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4月2日(火) 旧暦2月27日
琵琶湖に停泊していたヨット(?)。 琵琶湖にはさまざまな青がある。 桟橋にには釣り人がたくさんいた。 わたしは写真をとっていたのだが、どうも景色がかすむ。 どうしてだろう? ああ、眼鏡、眼鏡をホテルの部屋に忘れて来てしまったらしい。 すでにチェエクアウトをした後、取りに戻らねば。。。 先を行く同行者たちに大声で叫んだ。 「ねえー! 眼鏡をホテルに忘れて来ちゃった!! 取りに戻るからまってて!」 振り向いてやってきた同行者がいう。 「何言ってんの? 眼鏡かけてるじゃない!」 へっ…… 顔に手をやる。 あら、あった! (もうやだー) 釣り人たちを含めて大笑いである。 「眼鏡をかけながら、忘れたっていう人間はじめてだよ」。 わたしもはじめてよ。 こんな間抜けなこと言ったの。 しかも派手な眼鏡をかけて、いい笑い者になってしまった。。。 まったく。 新刊紹介をしたい。 四六判変型上製帯カバー装 著者の山地映子(やまぢ・てるこ)さんは、昭和24年(1949)香川県高松市生まれ、平成19年(2008)「星座の会」に入会、本歌集は、平成19年(2017)から平成28年(2016)までの「星座」「星座α」より341首を自選して編んだ第1歌集である。 歌集を読んでいくとわかるのだが、歌集には海外の風景が多く登場する。日常の風景の合間に措かれた海外の作品群は、歌集の世界をひろげ物語性を与えている。日常をみつめる著者の深く広やかな視点は、海外に身をおくことの多かった経験による者かもしれない。 日照雨(そばへ)ふる初夏(はつなつ)のパリかたはらを革ジャンパーの幾人か過ぐ 集名となった一首である。 交遊の続くフランスの友人達とは、このところ社会に漂い始めた不穏な空気を案じつつ互いの健康を気遣う現在ではありますが、「日本を知り得たことは一生の宝物」との言葉に、こちらも全く同感でした。湿度の低く爽快な夏、雨にも傘をささない日照雨のパリを想い、集の名といたしました。 「あとがき」を紹介した。 初夏のパリに降る日照雨、そこを傘もささずに颯爽といくパリの人たち、革ジャンパーというのがいかにもパリ的だ。思うにヨーロッパの人たちは革ジャンを上手に着こなす。日本では革ジャンというと秋、冬、のものである。しかし、わたしも旅して思ったのだが、夏だって革ジャンを羽織っている、タンクトップの上に革ジャンである。革ジャンが生活に馴染んでいるのだ。 本歌集の担当は文己さん。好きな短歌をあげてもらった。 大鷲とならんローマの熱気球人ら集ひてゆるらかに浮く 病棟の窓に棕櫚の葉雨にぬれ風にゆれわが追憶の夜 スペインの宿に幼等素足にて歩ける床の青きモザイク いま姉となりゆく幼やうやくに寝入りて黒き睫毛光れり 冷ゆる日に黒髪ゆらしスカーフをわれにと笑まふユーゴの少女 用もなきくるみボタンを購ひぬ緋色の布の寂し明かるさ やさしさは空の藤いろ月も星も消えて閑けき一月の朝 スカートにふうはりかがむ子と蟻の出逢ひは今日の偶然にして 音もなく金の魚の過ぎゆきぬ水無月ゆふぐれ橋下の闇 禁じらるる砂糖菓子ひとつ掌に載せて小さき罪もつ幼子と吾 紅き実の澄める稠密触れず眺む割れて柘榴の美しければ 柘榴の実を詠んだ一首である。柘榴の実の美しさが詠まれているのだが、「紅き実の澄める稠密」という書きだしではじまりそれがいったい何の実であるかはわからない、それを触れることなくひたすら眺めている作者がいて、それが割れた柘榴の実であることがわかるという、柘榴の実にたどりつくまでに濃密で細やかな時間が流れるのだ。構成が巧みな一首だと思う。 手は何の記憶に色を選びしか連なり光る星の切り紙 「手は何の記憶に」という始まりがいい。星の切り紙細工であるのか、その色を選んだのが手が持っている記憶によるという、自身の身体から離れた手の記憶、そこから物語は始まっていく。 日出づれば滴おのおの光抱く葉の上花の上わがゆびさきに ここにもまた身体の一部である「ゆびさき」が登場する。「柘榴の実」においても触れない手があった。