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3月20日(水) 旧暦2月14日
わが家の馬酔木の花。 こちらも低木であって、膝辺りで咲いている。 毎日をドタバタと生きているyamaokaであるが、ある日ふっと、馬酔木が咲いていることに気づいたのだった。 明日は春分の日である。 だから祝日である。 平成最後の春分の日。 昭和、平成、◯◯と三つの時代を生きることになりそうになるyamaokaである。 新刊紹介をしたい。 四六判仮フランス装カバー掛け 188頁 著者の藤本夕衣(ふじもと・ゆい)さんは、昭和54年(1979)年生まれ愛知県出身、現在は神奈川県川崎市在住。平成16年(2004)「ゆう」に入会し田中裕明に師事。平成17年(2005)「ゆう」終刊後「晨」「泉」に入会、大峯あきらに師事、綾部仁喜に師事。平成20年(2008)泉新人賞受賞、平成26年(2014)泉賞受賞。「泉」同人を経て、現在「晨」同人、「静かな場所」同人。俳人協会会員。 本句集は、第1句集『風水』(私家版)につづく第2句集となる。 帯に中嶋鬼谷氏が言葉を寄せている。紹介したい。 掌にみづうみの水なつやすみ 渚に立つ聖女の姿を思わせる一句。 作者の師田中裕明の、 みづうみのみなとのなつのみじかけれ に和した作であろう。 本句集の作品世界はすずやかで透明であり、いのち讃歌の一集である。 中嶋氏の帯文にあるように、本句集をつらぬくものは、「すずやかな透明感」だと思う。 掌にみづうみの水なつやすみ 片足はみづうみに立ち秋の人 みづうみの沖に日の射す氷柱かな みづうみの梅雨のほとりに眠りけり みづうみの水さらさらと雪に寄す みづうみの北に広がり半夏生 みづうみに枝の浮きたる寒さかな 本句集には「みづうみ」がこうして四季を通じて詠まれている。どこの「みづうみ」であるかは書かれていない。しかし、著者にとってそれは原風景とでもいうように身近で親しく、自身の詩情を支えるものであるのだろう。「みづうみ」の句がこのようにときどき句集のなかにおかれることによって、読み手である私たちが「みづうみ」の前へと誘われ、その吹き渡る風音やさざなみの光を感じ、あるいは透明な水に手を浸しているようなそんな思いに捉えられる。「湖」ではなく「みづうみ」と表記することも、著者の藤本さんにとって、それは特別な「みづうみ」であり、あるいは師・田中裕明の眼差しを思う「みづうみ」であるのかもしれないと、わたしは思ったのである。 野遊の遠くの声に呼ばれけり 本句集のタイトルとなった一句である。 「遠くの声」が呼ぶもの、はるか彼方であっても確実に届く声、そしてそれは大事な人が呼んでいる声とも受け取れる。藤本夕衣さんにとっては、「遠くの声」は、すでにこの世にはいない師たち、田中裕明、綾部仁喜、大峯あきらの声でもあるのだろう。この「遠く」は空間的な遠くのみならず、時間的な遠くであり、また心因的な遠く、だ。しかし、遠くであるからこそ藤本夕衣さんが耳を傾けてやまない大事な「声」なのだ。 けふ眠るところ氷柱のあるところ 栗むきて机のうへの広きこと おほかたの星に名のなく凍りけり 雪踏んで大事なことを聞きにけり 指先の考へてをり春の星 凍る夜に生まれくるものありにけり 藤本夕衣さんは、日々の暮らしのなかにあってもその雑事から心を離して、星のこと、空のこと、宇宙のことなど、見上げる眼差しを持つ人だ。そしてそれはきっと、人間は宇宙のなかの一点であるという認識にもつながっていくものだ。師・大峯あきらで学んだ人ということをあらためてわたしは思う。 育つことかなしくもあり初氷 本句集は子どもを詠んだ句が多くあるが、どの句もわたしは好きである。ご自身のお子さんを詠んだ句、そうでない句、いろいろである。 いくつか紹介したい。 子どもらにひとだまの出る大枯木 泣きやみし子の悴んでゐたりけり 子のひたひ広げて玉の汗ぬぐふ 赤き実もにぎる子の手も冷ゆるもの 白百合やどの子にも日のあたりをり (晴希くん一周忌) 泣き果てし子を夕焼にたのみをり 鈴虫の玄関にまつ子どもかな ためこみし涙あふるる冬の子よ 日の沈むはうに子のゐる日永かな ここには、ひとりひとりの子どもが生きる匂いのようなものを発散させながら存在している。およそ大人の子どもに対する幻想から子どもは自由になっている。宇宙の生成の神秘に委ねられた子どもたちである。 「素直に作ってみてください」 これは、初めての句会の折に裕明先生からいただいた言葉です。この言葉が私の原点であり、時を経るほどに重たく響いています。 「ゆう」終刊の一年後には、百句を編んだ『風水』を製本し、身近な方々にお渡ししました。その後は、「静かな場所」に参加し、田中裕明の作品と文章を学び、また綾部仁喜先生と大峯あきら先生のご指導を受けました。仁喜先生には、己の境涯を受け入れ詠み続けることを、あきら先生には、自分を見つめ、季節の言葉の内に生きることを教えていただきました。本句集は、『風水』後の十三年間の作品をまとめた第二句集となります。 帯文には、中嶋鬼谷先生にお言葉を、表紙には、友人で画家の伊藤香奈さんに絵と題字を描いていただきました。俳句を通して多くの方に支えていただいております。皆様に心より感謝申し上げます。 「あとがき」を紹介した。 ほかに、 しつとりと青空のあり柳絮とぶ 大学を貫く道も冬枯るる 鞄からなにもかも出し日脚伸ぶ 風鈴の聞こえてゐたる赤子かな あたたかき手に待たれをる二日月 底冷えや修道服のすれる音 掌の母らしくなり寒の水 鶯や鎌倉どこも濡れてをり 本句集の装釘は和兎さん。 ご友人の画家・伊藤香奈さんの作品を装画に、というのが藤本夕衣さんのご希望だった。 表紙に絵を印刷して、透明な用紙をカバーとした。 「遠さ」を感じてほしいというのが和兎さんの思い。 帯は省略してカバーにすべて印刷することに。 文字はすべて金のインクで刷る。 タイトルと名前は伊藤香奈さんが書かれた文字をそのまま使用。 カバーをはずすと、 絵が現れる。 伊藤香奈さんがこの句集のために描かれた作品である。 扉の用紙もカバーと同じにして次のページの文字が透けてみえるように。 栞紐は見返しと同じ色に。 たっぷりとした詩情を感じさせる一冊となった。 これまでの時を糧に、これから心新たに俳句に取り組んでまいります。 「あとがき」より。 片耳のとばされてゐる雪兎 雪でつくった兎である。兎だから耳をつけなくてはいけない。だからつけた。しかし、その片方の耳が無くなってしまった。解けてしまったのではない、解けるんだったら両耳だろう。この場合、とばされたとあるから、風の仕業か。何ゆえかは書かれていない。とばされたという現実だけを詠んでいる。きっともう一方はきっちりと耳の状態を保っているんだろう。片方の耳を失っても雪兎は雪兎としてそこにいる。片耳なしでもまだ十全な雪兎を感じさせる一句である。好きな句である。
by fragie777
| 2019-03-20 20:08
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