カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
3月4日(月) 旧暦1月28日
ふらんす堂32歳を祝して、深見けん二先生と奥さまの龍子夫人からふらんす堂にプレゼントが届いた。 葉書大の色紙。 お祝いの一句をいただいた。 いささかの朝寝日曜創立日 けん二 深見先生ご夫妻はふらんす堂創立の日をいつも覚えてくださっている。 そしてこうしてわたしたちを励ましてくださる。 有難いことである。 この色紙の裏面は、 お雛さま。 可愛いでしょう。 ほかにもふらんす堂の創立日をおぼえていてくださってごお祝いを言ってくださる方があり、おおいに励まされるのである。yamaokaは。 三七年間、おかげさまでなんとかやってきました。 これからもなんとかやっていきたいと思っております。 よろしくお願いいたします。 3月2日付けの讀賣新聞の仁平勝さんによる「俳句とことば」に、佐藤郁良句集『しなてるや』がとりあげられている。 ほかに、宇多喜代子句集『森へ』(青磁社)と高山れおな句集『冬の旅、夏の夢』(朔出版)も。タイトルは「季語ひとヒネリ 俳諧の味」。 抜粋して紹介したい。 俳句の季語は、それをストレートに詠み込むだけでなく、そこにひとヒネリ加えることでまた別の味わいが出る。これは俳句の母体である俳諧の精神を引き継いだものだ。 宇多喜代子句集『森へ』は、「しばしばヒネリの効いた句に出会う。」と書き、「近景に蜜柑遠景に密柑山」「年末に年始に役にたつ手足」「まかり出てただの鴉か初鴉」などをあげている。 高山れおな句集は、「いわば現代の俳諧がある」とし、「唐津これ陽炎容るゝうつはもの」「伊万里これ囀り容るゝうつはもの」「備前これ春雷容るゝうつはもの」という三句では、「季語が比喩としてそれぞれ焼き物を形容している。こういう季語の用法を認めない人もいるが、俳諧のセオリーには適っている。」など。 佐藤郁良句集『しなてるや』は、今年最初の収穫だろう。ここでも季語の使い方に巧みな芸がみられる。 「割る前の西瓜を誉めてゐるところ」や「木を選ぶことから始めハンモック」は、季語を一句の中心から微妙に外している。「国宝に順路つくるも年用意」は、展覧会の準備を「年用意」といってみせた。季語の本意を外したヒネリで、おまけに国宝がいい。 季語以外の措辞にも味がある。「遠足の先生がかたまつて食ふ」は、引率の教員が一緒に弁当を食べている平凡な場面が、「かたまつて食ふ」という言葉で鮮やかに立ち上がった。 今回の締めは「春を待つ前売券が二枚あり」。この「前売券」は、暦の上の春である。いよいよ本格的な春。好きな人と二人で出掛けてください。 「週刊俳句」の対中いずみさんによる「空へゆく階段」は№6である。 新刊紹介をしたい。 四六判変形フランス造本カバー装 204ページ 荒井八雪(あらい・やゆき)さんの第3句集となる。荒井八雪さんは、1945年横浜生まれ、横浜市金沢区在住。1991年「童子」に入会し俳句を始める。「童子」を経て1999年「文」創刊同人、2008年終刊、2002年句歌詩帖「草蔵」創刊同人、2007年「大」創刊同人 2014年終刊、現在は「草蔵」同人である。現代俳句協会会員、日本ペンクラブ会員。本句集『奉る』は、句集『浦祭』『蝶ほどの』につぐもの。栞を「草蔵」代表の佐々木六戈さんが寄せている。 「八月の雪に」と題し、著者の名前についても触れている。 (略)昭和二〇年二月八日の横浜市保土ケ谷区星川町の天候は雪であった。この日に生誕した子にその子の姉上が八日の雪と、即ち、八雪と命名したという。これ以上は無い命名である。だが、このような美しい名を負った者に秘密が無いなどということが有り得るのか。