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5月3日(金) 憲法記念日 旧暦3月29日
名栗の山郷に咲いていた緋桃。 昨日、今年になってはじめてケーキを買った。 「お客さま。このケーキは洋酒が使われておりますが、大丈夫ですか」 若い女性スタッフが、わたしに聞く。 購入したケーキのうち、チョコレートをふんだんに使ってあるヤツだ。 「ああ、ゼーンゼン平気です!」と元気よく答えたあとで、そんなに気合を入れて答えることでもなかった、と一人苦笑してしまった。 そのチョコのヤツ、名前を思い出せないんだけどすこぶるおいしかった。 今度はいつ食べようかなあ、 たぶんあと三か月後ぐらいになるんじゃないかって思う。(根拠はないんだけどさ) 新刊紹介をしたい。 四六判ペーパーバックスタイル 296頁。 著者の舘野豊さんは、1976年に飯田龍太主宰の「雲母」に入会してより俳句をはじめ、「白露」(廣瀬直人主宰)を経て、現在は「郭公」(井上康明主宰)に所属する俳人である。本句集は、「雲母」「白露」「郭公」に発表したものを中心に収録した評論集である。1988年「雲母」11月号に発表した「青春俳句の一面」をはじめとして、2018年「郭公」1月号の飯田龍太の「旅」についての俳句の考察まで30年に亘るものを一冊にまとめたものである。全体は3部構成になっており、第Ⅰ部は「飯田龍太について」であり、296頁のうち3分の2近くを飯田龍太論がしめている。第Ⅱ部は「雲母の航跡」と題し、飯田蛇笏論、廣瀬直人論、三森鉄治論を収録、第Ⅲ部は「それぞれの光芒」として、石田波郷、阿波野青畝、加藤楸邨、桂信子、森澄雄、中村苑子の評論に、「雲母」時代に書かれた「青春俳句の一面」と「蕪村と時間」を収録したものである。 飯田龍太については、句集『百戸の谿』『童眸』『忘音』を中心に龍太の俳句の形成を時間軸で追い、また、龍太の作品理解に外せないテーマ「空」「山」「月」「夢」「風」「川」「海」「甲斐」「旅」によって龍太の俳句の特質を浮かびあがらせようとする。時間軸を縦軸にテーマを横軸にして飯田龍太の作品世界を立体的に構築してみせようとした弟子ならではの渾身の龍太論である。時間をかけてじっくりと師の作品世界にとりくんだものである。 最後の「その沈黙」と題したものは、龍太が「雲母」を終刊にしたことについてのその思いに言及したもので、この論考のみ未発表のもの。「雲母」終刊号に発表された「季(とき)の眺め」と題した作品に触れながら、龍太の思いを一弟子として思いはからんとしたものである。そこには弟子としての複雑な心境がないまぜとなって語られているようにわたしには思えるのだ。 抜粋して紹介したい。 またもとのおのれにもどり夕焼中 飯田龍太 「雲母」平成4(一九九二)年八月号(終刊号)に発表された「季(とき)の眺め」の冒頭の一句。自ら決意した「雲母」終刊を踏まえた作と考えられる。結社の主宰という立場に伴うさまざまな責任やしがらみから解き放たれ、個または孤に還って生きることへの静かな期待と決意が、美しい夕焼けには感じられる。 (略) 「雲母」に集う人々の俳句への志を、龍太は主宰として痛いほど知っていた。やむにやまれぬ選択であったとしても、「雲母」の終刊が、会員にとって生きるよりどころを奪うに等しい行為であることを、龍太自身がよくわかっていたはずだ。 こうした状況を前に結社解散の意味を自らに問い返した時、飯田龍太は、俳人としてではなく、人間としての筋を通そうとしたのではなかったか。〈古くから『雲母』一筋に来られた人々はもとより、生涯の場として『雲母』を選ばれた方達。そしてまた有力な俳人としてめきめき頭角を現した新鋭の諸友。これらすべての人達が突然の終刊をどのように受け止められるだろうか、と考えるとき、私はいまお応えする術を知りません〉(「『雲母』の終刊について」)と書いた龍太にとって、「雲母」終刊と引き換えに作家としての自由を手にすることは、〈『雲母』の伝統的な友愛〉(同)を裏切る行為にほかならなかった。 その意味で、龍太の沈黙は、自己処罰または自己流謫というべきものだった、と思われる。主宰としての責任をいわばなげうった、その罰を自らに科したのではなかったか。 人間である前に、俳人である、あるいは芸術家である、といった生き方も世の中にはあるだろう。