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6月14日(金) 旧暦5月12日
5月の末に旅行した福井県坂井市三国町に咲いていた十薬の花。 このすぐ近くに作家高見順の生家があった。 町をそぞろに歩くと、こんなアマリリスを咲かせている家があった。 九頭龍川。 この日は曇り空で、川は白く濁っていた。 はじめて足を踏み入れた福井県である。 今日紹介する新刊の著者は、福井県のお隣の富山県のおうまれである。 わたしはたぶんまだ富山県には行ったことがないと思う。 福井県、富山県、石川県の位置の所在ってすぐに頭に浮かべられます? その県のかたちとか。 わたしはちょっとおぼつかないな。 今日の新刊紹介は、角川春樹著『角川源義の百句』(かどかわげんぎのひゃっく)。 四六判変形ソフトカバー装 192頁 俳人・角川春樹が、父であり俳人である角川源義(1917~1975)の俳句を百句選んで鑑賞をしたものである。わたしはたいへんおもしろく読んだ。いまはなかなか角川源義の俳句をまとめて読む機会がない。そういう意味で本書は、角川源義の作品をハンディに読めるものでもあり、一句一句についての批評のことばに資料性があって、源義俳句を知るためのかっこうの一冊となった。 じつは、本書を紹介しようとしていたところに、深見けん二先生よりお電話をいただいた。 「『角川源義の百句』読みましたよ。春樹さんの父への思いが深い一書であるとおもいましたが、単にそれだけではなく、一句について、山本健吉さんや龍太さんなどのその一句についての評などをもって、その句を論証しその上で、ご自身の思いを述べられてますね。そこがいい。文学性がよく出た一冊だと思います」 まさに、深見先生がおっしゃるとおり、一句に対して自身の思いや解釈だけを綴るのではなく、すでに源義について書かれたものや源義のエッセイなどを紹介しながら、一句について考察していく、一句の背後にある人間像や作品のもつ多面性や奥行きを知る面白さがある。一句紹介したい。 敗戦の日や向日葵すらも陽ひ にそむき (S20) 昭和二十年八月十五日、源義二十八歳の作。 同時作に、 炎天やマキンタラワのおらびごゑ 夏鴉瓦礫のなかにうづくまる がある。この時、同じモチーフで先に短歌が作られ、これを最後に短歌と訣別した。 向日葵は陽にそむきつつ咲きにけり国敗れたるをたれと歎(なげ)かむ 角川源義 「角川源義年譜」によれば、「九月復員。城北中学校に復職。十一月、同校辞任。板橋区小竹町二六九〇の自宅の応接間を事務所として角川書店創立。」とある。随筆集『雉子の聲』には、次の一文がある。 私は(中略)三日市の小学校へ疎開し、そこで終戦を迎へた。これからの日本がどうなるのか、不安な思ひだつた私は教壇に立つて、中学生に教へるよりも、巷に出て、出版人にならうと決心した。出版の仕事を通じて、私の志を多くの人々に訴へることが出来るからだ。 私は源義の決意を、次の一句に込めた。 敗戦日そして、それから本生まる 角川春樹 角川書店をいかなる思いによって創立したか、とても興味深い。 本著の担当はスタッフのPさん。 「「河」誌で、上・中・下として一気に連載されたものを一冊にまとめた本。 春樹氏はいつもそうで、物事を推し進めるエネルギーが人の百倍くらいあって、凝縮させて形にする力が人智を超えたものがある。(と編集していていつも思います)源義の句に関する膨大な文献をすべてといって良いほど記憶していて、一句を鑑賞する際にその句が発表当時どういった評価をされたのか、またその句の背景にある源義を構築したものがどういう素材であったのかなど、春樹氏だからこそわかるものが適格に記載していて資料性も高い一冊になっています。」 とは、Pさんの弁。 Pさんは春樹氏にお会いするたびにその記憶力のすばらしさをいつも言っていた。また集中力のすごさも。今回も短い時間で一気にまとめられたのだ。 もうひとつ紹介したい。 婚と葬家にかさなる聖五月 (S45) 源義五十三歳の作。 掲句には、次の詞書《五月二十一日、次女眞理逝く。享年十八歳》がある。 句集『冬の虹』の「あとがき」で、 眞理の死によつて、私は終着駅を失ひ、乗換駅でまごまごし、別の目的地さがしを始めてゐる。