カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
3月6日(水) 啓蟄 旧暦1月30日
早春の木々。 明け方、わたしとして結構早く目がさめた。 何時だ、 まだ5時ちょっと過ぎではないか。 ああ、そうだ、 手をつけていない(手をつけられない)仕事がまだたくさんあった、ということをにわかに思いだしたのだ。 ヤバイな。。。 目下は、武藤紀子さんの「たてがみの掴み方」を一冊にするためにわたしはいま夢中である。 というか、写真を多くいれるのだが、アナログのやり方をしているので、コピーとゲラ間を一日何往復もしている。 昨日だってそう。 出かけるまで仕事をしていた。 昨日と今日で40往復、いやもっとだ、行ったり来たり、その度にバランスボールに乗るのはやっかいなのでほとんど立って仕事をしたのだった。 切り貼りの作業よ。 キライじゃないな。。。 今日でレイアウトもおおかたおわり、スタッフの緑さんにわたした。 さて、次はなんだ。 頑張ろうじゃないの。 今朝は目覚めていっとき慌てたのであるが、またすぐに寝てしまうyamaokaであった。 昨日京王プラザで行われた俳人協会賞の報告をしたい。 俳人協会賞 伊藤伊那男句集『然々と』 俳人協会新人賞 日下野由季句集『馥郁』 堀切克洋句集『尺蠖の道』 俳人協会評論賞 青木亮人著『近代俳句の諸相-正岡子規、高浜虚子、山口誓子』 それぞれの受賞者のご挨拶を抜粋して紹介したい。 伊藤伊那男氏 33歳の時に、皆川盤水先生、棚山波浪先生に写生をたたき込まれたました。何事もきちんとものを詠んだ上で自分の好きな道にすすむ、という教えでした。もともと叙情が強い方だったので、この写生の手かせ足かせがなかったら、糸の切れた凧のように飛んで行ってしまったのではないか。写生をやっていなかったらこの壇上には立っていないだろうと思います。壁に突き当たった時には写生にもどる、という思いでやってきましたしこれからもそのつもりです。 ちょうど20年前に新人賞をいただきました。その時は妻から花束を受け、今度は長女から花束を受けるという、なかなか感慨深いものがあります。 日下野由季さん。 10年ほど前に『祈りの天』という第1句集、10代から20代までの句をまとめ29歳の時に出しました。その時は残念ながら新人賞をとれませんでした。その時とても悔しい思いをいたしました。次の句集でかならず新人賞をとりたいという思いを胸に抱きまして、との時の悔しさを力にここまで頑張ってまいりました。10年越しの願いがこの度の受賞でかなったということになります。いま思いますとあのとき受賞していなくて良かったと、おそらく29歳という若さでしたら、若さゆえの奢りも出てきたと思いますし、作家としておそらくダメになってしまっていたかもしれないとも思います。第2句集で新人賞をいただけたことは私にとっても意味のあることでした。 生活と俳句との両立については、困難なこともあるかと思いますが、俳句を手放すことなく頑張っていきたいと思います。 堀切克洋さん 一昨年になりますが、文學の森主催の第八回北斗賞40歳以下150句のコンクールなのですが、それをいただくことができまして、その副賞として第1句集の『尺蠖の道』昨年9月14日、妻の誕生日なんですけど刊行致しました。「尺蠖の道」というタイトルは集中の「尺蠖の道ひろびろと使ひけり」からとっています。一人っ子のわたしは何事もマイペースでいろんな人にご迷惑をおかけしてるんですが、俳句の世界では広大な世界が目の前にあるということを知った瞬間から、これはまあ急いでも仕方がないな、自分のペースで着実に一歩一歩歩んでいけたらという思いを多少はこめて句集の題としました。 伊藤伊那男主宰が20年前に新人賞をとったその20年後にこうして新人賞をいただけたのは、なによりも励みとなります。 青木亮人さん 研究という仕事のなかで、結社誌などの俳誌をよく読むことがあります。錚錚たる俳人たちが、毎月ほかの俳人たちと句を発表していて、随筆でちょっとした日常のことを書いたりあるいは座談会で談笑したりしている。そういった何気ない日常のなかで信じられないようなすごい作品が昭和のある時期、平成のある時期に集中して出て来たりしている。ほとんど残らない、活字に残るものは一部で、残らないものがあるということを俳誌を通読するとすごく感じます。句にのこるものは片鱗で、そのほとんどが残らない、余白に静かに佇んでいるわけで、句だけが残っていく。しかし、さまざまなご苦労、実作者としての試行錯誤もあったでしょうし人としての人に言えない思いなど、そうしたものが一つの「響き」となって残っていったり消えていく。その「響き」を少しでも後世にために残していけたらなと思い、今回の本を刊行しました。 昭和はもちろん、平成も今後歴史の一部として過去としてのかたちになっていきますが、平成俳句とはいえ、さまざまな姿があったはずです。そして昭和の俳句もさまざな姿があります、それを研究の立場から活字に残ったものと消えていったであろう、しかし確かにそこにあったその「響き」をすこしでも後世のために残していければと思います。 句集『馥郁』に栞を寄せてくださった大木あまりさんがお祝いにかけてつけて下さった。 常日頃こういうパーティにはほとんど姿をみせることのないあまりさんなので、たくさんの方たちから囲まれていた。 受賞をされた皆さま、 おめでとうございます。 心よりお祝いを申し上げます。 ![]() ![]() ![]() ![]() お昼におひとりお客さまが来社。 板倉砂笏さん。 俳誌「草蔵」(佐々木六戈代表)に所属しておられる。 この度第1句集シリーズに参加くださり、句集を上梓されるのだ。 「草蔵」は、正確に言えば、「俳誌」ではなく、「句歌詩帖」である。ゆえに、所属している方は、俳句のみならず、短歌、詩も投稿することができるのである。 板倉さんは、「俳句よりも詩の方が親しい」らしいようであるが、今回は句集を刊行される。 板倉砂笏さん。 白髪があまりにも美しいので、「きれいですねえ」と申し上げたら、すでに40歳代からはじまっていたのだとういこと。 こんな風になれるのならいいなあと、わたしは自分の染めてない頭(髪)を思い遣ったのだった。 「ぼくは、句会が苦手なんです。最初は出ていたんですけれど、あれこれと人の作品にものを言うというのがどうも好きでなくて、いつの間にか句会には出なくなってしまったんです。」 「だから一人で孤独に書いています」 と。 「それではお仲間が、句集をきっと楽しみにしておられますね」と申し上げたのだった。
by fragie777
| 2019-03-06 19:32
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||