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6月7日(金) 蟷螂生(かまきりしょうず) 旧端午 旧暦5月8日
矢川緑地は一面に藺の花が咲いていた。 そして、 蒲の葉も青々として、人間の姿を隠してしまうほどだった。 ふらんす堂のちかくに、有名らしい「タピオカ」(いますごい流行)のお店ができた。 タピオカの専門店で、「茶加匠(ちゃかしょう)」というお店。 昨日、帰りの途上で、ものすごい人の列を見た。 (ええっ、この列はなに?!)と驚きながら見ると、圧倒的に多いのは中学生から高校生くらいの若者、そしてほかさまざまな年齢層である。 列は3列もしくは4列で、100メートル以上、道路をはさんでつづいている。 聞けば昨日からオープンして、今日まで半額で提供されるという。 ふらんす堂からはあるいて2,3分のところ、 「今日のおやつは、混んでなかったらあのタピオカにしません」ということでその時間を待って、スタッフのPさんが買いに行ったが、相変わらずの混みようで、タピオカはあきらめてすこし歩いた先にあるケーキ屋さんへと進路を変更したのだった。このケーキ屋さんも有名な洋菓子店でいつもお客で賑わっている。 Pさんがラインで送ってきたとりどりのケーキを見てそれぞれが欲しいものを決めるっていう寸法。 わたしは即決で「サヴァラン」を希望。洋酒がたっぷりのヤツね。。 みなそれぞれ違ったケーキを注文し、今日は贅沢なおやつとなったのだった。 しかし、ここ数年の仙川の代わり様はどうだろう。 畑があちこちにあって、野良猫が闊歩し、老人も主婦も子どももどこかのんびりしていた仙川。 にぎやかで活気がありそして牧歌的でもあった仙川。 田舎くさいところも良かったのだが、どういうわけかどんどん小洒落た街へと変貌しつつあるのだ。 ミーハーなのですぐに新しいお店にとびつくくせに、 むかしの空気がちょっと懐かしいyamaokaである。 新刊紹介をしたい。 菊判ソフトカバー装 208頁 著者は、♥♤♦♧さん、読みは「heart spade dia club」さんであるが、名前はあくまでも「♥♤♦♧」である。 略歴はなく、横に組まれたほぼ200篇の詩篇が収録されている。 おおよそ、一頁に一篇ずつおかれたその詩篇は、読み進めていくと、さまざまな意匠のもとに書かれているのだということがわかる。 最初の頁の詩を紹介したい。 午睡がおわった。 浜へ出る。 日の傾きはおそい。 虹をとかした白線がうちおろす。 白砂が靴底へからみ、こぼれる。 かまってほしい子どもらを蹴飛ばしてゆくように、 無下にあしらう残酷さのきざしに、 淡い快をも感じたりしつつ。 海鳴りは飽きた。 ときおりここへくる人は、みんなこの青い水たまりに感嘆する。 辺境の故郷への幽閉はひどくおそれるくせに、 ときおりなぜか幸福げにおとずれはしゃぐ帰郷者たちのように。 なつかしいのだろう。 時々ということ。つかの間のアバンチュールのごとき余裕が、 そうした酔いと感傷じみた想いにさそうのだろう。 風がうっとうしく、肉や血や記憶の匂いをはこび、 望みもしないこちらの顔にたたきつけてゆく。 焼けた砂をときおりなだめにくる汀では、 小麦色のサルたちが奇声をあげ、宙にビーチボールをうつ。 帝国末期の銀貨幣の髪色した女は、せわしなく水着のずれをなおす。 裸と大差ないんだから、どうせなら脱ぎ捨てればいいのに。 おサルさんみたいで、おサルさんにもなりきれない…… それが悩ましいトコロ。 顔がかくれるほどにガムふくらませ通りすぎた。 しぼむ途中はじけ、鼻のあたまにネーブルの香りはりつき、ちぎれる。 明日は雨がくるだろうか。 ひけらかす陽をあおぐ顔をつまさきへ。 文明の轍のように、くつは砂を蹴散らしてゆく。 紹介をしたが、これは実は正しい紹介の仕方ではない。 これらの詩行はすべて計算されたレイアウトのもとに構成されている。 こんな風に。 あまりうまくスキャンできなかったが、すべての頁がこのようにその配分を計算し視覚にうったえるべく構成されているのだが、みな同じようでないというところがさらにこの詩集を意味ありげなものに見せている。頁によってはほんの2行であったり、戯曲の台詞のようなものがあり、ある頁には意味深な「塔」というタイトルがつけられていたり、読者が注意深く読んでいくと、詩はさまざまな構造と意匠の元に書かれているが、あるいくつかのモチーフがくりかえされていることに気づくのである。