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6月10日(月) 時の記念日 旧暦5月8日
額の花。 紫陽花がいよいよきれいだ。 「今日は空いてますよ」とスタッフが叫んだ。 「じゃ、わたし買ってきましょうか」とスタッフ。 ご近所にできたタピオカ店のことである。 甘いものにあまり乗り気でないスタッフの文己さんが「食べてみたいんです」と。 ということで雨の中をおやつのタピオカを買いに行ってもらうことにした。 みんな、インターネットで好きなタピオカをまず選んだ。 昨日まで店の中が見えないほど人が集まり賑わっていたのだが、今日はこんな感じである。 文己さんが、写真を撮ってきてくれた。 やはり若い女性が圧倒的に多い。 「働いている人は日本人じゃない人が多いみたいですね。台湾語?かしら、しゃべっていたのは」と文己さん。 これはわたしの注文した、「黒糖ラテタピオカ&ココア」。 (机の上の汚さには目をつむってね。いまかなりハードに仕事をすすめてんの) タピオカ、結構な大きさである。 結局わたしは、これを3分の1も飲み(?)食べ切れなかった。 おばさんの胃袋では消化できず、、、、無念。。。 上の写真のようにやはり列をつくって待っている若き胃袋のためのものだ、ということを思い知らされたのだった。 今日は新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装 84頁 詩人・桂川幾郎(かつらがわ・いくろう)さんの四冊目の詩集である。桂川さんは、先週ふらんす堂に立ち寄ってくださったのでいっそう親しい思いがしている。桂川さんは、1949年岐阜県生まれ、岐阜県下呂市にお住まいである。この詩集の編集担当は文己さん。桂川さんと文己さんは詩集を制作するにあたって、なんどもメールのやりとりをした。というか、文己さんのメールに実に丁寧にお返事をくださる方であった。そのメールのひとつにこういうのがある。 「今回で詩集の出版は4回目となりますが、編集者と校正者が私の作品の最初の読者であったことも初めて気付かされました。」 というのは、本の制作をすすめていく過程で、校正者のみおさん、そして文己さんがそれぞれ好きな詩を桂川さんにお知らせしたことへのメールだった。 まず、本詩集のなかから校正のみおさんの好きな詩篇を紹介したい。 詩集を運ぶ 詩人が亡くなり 書斎の本棚に多くの詩集が残された 資料館行きが決まり 段ボール箱に詰められた 車の後部座席を倒して運び入れる それでも納まりきらず 助手席にも積み上げて 二十箱以上を詰め込む 背表紙に詩人たちの名前が並んでいる 言葉に取り憑かれた人たちがいて 詩を書いた人たちがいて 作品をまとめて本にした人たちがいた 主人がいなくなり 詩集はもう読まれなくなった 行き場を失った夥しい言葉たちが 亡霊となって車の中を飛び交いはじめる 段ボール箱は柩になり 詩集は死体となって 饐えた臭いさえ放ってくる 死臭に包まれたままハンドルを握ると 私は霊柩車の運転手になった 見送る人は誰もいなかったが クラクションを長く鳴らしてから出発した そして、文己さんの好きな詩を紹介したい。二篇ある。 「偶然(たまたま)」と「皆既月食の夜」ここでは、 皆既月食の夜 あなた と あたしがいて いま を いきて うみ は うねって え は えがきだされて おと は おとずれて 言葉も 絵画も 音楽も 極めて私的な表現にすぎないのに どうして普遍性を獲得できるのか そういえば 皆既月食の夜 太陽の光が地球によって遮られているのに 月は赤銅色に輝いていた あの時 光は 地球の大気というわずかな隙間を通って 暗黒の宇宙の中で散乱し 月を照らしていたのだった だから かさなりあう わたしたちも 桂川さんは、「皆既月食の夜」は今度の詩集からはずそうと思っておられたらしいのだが、文己さんに好きだといわれ、「詩集に入れて良かった」というメールをくださったのだ。 桂川幾郎さんという詩人は、詩集を拝読してもそういうものを感じたのであるが、人間と人間との関係性を大切にする人である。偶然のつかの間の一瞬の関係であってもそこに意味を見いだそうとする、あるいは前向きに明るく問い続け関わり続ける主体とでもいうべきか。様々な詩篇が収録されやや雑ぱくな感じを起こさせる詩集なのだが、読後感が不思議に快いのだ、そして一気に読ませてしまうものがある。 本詩集の草稿を入稿していただく時に、桂川さんより新聞の書評のコピーをいただいた。 それは前の詩集『妻のいない夜』に対する詩人北川透と、ビデオ詩人の楠かつのりの各氏による評である。 その評は、今回の詩集にも該当するところがあって、わたしは大変おもしろく読んだのだった。 つまり、お二人の詩人は、桂川さんの詩集の不思議な魅力について語っているのだ。抜粋して紹介したい。 これがなぜ詩なのだろうか、という疑問も当然起こるはずである。(略)しかし、桂川の日常の報告文体には、詩的なものがすべてそぎおとされている。