しかし、俳人である前に人間であるという立場を貫こうとしたところに蛇笏・龍太をつなぐ倫理性の根がある。 遠くまで海揺れてゐる大暑かな 肺活量の大きな伸びやかな自然詠で一連が結ばれる。ここから果たされなかった今後への思いを読み取ることもあるいはできるかもしれないが、今はそうした詮索は措いて、自然のゆったりとした息づかいに作者とともに素直に身を委ねたい。 本集における龍太論を読んでいくと、龍太の故郷甲斐に対する屈折した心情が次第に風土への愛着に変わっていくことに改めて気づかされる。あるいは龍太が「写生」というものをどうとらえていたか、また龍太にとっての「自然詠」とはどんなものであったのか、舘野豊さんは作品にさまざまな角度からアクセスしていく。 梅雨の月べつとりとある村の情 『百戸の谿』所収。同年作。その後の龍太作品から姿を消すなまなましい感情の表出に驚かされる。その作品から批判的風刺的な口ぶりが消えてしまうわけではないが、この句のような、自分の住む土地への生理的と言ってもいい嫌悪感が表現されることは絶えてなくなる。梅雨時の湿った大気のように、どんなに払ってもまつわりついてくる、善意や悪意。そうした人間関係の煩わしさを浄化するような澄んだ月の光が一句の救いとなっている。 「月」をキイワードに論考した一文よりのものだ。「自分の住む土地への生理的と言ってもいい嫌悪感が表現されることは絶えてなくなる。」とまで断言できるのは、龍太を読み込み精通していなければ言いえないことである。 わたしたちに龍太の有名句はいろいろと親しいが、本集を読んでいくと時として作品の背後にある飯田龍太という俳人の激しい感情に触れることになるのが面白い。 第Ⅱ部の「蛇笏」「廣瀬直人」「三森鉄治」についてもすこし紹介したい。 寒を盈つ月金剛のみどりかな 緑色の月などあるのか、と問いかけてもあまり意味はない。作者が表現しようとしたのは、〈金剛のみどり〉としか言いようのない月であり、それは緑色の月などと言い換えることを許さないものだ。 たとえば〈金剛石〉のつよさ透明さ。たとえば〈みどり〉という彩りの豊かさ柔らかさ。内にやすらぎを保ちつつ、周囲の凜烈たる寒気に対峙してまどかな光をはなつ月の姿が浮かぶ。〈冷たく厳しいもの〉という寒月の通念とは一致しないかもしれないが、たしかな手応えをもつ世界がここにはある。川端茅舎が〈金剛〉という一見相反する概念と結びつけることによって常識を超えた露の実相を示したように。 このような句を見ると、俳句における表現とは、現実の単なる再現ではなく、作者の直観がとらえた世界を言葉によって新たに創造することなのだと思い知らされる。その時に必要なのは、通念や伝統への顧慮ではなく、自己の感覚に対する揺るぎない信頼だろう。 「飯田蛇笏の月」より。 対象へのねんごろな視線が小世界を創造して一つの頂点に達したのが、 正月の雪真清水の中に落つ 『日の鳥』 だろう。もし〈正月の雪〉と〈清水〉の配合だけにとどまっていたなら、清浄さや神々しさの観念的な表出に終わったかもしれない。しかし、雪片が水に届くまでの動きを追って〈中に落つ〉と描写したことで臨場感が生まれ、さらに単なる〈清水〉ではなくあえて〈真清水〉と言い切ることで、一句は具象性と象徴性を併せ持つことになった。飯田龍太が〈「正月の雪」というたいへん鮮明な風景が意外に一作のなかでは謙虚に存在して見える〉(「雲母」昭和47年三月号 『俳句鑑賞読本』所収)と評するのも、〈真清水〉が〈正月の雪〉と拮抗する重みをもって一句の中に根を下ろしているからだろう。龍太はそれに続けて、〈写生の骨髄を示した作と評してもいいが、単に描写といい捨てるには作者の眼の光があまりにも鋭い感じである〉と、対象に向かってひたむきに迫る作者の姿勢に注目している。 (略) さりげなく見える写生句も、細かく検討すればさまざまな表現上の配慮が見えてくる。 その配慮は、こうした、俳句が作者の自然な気息を無理なく伝えるようになるまでの修練と、苦渋のあとをとどめない平明な表現に至る工夫の積み重ねによって裏打ちされている。変わらぬ〈懐かしさ〉〈優しい眼差し〉もまた、この〈きびしい姿勢〉の所産なのである。 「廣瀬直人における写生」より。 普段見かけることのない大きな黒い揚羽蝶がいつまでも庭から飛び去らないのを見て胸騒ぎを感じていたら、鉄治さんの訃報がとどいた、と教えてくれた俳友がいる。