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4月4日(木) 旧暦2月29日
今朝は仙川の桜のお花見をしながら仕事場に向かう。 花冷えで桜は散ることもなくしっかりと咲いている。 途中、猿田彦珈琲でホット珈琲を買って飲みながら歩く。 桜のところで立ち止まってまた珈琲を飲む。 なかなか良き時間である。 小さな男の子をつれたお母さんがやってきて、「きれいねえ」と言いながら見上げている。 朝日のなかでみる桜は、気持ちをはればれとさせてくれる。 (さて、行くか……) ふたたびわたしは歩き出す。 新刊紹介をしたい。 四六判変型ソフトカバー装 212頁 著者の森加名恵(もり・かなえ)さんは、昭和25年(1950)大分県山香町に生まれ、現在は栃木県大田原市在住。昭和47年(1972)「蕗」に入会するも、上京のため中断、平成7年(1995)下野新聞に投句を始め、平成8年「蕗」に投句を再開する。平成10年(1998)「百鳥」に入会し、平成15年(2003)「百鳥」同人。句集に『家族』『声』がある。栃木県俳句作家協会幹事、大田原市民学校「やさしい俳句教室」講師、俳人協会会員。本著は第1句集『家族』に収録した作品を中心に100句を選び、そこに自解を添えたものである。 ある時から自分の生きて来た証を家族に残せないだろうかと考え始め、出来る事ならなるべく早いうちに一冊の句集にしたいという決心に至った。(略) 主に、第一句集『家族』から百句をめどに拾ってみた。子育てと仕事の両立、更には義父母の介護と、今まで私にとって一番苦しかった時期の記録である。平成から新しい元号に変わる前に、更なる一歩を踏み出す礎に成ればと思って句集名も『旅立ち』にした。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 『旅立ち』を拝読すると、「俳句は日記」という言葉が浮かんでくる。本著は、森加名恵さんお一人の日記にとどまらず、森さんをめぐる家族の歴史が俳句と文章で綴られたものである。 そして、「この句集を家族以外の人や、新しく俳句を始める人たちに親しんで貰えるようにと、ふりがなと季語を加えた。」と「あとがき」に書かれているように、ルビがふってあるので俳句を知らない人にも読みやすく、また、ここに収められた句と文章は、わたしたち生活者にとって共通するものがおおく、例えば親の問題、仕事と子育て、子どもたちへの思い、あるいは自身の老い、などさまざまなテーマが潜んでおり、読み始める日記文学を読むように読んでしまう、そんな親しみ安さがある。文章だけだともの足らないところを俳句がその内容を深めている。いずれにしても、俳句を作らない人へも開かれた一冊となっている。 本句集の担当は、文己さん。 母の日の母に買ひたる軽き靴 燃やすもの無くなつてきし焚火かな 鮎釣りの水の匂ひを纏ふまで 別府湾絵葉書にみる涼しさよ 故郷を離れて露の世と思ふ ふるさとは母ゐるところ日向ぼこ 春愁に掴まらぬやう小走りに 好きな句を選んでもらった。そして、 森さんは栃木にお住いとのことで、 私も栃木の生まれなので、土地を感じる句があったこともどこか嬉しく担当しました。 自解の文章もとても読みやすく、家族の温かさに触れることができて 親しみをもって句を拝読することができました。 と文己さん。 「文章が俳句の説明ではなく、俳句と文章の関係がとても良かったです」とも。 わたしも先ほど読ませていただいたが、一気に読んでしまった。 同世代ということもあって、シンパシーを感じる部分も多かった。 何句か自解とともに紹介をしたい。(ルビはとって表記します) 待ちわびし待ちわびしこの賀状かな 昭和四二年作 倉田紘文先生(元「蕗」主宰)に勧められ初めて新聞に投句をして入選した十七歳の頃の恋の句である。選者は水原秋桜子先生。その頃は詩を書くことが好きで、ノートに何冊も心の内を綴った。また、大分県芸術祭に於いても詩で賞を戴き幸運な年であった。今思えば懐かしく、紘文先生の指導のもと「奔流」と言う同人誌らしきものを発行していた。(賀状・新年) ちちろ鳴く淋しき時ときは思ひきり 平成一一年作 子育てに一息つくと何も残らない自分に気付く。辺りは虫の声。寂寥感が虫の声と共に大きくうねりを上げる。床に就くと只、取り残された寂しさに涙が出て止まらない。(ちちろ・秋) 母の手を引いて菫のところまで 平成一四年作 何度も仕事を辞めて介護に専念しようかとも考えたが、デイサービスを利用しながら仕事はやめずに来た。父は要支援1、母は要介護3と認定された。吾庭にパンジーを沢山植えていたこともあり、母はとても綺麗だねといつも褒めてくれた。