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3月13日(水) 奈良春日祭 旧暦2月7日
ちょうど庭に女主人がいたので、「写真を撮らせてください」って断って、写真を撮った。 「お庭のこの辛夷はとりわけきれいで、毎年こうして写真に撮らせてもらっているんです」と申し上げると、 「そうなのですか。辛夷にお詳しいのですか」と聞かれた。 「詳しいわけではないのですけれど、、、」と答えたが、どうやら話しを伺うと、この庭に辛夷を植えたのは前の主人であったらしい。 というのは、「ミモザの素晴らしいのがありましたよね」とわたしが言うと、「そのミモザは、前の持ち主の方が植えたもので、持ち主が変わったとたん、一瞬にして枯れてしまったのです。驚いてしまいました」ということ。 そうだったのか。。。。 初めて聞くこの庭の話しだった。 辛夷は持ち主が変わっても、こうして毎年咲いている。 わたしはふたたび辛夷を見上げたのだった。 新刊紹介をしたい。 菊判変型コデックス装 128頁 俳人・中原道夫(なかはら・みちお)さんの第13句集である。これまでの句集に収録された海外詠に未収録の海外詠を加えて一冊にしたものである。4句組であるからかなりの読みごたえである。また、すべて可能な限り正字表記であるので、視覚的にも華やぎのある紙面となっている。 このブログへの引用は、すべてそのまま引用できない活字もある、その辺はご容赦いただきたい。 拙句に「どのくらゐ血は旅をせり懷手」『巴芹』といふのがある。人閒一人の血管を總合すると、赤衜を二周半(約一〇㎞)と言はれてゐるから、この長さの血管を毎囘携へて旅をしたことになる。約五十年閒で地球を五周くらゐ旅をしたのではないかと思ふ。遙か彼方の未踏の地にり立つ氣分ほど、心躍るものはない。しかし昨今はタラップをりて直接地面を踏むことも、餘程空港施設の整つてゐない國へ行かない限り少なくなつた。あの踏み出しの一步が愉快なのに、殘念なことだ。 「あとがき」をまず紹介した。すごい旅の道のりである。俳人でこれほど世界のあらゆるところを旅し、そしてその都度果敢に句づくりにいどむという作家は、まずいないのではないだろうか。作品を読むとおのずとわかるが、単なる観光旅行の俳句ではない。しかし、生活者の俳句ではもとよりないので、その国を訪れた俳人の目が見た俳句ではある。非常に博識の人ではあるので、その国の伝統、歴史、文化などに精通していることはもちろんであるが、さらにそこにホットな心臓とクールな諧謔をもって俳句で挨拶をするのである。読んでいるこちら側が、その国や地方の有り様や深部に俳句によって見開かれるそんな重さもある一句だが、しかし、やはり諧謔をもって軽量化される風通しの良さがあるのだ。 作品を抜粋して紹介したい。(実際に読んで欲しいので、たくさんは紹介しない) 天職は絨毯を織る手暗がり (ウズベキスタン) 蛇穴を出て私淑せしソクラテス (アテネ) 汗をして蒐めし蝶を値踏せる (コスタリカ) 豆の花皆ひとり子に手を燒きぬ (中國/雲南省) 嫉妬(ジェラシー) の窗巢燕それとなく覗く (グラナダ/アルハンブラ宮殿) 垩五⺼塔突き刺さるまま百年 (バルセロナ/サグラダ・ファミリア敎會) 廹害の徒や蟻の勞汲めるなり (トルコ/イスタンブール カイマクル地下都市) 異性愛(ストレート)ここにて亡ぶ日雷 (ニューヨーク/ハーレム 年に一のゲイ・プライド・パレードに出會す) 湯氣立てや再 び「春」を私す (ボッティチェリの部屋は早朝にて誰もをらず) この一句、特におもしろいと思った、イタリア、フィレンツェにあるウフィツィ美術館での一句だ。この句、季語は「春」ではなく、「湯気立て」冬の季語である。ストーブの上などに薬罐などを置いて湯気を立たせて部屋の湿度を保つこと、「今日ではほとんど見られない場面」と歳時記にある。ボッティチェッリの部屋が湯気立ての状態だっただろうか。まさか、とも思う。が、この一句に「湯気立て」をすまして持ってくるところが中原道夫の俳諧性だ。