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7月7日(日) 小暑 七夕 旧暦6月5日
今日は七夕。 よく雨の降る一日となった。 矢川緑地にいた蝸牛。 小さな蝸牛だったが、美しい色をたたえていた。 さて、 昨日京都のANAクラウンプラザホテル京都にて行われた対中いずみさんの句集『水瓶』のお祝いの会の報告をしたい。 発起人は、岩井英雅、榎本 亨、中村尭子、ふけとしこ、南うみを、山口昭男の各氏、で皆さん対中さんと交流のある方々である。 「お祝いの会」を「批評の会」としたいという対中さんはじめ発起人の方々の意向があって、3人の方の『水瓶』評のスピーチが用意されていた。 それぞれの方のスピーチを抜粋して紹介したい。(かなりの抜粋となってしまうが、ご容赦を) 俳誌「圭」に所属する仮屋賢一さん。平成生まれの26歳である。 『水瓶』を一番特徴づけている静かさはどこから来るか。 静かさは、現象ではなく主観的な感覚である。それではどこに静かさを感じるか。それはじっと見入って書かれた句が多いということ、それは観察するというよぼおっとり見入って没入するということ、そいういう句が多いのではないか。「わからなくなり水仙のやうに立つ」「わからなくなり」という言葉にぼおっと見入るということが集約されているのではないか、このように意識の外に出ていったときに生まれた句が多いような気がする。「水を見てゐて沢蟹を見失ふ」など意識の外にあるということが「静かさ」の要因ではないか。 青木亮人さん。 愛媛大学で教鞭をとっておられ、気鋭の俳句評論家でもある。 句集の全体の感触にふれて、闊達な句集であると思った。波多野爽波、田中裕明につづく闊達さにつづくものであり、それは一環して貫く美意識や境涯というところで句集をまとめるのではなく、驚きを驚きと詠む、たとえば「はなびらのすりぬけてきし桜かな」のように、あるいは「人を待つバスの震動ぼたん雪」のように驚きを驚きとして詠む句集である。師系とはこういう形で受け継がれていくのだと思った。 田中裕明と対中いずみの句を比較すると「水瓶」に詠まれている「龍」を見る側に対中さんがいるとすれば、田中裕明という俳人は、龍そのものになるような瞬間を詠めた俳人だったような気がする。「大き鳥さみだれうををくはえ飛ぶ」のような人の世界とちがうものを言霊に溶かしこんで詠めるような俳人が田中裕明だった。対中さんは「龍」を見る側にいるが、向こうからやってくるものや訪れるものに対する感度というものは、裕明的なものを受け継いでいる。 津川絵理子さん。 俳誌「南風」の選者である。 『水瓶』には波のような柔らかさと静かな呼吸を感じた。ただ、静かなだけではなく、豊かな自然と動物たちとの命の交感がいきいきとした躍動感がある。『水瓶』には動物たちの句が85句ありかなり多い。全体の3割を超えている。そのなかでも鳥の句が一番多かった。とくに「何かよきものを銜(くは)へて雀の子」が好き。人の子に対するような優しさがある。雀の子を描きながらも作者の人間性がでている。「近々と二百十日の鳶の腹」これは琵琶湖のそばに住んでいる対中さんらしい句である。かつて行ったことのある琵琶湖の風景で、非常に共感をもって読んだ一句である。 句集にたびたび出てくる龍の句7句については、琵琶湖には龍がまつられていたりして、琵琶湖に龍がいても不思議ではないが、生き物として龍が対中さんの目には映っているのではないか、他の人には見えない龍が見えているのではないか、あるいは対中さんは龍を飼い慣らしているのではないか、「わたくしの龍が呼ぶなり春の暮」もう飼っているとしか思えない。対中さんのなかの龍と、琵琶湖の龍が呼び交わしているのではないか。 対中いずみさんのご挨拶である。 「波多野爽波先生の目指した季語の本意と写生を軸に日本の伝統詩としての俳句をつくっていきたいとを考えています。そこで大切にしたいのは詩情ということ」「ゆう」の創刊号での「田中裕明のことばである。