戻りつし、挙句の果てに音曲が乱れて止まるーー夭折の歌人に、いかにも似つかわしく、痛ましいとともに、どこか甘やかなイメージである。プレーヤーから漏れた「あ・あ・あ」の苦しげな音は、貧困にあえぐ啄木の言葉にならない呻きに聞こえてくる。 ほかに、いくつかあげると「犬靴をくはへてゆける子規忌かな 夏井いつき」「夕月に湯屋ひらくなり近松忌 石田波郷」「三島忌の帽子の中のうどんかな 摂津幸彦」「虚子の忌の大浴場に泳ぐなり 辻桃子」ほかなどなどに言及している。 俳人の花谷和子氏が6月11日に亡くなられた。俳誌「藍」の名誉主宰であられた。老衰のため98歳の命をまっとうされたのである。送られてきた「藍」(花谷清主宰)7月号の表紙の扉の裏には、和子氏の短冊がある。 藍浴衣よきことのみを見て聞いて 和子 花谷和子氏については、第四句集『月の梅』を2006年に刊行のご縁がある。 『月の梅』より数句抄出して、花谷和子氏をしのびたい。 海鳴りやなだれて白き花茨 泪にもかたちのありぬ秋の星 いちにちの心に起伏花の雨 かたまれば白とて燃える曼珠沙華 何ももたぬ両手つつしみ初明り かがやくは人の内側月の梅 パレットの藍海の藍夏休 勾玉の穴のくらがり昼の虫 ひとの死後わが死後冬のパセリ濃し こころよりご冥福をお祈り申しあげます。
by fragie777
| 2019-07-08 20:17
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