「星の切り紙」においては記憶する手である。そしてこの一首においては、「光抱く」滴がふれるゆびさきである。山地映子さんの手は繊細にして記憶する手であり、詩情の源なのかもしれない。この一首もまた構成が巧みである。清らかな滴が葉に、花に、そして最後にゆびさきにきて読者もまた、その冷ややかさをゆびさきに感じとるのだ。 感性が研ぎ澄まされていくそんな歌集である。 この度、思いも掛けず歌集を編むこととなりました。平和に過ぎた平成の世の最後の年に上梓という僥倖に恵まれ、感謝とともに驚きと感慨に堪えません。 小学校の転校、大学学部三、四年には七十年安保の学園紛争を経験し、もともとの性格もあって集団に定着することに余り馴染まないで来たように思います。明確な目的に向かうというよりも、次々と目前に迫る問題に対処する日々の連続でした。瀬戸内の温暖な故郷の影響でしょうか、どちらかというと寒風の景色よりも太陽や明るさに惹かれるようです。 ふり返り、精神生活に占める心的現実の大きさに気づかされました。四季の日常を詠んだ一連の中に、過去の出来事、夫の仕事関連で出会った海外の人々や旅などが同時に含まれています。編集にあたって整理を試みましたがどこか不自然に感じられ、そのまま措くことにいたしました。 「あとがき」を紹介した。 何処より来たりし命ひたすらに耳澄ましをり此の世不可思議 みどりごをひと抱くときその人の温もりのかたち見ゆる思ひす 尋めゆけば謎は解けんか去り難きカラヴァッジオの黒翼の天使 驟雨すぎて髪をわが梳く一月の部屋にナナ・ムスクーリ声の清しさ 解せぬ子を無言のうちに胸に抱く母は底なき泉と知れり ゆふぐれの風にさわだつ八重桜今はなき人前行くごとし ほの暗き大英図書館音絶えてカサブランカの大輪白し 鋭き思ひいつか緩みてつぶらなる桜桃の実に月光あはし ほぐれたる古きリボンの緋の螺旋かの日のこころ躍りの聞こゆ 漆黒の翅に銀化ガラスの身の繊き羽黒蜻蛉は夢に来てとぶ われのみをただわれのみを思へとぞわが軀いふ時ならぬ声 ゆく時はひと老いしむるのみならず緩らかに人蘇らしむ 実の甘き白無花果の木の下に夕べ寂しく父待ちし日あり 著者の山地映子さんにあっては、過去もまた鮮明によみがえるものであり、それは記憶の坩堝になかでときには浄化されときには鮮やかな色づけをされ、ふたたび一首のなかで命を得る。この歌集は豊饒な記憶のアラベスクのようである。 ともる灯に緑衣のモナ・リザ微笑めり時は逝きしか観る者にのみ 好きな一首である。絶え間なくダ・ヴィンチのモナリザを観にやって来る者たち、その者はやがて死んでいく、しかし、モナ・リザは未来永劫微笑みつづけているのだ。「ともる灯」という措辞が緑衣のモナ・リザを浮かび上がらせる。そして、なんと残酷な微笑みであることよ。 本歌集の装丁は和兎さん。 黄色とブルーにこだわられた山地映子さんのご要望をいかす一冊となった。 この本の大きさも山地さんにはこだわりがあった。通常の四六判よりやや天地をけずったもの。 帯カバーにパリの風景の写真を使う。 広げるとこんな感じ。 表紙は黄色のクロス。 文字は青のメタル箔 扉。 天アンカットにして、栞紐はブルー すこし正方形にちかくなった大きさである。 わたしはこの大きさの本がとても好きである。 いくつもの偶然の重なりにより、短歌との貴重な出会い及びその後の温かい御指導をくださった尾崎左永子先生、そして故今井陽子先生、「星座」の諸先生方、歌友の皆さまに深く感謝申し上げます。数人の仲間との小さな読書会は『万葉集』二年目となり、毎回瞠目しつつ互いに発見を愉しんでおります。 ふたたび「あとがき」より。 水仙の香に充つる部屋にひとり居て音なき夜は吐く息を聴く とくに好きな一首である。「吐く息を聴く」というこの静けさ。あるのは水仙とわたしのみ。薔薇でもなく、百合でもなく、水仙であるということ、それに尽きる。 すでにスタッフたちは皆帰ってしまった。 バランスボールよりポンと飛び上がって帰ることにするか。
by fragie777
| 2019-04-02 19:26
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