さらに創刊号の選評「ゆうのことば」には「新しい俳誌を始めるにあたって大上段に理念をかかげるつもりはありませんが、俳句に対してまじめに向かい会いたいと思います。」とある。「新しい俳句をつくることによって、新しい自分に出会いたい」ということを田中裕明は最初に語っている。俳句をつくるにあたって一歩でも二歩でも新しいものを加えていきたいということが裕明に志だったと思う。それだけはお腹のなかに入っている。 今回『水瓶』を編集するにあたり、あるバイヤスをかけたのだが、それが「水」とか「龍」がテーマのような句集になったのではないか。「龍」の句については、賛否両論があり、対中さんらしいと手を打って喜んだ方から、「龍の句」があったために『水瓶』の世界には入りにくい、作者の独りよがりではないか、わからなかったという声もあった。あるいは「龍」はあるものの象徴だろうという鑑賞もあった。そういう批評の声はあるだろうというリスクを恐れずにあえて作った句集であるので、その句集がこうして賞をいただけたことは驚きでもあり、有難いことであったと思う。 関西につどう対中さんと交流のある俳人の方たちがたくさん集まって、賑やかで楽しい会となった。 つくづくと思うのは、結社を超えて、皆さんが仲良く切磋琢磨しておられるということだ。 お名前をいちいちあげないが、わたしもぞんじあげている方々にお目にかかることもでき、あるいはまた初めてお目にかかるかたもあり、竹中宏さんに誘われて珍しく二次会まで参加してしまった。 対中いずみさま あらためてご受賞おめでとうございます。 ![]() ![]() 多くの句友に囲まれて、さらなるご健吟をお祈り申しあげます。 また、発起人のみなさま、楽しい会にお招きいただきましてありがとうございました。 ![]() ![]() ![]() 今日は俳誌「鷹」55周年をお祝いする会が、「鷹」の皆さまを中心に新宿の京王プラザで開かれた。 小川軽舟句集『朝晩』、髙柳克弘著『焦門の一句』など、「鷹」の皆さまはきっと手にとられたことだろう。 「鷹」で学ぶ若い人たちもふえつつ、「鷹」55周年の記念号の内容の密度の濃さ、ますます俳誌「鷹」の充実ぶりを思わせる昨今である。 小川軽舟主宰をはじめ、「鷹」の皆さま55周年おめでとうございます。 こころよりお祝いを申しあげます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 単身赴任をして暮らしている人はたくさんいるんだけれどそれを詠んだ句というのは意外となくて、”無人の沃野を行く”みたいな感じがして、作っているんです。 ふらんす堂の『俳句日記』も、中公新書の『俳句と暮らす』も、それをテーマに据えました。今度出す句集『朝晩』も、「私の世代の今」を念頭に置いて書こうかなと。家族も含めて、勤めも含めて、それを書き残しておきたいということなので、いわば三部作みたいな感じで考えているんです。 ずっと私はごく平凡な人生を書いているつもりだったんですけれど、外山一機さんが「平凡と言っているけど、この平凡はもう我々の世代にとってはファンタジーである」ということを書いてくれた。それではたと気がついたんです。「平成時代の人たちから見ると、もう昔の話なんだ」と。平凡ではないんだ」と言われると、「それを時代として書きとめておく意味もあるんだな」という気がしたんです。今度の句集はそういう観点からまとめてみようと進めています。 (「鷹」7月号の55周年記念号より、《小川軽舟主宰聞く》「世界を深く覗き込む」聞き手・髙柳克弘) 新句集『朝晩』について語られている箇所を抜粋して紹介した。 このほか、フォークギターを買ってもらって中学、高校と友人と歌を歌っていたとか、吉田拓郎より井上陽水の方が好きだとか、小説も書いて応募して予選通過したことがあるとか、「田中裕明賞」で選考委員をした感想とか、小川軽舟主宰について興味深いことが満載である。 へえーって思ってしまったことがたくさん。
by fragie777
| 2019-07-07 21:59
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