本句集を読んでいると「季語」の置き方がまことに巧みであると思う。海外詠を借り物でない一句にしているのが、この季語(の使い方)であると思う。余談であるが、わたしもかつてこのボッティチェッリの部屋に行ったことがある。この部屋はそれまで見てきたキリスト教の呪縛から解き放たれたような思いがし、あたたかな血流をわが身に感じるような部屋である。そこに「春」に描かれたヴィーナスや、海から誕生したヴィーナスがいて、わたしたちはそれを仰ぎ見るのである。そんなことを思い出しながら、この一句を読むとやはり「湯気立て」にはちょっと笑ってしまうのだ。 讀誦(コーラン)は手寫しうるさき蠅を追ひ (モロッコ/マラケシュ) 春はあけぼの屠殺直後を運び來る (モロッコ/フェズ(市場)) 着膨れの私娼なら閒に合つてゐる (パリ) 本句集は後半にむけて、ややトーンが重くなってくる。句集『一夜劇』に収録した「テロ」を詠んだ一連の句など、海外もそう安穏とした旅人ではいられない状況となりつつあることを暗示しているのかもしれない。 また本句集は、二回に亘って行った「インド」の句で終わっている。人間の生死が混沌と目前にあるインドである。 凍死餓死拂曉またぎ切れざるか 野良犬に野良牛あぶり出す濃霧 あかときの櫂に絡まる死者の嗚咽(こえ) 渴仰のふしくれの指冬日洩る 荼毘を待つ屍衣に降りたる霜の華 かぞへ日の亂離骨灰を目の邊り 執着の此岸離(か )れなば卽ク芥 沐浴の瘦躯冬日をしたたらす 凍つる手の紙皿掴むこぼすなよ 終生は乞⻝とのみ冬の蠅 ⻝ふ爲に切斷の足冷えも來ぬ インドの句においては持ち前の諧謔もなりをひそめ、人間の生死の凄まじい現場とそこに生きる人間を大胆に骨太にリアルに詠む。50年にわたる海外詠であるが、中原道夫の生死への存問としてインドの最終章はある、とわたしは思っている。 本句集の装釘は和兎さん。 ハードなコデックス装という永年のわたしの夢を中原道夫さんの句集によって和兎さんが実現した。 著者の中原道夫さんは、何もおっしゃらずに造本、装釘を任せてくださった。 そのことも大変有難い。 背丁が剥き出しで丁合の文字がそのまま見える造本である。 3㎜以上はある厚いボール紙にタイトルは空押し。 かなり厚目の金版をつくって押してもらったもの。 タイトルの題簽は中原道夫さんによる。 「UROTUSKU」というルビのみ赤メタル箔 帯は3センチほどの紙を巻いたもの。 裏でぞんざいにテープで留めてある。 これは、和兎さんによると、破いてもらっていいようにわざとぞんざいにした、ということである。 わたしはどうしても破れなくて、こんな風にそっとテープを剥がしてしまったのだけど、本を読むまでの演出としては「破ってほしい」という和兎さん。 見返しは、野崎義人氏の蜥蜴の写真。 これは中原さん提供のもの。 「うろつく」という句集名によくあっているでしょ。 扉。 本句集では赤が差し色である。 コデックス装は開きがまことによろしい。ノドまで完全にひらく。 綴じ糸は、赤。 その綴じ糸があえてみえるのもこの本の遊び。 本文と表紙のこの一体感。 シャープな線が惚れ惚れするほど美しい。 今囘の『彷徨』UROTSUKU は私の第十三句集となる。 㝡初で㝡後となるであらう海外詠のみの一册、一緖に旅をした氣分になつて戴ければ嬉しい。 「あとがき」の言葉である。 コデックス装というやや特殊な大胆かつスタイリッシュにしてぶらっきぼうな造本。 誰の本でも実現できるものではなく、中原道夫という俳人とのコラボレーションによって実現できたものと思っている。 今回は製本屋さんも何度もふらんす堂に足をはこび、見本をつくり、箔押しを確かめ、開きを確かめとかなり大変な作業であった。 しかし、わたしにとっては楽しい本づくりとなった。
by fragie777
| 2019-03-13 20:41
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Comments(2)
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