眞理を野辺に送つた日から気力を失ひ、何事にも手のつかぬ日々をすごした。年齢には似合はぬ晩年の意識が生じた。(中略)私はこれまで境涯俳句とよばれるやうな俳句を作らなかつたが、日々の生活を詠ふやうになつた。しかし、私は芭蕉晩年の計が何であつたかが思へてならず、陰を陽に転ずる俳諧の企てをつづけてみたい。そのあとはどうなるのか、実は私にも判らない。軽みの句風で芭蕉は終焉を迎へてゐる。俳人芭蕉にとつて、これは幸ひしてゐた。と述べている。 山本健吉氏は『定本現代俳句』で、源義の句風の変化を次のように評している。 『冬の虹』「聖五月」以後、作者の長い挽歌の季節が始まり、その古典、民俗学探究の意図を加えて晦渋(かいじゅう)難解となった作風を脱して、直截的叙情を眼ざし、「かるみ」に眼覚めた晩年の句業が始まる。 この年の五月、次男歴彦が結婚。その喜びの束の間、五月二十一日、「悲劇は突然前触れもなくおとづれる」(「あとがき」より)。 平成三十年「河」二月号の「角川源義生誕百年特集」で、「河」の主要同人の福原悠貴は次の一文を寄せている。 私はこの句から思い出した場面があります。父の喪中、同じ月に初出版を終えていた私に祝福の花が届きました。当時、家の中に悲しみと祝福の花や手紙が交じり合い、言葉にならない不思議な風景でした。源義先生の衝撃の深さがしのばれます。「婚と葬が聖五月に重なるとは何事だろう。美しい死顔だった。葬を終えた後も、末娘は生きているという幻想に私はつきまとわれた。」と井上靖氏の『星と祭』に寄せて、切実な心情が吐露されています。 私は源義の「聖五月」の句を詞書に、句集『源義の日』に、次の一句を収録した。 聖五月そして私は此処にゐる 以下は百句のうちより数句紹介したい。 窓外に黒ずむ山や扇置く 夜は秋の一湾の灯を身にあびつ くらがりへ人の消えゆく冬隣 かなかなや少年の日は神のごとし ロダンの首泰山木は花得たり 冬波に乗り夜が来る夜が来る 篁(たかむら)に一水まぎる秋燕 遅れきて夜の火鉢抱く濤の音 白桃を剥くねむごろに今日終る 蝶さきに真野(まの)の萱原(かやはら)吹かれゆく また汝(なれ)の離(か)れゆく闇の梅雨滂沱(ぼうだ) 一杖(いちじょう)に命惜しみて年守る 露草にかくれ煙草のうまきかな 昼顔のここ荻窪は終(つい)の地か 秋風のかがやきを云ひ見舞客 月の人のひとりとならむ車椅子 『角川源義の百句』の執筆は半年に及び、書き終ったのは十月二十一日、「後の月」の夜であった。奇しくも、角川源義の絶句となった昭和五十年十月二十一日作の次の代表句と同じ夜だった。 後の月雨に終るや足まくら 角川源義 満月に二日早い少し欠けた月を眺めながら、家族と夕食を摂り、自宅まで十分ほど歩いた。この半年間、源義の遺影を前にして対話を続けた。父の句とここまで真摯(しんし)に対(む)き合ったのは、初めてのことである。父の遺影と語りながら、俺の鑑賞で間違いないよネと何度も確認したが、もちろん、返事はない。けれど人生で初めて達成した感覚が残った。それが嬉しい。 「あとがき」の言葉である。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 桜を男性的に配したものとなった。 表紙。 花あれば西行の日とおもふべし 源義 わたしが最初に知った角川源義の一句である。 角川春樹氏に、宇多喜代子著『この世佳しー桂信子の百句』をお渡しし、「角川源義の百句」をお書きになりませんか、と申しあげたのが、一年前くらいだったろうか、「書いてみましょう」ということで、俳誌「河」に短い期間に亘って連載し、一挙にまとめてくださったのである。通常ならこれだけのことを書くのに、調べる時間を必要とするわけだが、春樹氏の場合、その多くを記憶されているのでたぶんテキストを集めることは容易であったと思う。そうだとするといやはやすごい記憶力である。読み終えれば、父と競う思い以上にしみじみとした「父恋」が伝わってくる。 「俺の鑑賞で間違いないよネ」 父源義はきっと大きくうなずいていると思う。
by fragie777
| 2019-06-14 19:19
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