そこに逆に、いま、詩が詩的なものの中に住むことができないという暗喩が成り立っているような気がする。すくなくとも非日常的なことばで書かれているからこそ、日常の不気味な亀裂が、詩を感じさせていることは確かだろう。(北川透) 正直いって下手くそな詩ばかりである。こんな日記的な思いつきは大学ノートでも書いて、永久に人の目に触れさせる必要はないのにと思うほどなのだ。(略)しかも大金を出して詩集にしているのだから、ああ勝手にやってくれといいたい気持ちになる。それなのにぼくは、彼の詩を全て読んでしまったのである。これも駄目だ、これもよくやる書き方だとかブツブツ言いながらである。しかし、不思議なのだ、こんなにブツブツ言って読んだのに、とても楽しい気分になったのだ。(略)新しい詩魂をもった読者とは、ひょっとするとこういった楽しい気分の先にいるのではないかとぼくは感じたりしたのだった。(楠かつのり) どうだろう、ちょっと笑ってしまったのだが、前詩集に対してのなかなか素敵な評である。こんどの詩集も、わたしがこんなことを言っては失礼にあたるかもしれないが、これらの評におおいに応える詩たちであると思う。 わたしの好きな短い詩を紹介したい。 みる ― 視覚に関する考察 ― 音が 稲妻のあとから 遅れてやってくるように 光もまた 星の核融合のあとから 遅れてやってくる 目に映るものはすべて光 いまよりも前の姿 みるとは むかしをみるということ かえりみるということ 視覚には死角があって 目には盲点もあって それでもヒトはゆめみる もう一篇は、 記憶(おもいで) 幼い日のこと。今はもう廃校になってしまった小学校の校庭で、ブランコから落ちた ことがある。頭から血が流れていた。「頭から死んでしまうよう」と泣きながら帰って きた。 その時の傷が今も後頭部に残っていて、手で触ると少しだけふくれている。 〈記憶〉は、生命が危険に直面した時に生まれた危機回避のシステムであるという仮 説がある(『徴候・記憶・外傷』中井久夫著)。どうやら、〈記憶〉とは、脳細胞に刻み込まれた傷であるらしい。そして、ヒトは、〈記憶〉を〈思い出〉へと進化させた。 やっぱり 思い出は 重いで でも 私は進む 古傷をさすりながら 前へ 本詩集には、「村上春樹の声をめぐって」という詩がある。桂川幾郎さんは、村上春樹がおすきらしい。先日は村上春樹原作の芝居「海辺のカフカ」を観るために上京された。詩によるとすべての彼の本を読んでおられる。ほぼ同世代ではある。この詩篇もよく読むと村上春樹の声と自身の声が同じであるという、思いもかけないような発見をするのだ。 本詩集の装丁は和兎さん。 猫がいる。 「あとがきに代えて」には、こんな言葉で結ばれている。 平静を装う時代に別れを告げて 鎮魂歌でも唄うとするか 「おいらはタマ タマタマ現在を生きてんの」 表紙は金色のクロス。 赤の箔。 見返しはマーブル模様。 扉の用紙もかすかにゴールドがある。 角背。 赤の栞紐。 猫の横目がいいでしょ。 もう一篇、詩を紹介したい。 偶然(たまたま) 「仏ノ本願力ヲ観ズルニ、遇ウテ空シク過グルモノナシ」(浄土論) 「遇うて空しく過ぐる勿れ」(九鬼周造) たまたま このほしにおちてきた ひとかけらのながれぼし もしくはおとないびとがわたし たちあがり かがみのなかでわたしをみつけ ことばをおぼえたわたし たまたまいまここにいるだけで いなかったかもしれないわたし たまたまいまここにいるだけで やがていなくなるにちがいないわたし だから わたしは あなたにわたしたい わたしを 「わたしは/あなたにわたしたい/わたしを」という詩行に、桂川幾郎という詩人の精神の核があるとわたしは思ったのだ。 そう、ニンゲンへのかぎりなきシンパシーだ。 シンパシー……共感し、共鳴すること。
by fragie777
| 2019-06-10 20:49
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Comments(2)
![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
桂川幾郎さま
ご丁寧なコメントを恐れ入ります。読後に心に残るものがとても快かったです。そういう詩っていまあまりないですよね。 勝手にいろいろと書いてしまってスミマセン。 実は久鬼周造の『いきの構造』は愛読書です。 念願の京都にある法然院のお墓に行った時は感無量でした。なんどもトライしてわからずやっと行けたのでした。 「いき」という、言葉の背後にある「諦念」「媚態」「心意気」は、すべてわたしの中に入り込んでときどき頭をもたげてきます。うまく言えませんが、生きていくうえで大きな示唆をもらっています。 わたしの理解する限りにおいてですが。 わたしも駄弁を弄しました。 お許しを。 (yamaoka )
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