(菫・春) 油断してライバルばかり秋の風 平成一四年作 介護に追われながら仕事には一向に身が入らず、気づくと成績は下がるばかり、仕方ないと思いつつも、中途半端に終わる一日が情けなかった。「一点を見据えてゐたる冬の蠅」蠅を見つつ、こんな句が浮かんだ。(秋の風・秋) 小春日のやうなやや児を賜りし 平成一五年作 娘に第一子が誕生した。暗闇に光が差した喜びに家中が沸いた。娘によく似た男児だった。娘の産後については、何とか実家で私がみてやりたくて会社に一週間の休暇を貰った。 (小春日・冬) 退職の一語春待つ心こころかな 平成二四年作 会社の退職年齢は六十五歳だったが、自分の中では六十一歳と決めていた。三十一歳で入社を決めたので、三十年は勤める気でいた。 退職を決めてからは、次は何をしようかと、心が弾む。結局ずるずると引き延ばされて六十三歳まで働いた。(待春 ・冬) 故郷を離れて露の世と思おもふ 平成一三年作 「ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふもの」室生犀星 「露」もまたふるさと同様儚い。大分を離れて五十年に近い。この地(栃木)に根を下ろしたことは事実である。ならば、ここで充実した人生を送ろうと心に誓った。 (露・秋) 此の間、思ってもみなかった仕事が突然入った。栃木県が一九年ぶりにデスティネーションキャンペーンの開催地に選ばれ、観光ガイドのボランティアをしている我々(ふるさとを知る会)に仕事が舞い込んで来たのである。 大田原市は松尾芭蕉が「奥の細道」で一三泊一四日、長逗留したことで有名で、普段でも観光客が多いところを、芭蕉も訪れた臨済宗妙心寺派の名刹「雲巌寺」に、かつてない多くの客をお迎えした。 敢えてここで、このことに触れたのは、私が今後進むべき道が見えてきたからである。今、俳句を通して町おこしに一役買う事が出来る幸せを感じている 「あとがき」をふたたび紹介。仕事を退職された後も、シルバー世代の、あるいは小学校の俳句講師をなさったり、町おこしのために尽力されたりと多忙で充実した日々を過ごされている森加名恵さんである。 本句集の装丁は、君嶋真理子さん。 森さんのご希望をとりいれたものをデザインして下さった。 薄むらさきが、差し色となって落ち着いた華やかさのある一冊となった。 カバーをとったところ。 読みやすいレイアウトである。 俳句が縁で人と人が手を携えることができる幸せを声を大にして云いたい。そうすることに依り、社会から孤立することもなく長い人生を全うできる気がするのだ。生意気なことを云うようだが、自分に言い聞かせる意味でもこれからの人生を、俳句とともに歩んで行けることを願っている。 「あとがき」より。 ふるさとは母ゐるところ日向ぼこ 平成一六年作 淋しいかな父も母も、もういない。母居ればこそ「ふるさと」の感を強く持つ。故郷へ帰るたびに辺りは一変し小学校も廃校になり跡形もなくなった。 今や空想の世界で懐かしむことしか叶わない現実に、日向ぼこの温かさはひときわ郷愁をかきたてる。(日向ぼこ・冬) この気持ちようくわかる。わたしの故郷にも父や母はすでにいない。しかし、故郷の秩父の山々とともに父母の顔を思い出す。そう、とくに母のあたたかさを。 本著を「旅立ち」という集名にされた森加名恵さんである。本著を上梓することを一区切りとして、すでにお気持ちは前を向いて俳句とともにある人生を楽しもうとされているのだ。 午前中にお一人、お客さまがいらっしゃった。 俳人の今村たかしさん。 第二句集の句稿をもってご来社されたのだった。 今村さんは、「杉」の同人でいらっしゃる。 今は亡き森澄雄に「杉」がはじまってより師事をされてきた方だ。 「森先生は、弟子にとってどんな方でしたか」と伺った。 「厳しかったね。一度も褒められたことがないよ。誰かが句を褒めたとしても、森先生は『まあ、まあかな』ぐらい。まあまあと言われればいい方かな」と今村さん。 「金子兜太と同じ楸邨門下で、1919年の同じ生まれ。そして、兜太さんと同じ戦争の生き残りです。しかし、戦争の話しはしなかった。生き方において厳しい人だったと思う。すじが通っていた。」 「僕らの若い頃は、結社しか知らなかったけれど、いまは違いますね。結社をこえての交流がある」ということで、今村さんは、現代俳句協会に所属し、練馬区俳句連盟の会長さんをやっておられるとのこと。年二回、俳句大会の開催のためにご尽力をされている今村さんである。 今村たかしさん。 「ふらんす堂さんの本づくりは、いいと聞いています。いい本ができることを期待しています」と言われ、わたしと文己さんは、思わず顔を見合わせてしまったのだ。 頑張らねば。。。。
by fragie777
| 2019-04-04 19:30
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