そんな暗合が不思議ではない、不可視の世界とどこかでつながっているようなところが鉄治さんにはあった。 (略) さし伸ばす掌に滴りの弾けたる 哀しみは詩の種嶺へ銀河落つ またの世も師を追ふ秋の蛍かな 最後に世に問い、郭公賞を受賞した「銀河」から。同じものを目にしながら誰にも言い得なかった把握を示す第一句。自らの生の中で遭遇してきた数々の〈哀しみ〉を敢えて〈詩の種〉と言い切って詩人の覚悟を示す第二句。〈銀河〉がそれを美しく彩る。そして、人生を賭けた詩魂に貫かれた絶唱とも言える第三句。蛇笏の龍之介追悼句を下敷きに、師系への無限の思いを十七音に込めた。 三森鉄治にとって凝視することは、その奥にある不可視の宇宙に触れることだったのかもしれない。 「三森鉄治 人と作品」より。 第Ⅲ部については、「石田波郷小論」をすこし紹介したいが、本論はなかなか気迫ある波郷論である。私小説的手法と韻文精神についての論考である。 俳句が〈生活そのもの〉という時、生活を表現に定着させる方法のモデルとなったのが私小説だった。 (略) 私小説は単に作者の体験の記録ではない。自己の生活を〈陋醜〉もいとわずさらけ出すことで人間としての誠実さを証しだて、それが作品のリアリティを保証する。作品以前の人間としての態度が問題にされるともいえるわけで、波郷が葛西善蔵に共感したのも、その一点にある。 そうした波郷の俳句観が験されたのが、その後かれを襲った病患だったといえるかもしれない。先走っていえば、『惜命』一巻はその人生の危機を、俳句という詩型をテコにいかに乗り越えたか、という記録ともいえる。 しかし、〈私小説〉は、自己の生活の危機を作品化する一方で、その危機そのものが自己目的化する陥穽をはらむ。近松秋江、葛西善蔵らの作品を破滅型と規定した平野謙は、「私小説の二律背反」(『芸術と実生活』)で〈芸術家の矜恃にしかと支えられた人性そのもののエリートという一点に、私小説家はその破滅的な現世放棄者の生活を弥縫していたのである。(私小説は─引用者)やや逆説的にいえば、その本質はむしろ非日常性にこそある。家常茶飯的ならぬ生の危機感こそ、それの生み出される根源のモティーフにほかならなかった〉と指摘し〈彼らを支える唯一の矜恃は芸術家としての真実性以外になかったのである。辛うじてその真実性を唯一のアリバイ として、彼らは極貧の生活にもたえしのんだ。(……)彼らは芸術家としての作品のリアリティではなくて、制作態度の誠実性にすがるしかほとんどほどこすすべを知らなかったのだ〉と言い切っている。 この指摘は波郷にとっても他人事とはいえない。これも先走っていえば、『惜命』の次に刊行された『春嵐』の後書に〈『惜命』が生命の緊張の中から溢れ出たとすると、この書は生命の弛緩の裡に生れたものである〉とあるのも、〈私小説〉的な人生の危機を乗り越えたあとの緩みととれないこともない。しかし、波郷は、〈破滅型〉の行く手にあった生活の破綻とはついに無縁だった。 私小説家と波郷の道を分けたのが〈韻文精神〉だった、といえる。自己の生活を散文的に記録するのではなく、生活との闘いのなかから摑み取ったものを、俳句形式に封じ込めること。それを為すために必要な精神の緊張が、波郷に自己の境涯に甘えることを許さなかった。〈生活即俳句〉と〈韻文精神〉が、いってみれば車の両輪として波郷俳句を前進させたのだ。さらにいえば、そうした一種のスローガンでは覆い尽くせない、石田波郷という俳人の人間性がその作品をかがやかせたのである。 「石田波郷小論」より。 本書はペーパーバックスタイルのシンプルな読みやすい造本である。 装丁は和兎さん。 渋く知的かつスマートに仕上がった。 扉 目次。 落ち着いた一冊となった。 30年間の時間が流れている。 静かにしてとびきりの情熱だ。 副題の「形成と成熟」は、 俳人・舘野豊の形成と成熟を培ったものとしてもあるのではないだろうか。 特に、廣瀬直人先生と三森鉄治さんにお見せできないのが、残念でならない。お二人のご冥福を改めてお祈りしたい。 と、「あとがき」に書かれている。
by fragie777
| 2019-05-03 19:47
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