「塔」とタイトルのある詩は本詩集中になんどか登場し、「パパ」と「ママ」も繰り返し登場し、モノローグのような言葉の断片が記されていたり(しかし、全体的には饒舌である)うさぎたちによる台詞のやりとりがあり、まことにさまざまな物語のような詩が展開していく。 本誌集の担当のPさんの感想を紹介したい。 「いくつかのお話のような詩をバラバラに紐解いて、 もう一度重ね合わせたミルフィーユのような詩集だと思います。 横書きであるのも、その層に通じる気もします。 」 「ミルフィーユのような詩」 まさに! そのPさんが好きな詩は、 うさぎ1,2,3の戯曲めいた詩。 であるということ。 一篇を紹介したい。 構成は再現できず、ご容赦を。 (うさぎ2と3、両手をあげて) うさぎ2:「アメもない!ムチもない!」 うさぎ3:「罪もなければ、恥もない!」 うさぎ1:「それは、いまだ知られざる時の魔法が解かれるとき! それは、いまだ知られざる場所の扉がひらかれるとき!」 (うさぎ1、舞台中央、威風堂々と) Pさん、曰く。 「すべての世界にどこか「諦念」や「無力感」、「否定」「倦怠感」が多くよぎる詩の言葉の中で、虚構のうさぎたちがかわいくて好きです。」 ということ。 もう一篇詩を紹介したい。こちらも詩のかたちの再現はしておらずお許しを。(シンメトリーにおかれている) 幼き日。 桜祭り。 高台の公園で、欄干に腰かけ町をながめまわしていると、 近所に住むお姉さまも家族といっしょにおいでになっていたのだった。 こちらがすこしはにかんでいたのかどうかわからないけれど、 お姉さまの手は、もっていた綿あめをさしだしてくれた。 「いっしょにたべましょう」 とかいってくれたのだっけ? 雪のようなお姉さまの笑み、おぼえている。 具現化された幸福のようにみえた。 数年後、桜祭りもとうにすぎて、 ひとり坂道、こうしてのぼりくだりしてふらつきまわっているのは、だあれ? あのことがあって以来、お姉さま一家は、どこか遠くへ越されてしまった。 一方この身は、なにも果たせぬまま、こうしてふわり惚けている。 花の季節が満ちても、すこしも幸福はおとずれなかった。 ただ、『まだ時間はある……』と指折るだけで。 はぐれたわたり鳥のように、幸福はどこかで寄り道してるのかとおもった。 心というものの当てにならなさ、おぼつかなさを知るにつれ、侮蔑をおぼえた。 いいえ、興味が失せた? そして、夏が解かれていく。 なんだかいまなら、夏休みの宿題、国語だって数学だって、スラスラできそう。 装丁は、ご本人の希望をデザイナーが具体化した。 著者が撮ったもの(たぶん空の写真)をカバーに使用。 このブルーには、赤や黄色がひそんでいる。 表紙。 見返しはあざやかな黄色。 この見返しの用紙には赤い小さな染みのような色が混ざっている。 デザイナーは、カバーの空のなかにある赤の色と響き合わせるために、この用紙を選んだということだ。 ![]() 扉。 シープスキンという透ける用紙をもちいた。 糸かがり製本にして本の開きをよくした。 頁を開けば、カバーの青と鮮やかな黄色が目に入ってくる。 詩集『空の間』。 なにか、 確たるものがほしいといつも手をのばしていたけれど、 もしも、 もっとも確たるものの正体が、 そう、ちょうどあの川にうかぶボールみたくおぼつかない、 まさにそういうものなのだとしたら…… ああ、なんてヒドい…… 空の間にただよわされているというこの思い。 でも、それすらほんとうに信じてるわけじゃないよ。 本文中の詩の中から、詩行を抜粋して紹介した。 タイトルとなった「空の間」という言葉は、本誌集には繰り返されて出てくる。 あたしがしなくちゃならない。 なにを? いったい。 放埒も無垢も祈りもさけびも、 お行儀いいふるまいはなにひとつしない…… というふるまい。 あたしがするのは、ただそれだけ。 この空の間で。 空の間は、けっして開放的な広やかな空間ではないんだ、と。。。。 心が苦しくなってくる。
by fragie777
| 2019-06-07 20:54
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