八雪という名そのものが姉上との秘密の遣り取りであったようにおもえる。即ち、人は任意の俳号を選ぶことができるが、本名を選ぶことはできない。本名は予め選ばれたのであり、本名を俳号とする者は選ばれたままに選んだのである。 (略)以下、『奉る』から雪の句をまぶしながら数句引用してみる。八雪の生活史が仄見えるようにである。 凍てゆるみけり腹帯を貰ひ受け 学校へ行くに吠えられぼたん雪 角伸びて生意気になる蘆の水 ひばりの巣欲しくて作る麦畑 粽食ひ大人の話聞いてゐる 種無しの巨峰にぷちと種の核 学校に連れてゆかれる初氷 人見知り激しくなるや雪兎 一つ火や雪降るやうに打つ太鼓 むろん、これらの句は自身を詠んだものとは限らない。自身の近傍を詠んだものだ。だが、不思議なものだ。近傍を詠む場合でもそこには自身が体験した季節の巡りが重ねられているようだ。腹帯を貰い受けたのは己の母であり、自分であり、娘であり、全ての母だ。生意気になるのは全ての子供だ。人見知りが激しくなることに例外はない。人はそれほど遠くへは行かないものだ。近傍こそが俳句の場所であり、秘密の蔵なのだから。 八雪(やゆき)さん、本名なんですね。「これ以上はない命名」と六戈代表は書いておられるがお、本当に素敵なお名前です。わたしはてっきり俳号とばかり思ってました。そしてそれがなんとも俳諧的だとも。一から一〇までの数字に雪を付してみても、「八雪」ほど響きが良くて、字面も可愛くてしかも座りがよくて、しかもお姉さまが付けたという、いったいお姉さまはどんなお名前だったのかしら、などとも思ってしまいました。 本句集の担当はPさんである。 草で拭く春泥のわが乗馬靴 獣道なり春の雨やみさうな 朝に生れし戴星の仔馬かな 粽食ひ大人の話聞いてゐる 海青青と百合化して蝶となる 高天原の人参を間引くなり 稲架高く水を豊かに暮らしけり 秋の暮鳥獣戯画の猿とゐて 羽撃きの匂ひを残し冬の鳶 ドロップの薄荷の白や日向ぼこ 引くものは引き刈るものは刈り冬至る はまゆふの枯尽してや芯の青 初漁や夜の鴎が追うて来し 草で拭く春泥のわが乗馬靴 春のぬかるんだ泥の匂いと草の匂いがゆるんだ空気とともに鼻を突くようである。そこに馬の匂いも加わってくる。冬の寒さから春へと人間の身体は気持ち良く解放されて、馬に乗って風光るなかを駆け抜けてゆく。ああ、気持ちいい。緩んだ土は泥濘となって馬がけるたびに泥を跳ね上げる。馬も人間も泥も跳ねる。すっかり泥まみれになって馬から降り、春の草で泥を拭う。草の香がつんと鼻をつく。八雪さんは、乗馬をなさるのかしら。わたしは一度も馬に乗ったことがないが、まさにこの場面は生き生きと眼前に甦る。わたしが鞭をもった女主人公のように。乗馬靴ってのもカッコいいし、乗馬スタイルもいかしている。乗馬はこわがりだからきっとできないと思うけど、乗馬スタイルはやってみたいな。。。馬のお世話なんてまっぴらごめんだわ。ってこういうのが一番蔑視されるべき人間だと思うのだけど。 朝に生れし戴星(うびたひ)の仔馬かな こちらも馬にまつわる一句。戴星(うびたい)と読むというのもこの句集ではじめて知った。どんな星かというと、本句集の装幀を見ていただきたい。 表紙の見返しをのばしたところであるが、この馬の額にあたる部分に星のような白い斑文のことをいうようである。 (装幀の和兎さんは、それを捜して表紙に用いたのである。) 戴星(うびたい)ね。知らなかった。朝に産まれた戴星の子馬、それは可愛らしかったろうなあ。荒井八雪さんは、こんな風に物知りである。本句集を読んでいると、あまり知られていない語句をさりげなく上手に使って俳句をつくられる。たとえば、「橘は始めて黄なり俱会一処」の「俱会一処(くえいっしょ)」「地ぼてりの牡蒿(をとこよもぎ)の貧相な」の「牡蒿」、「墓買ふと決めて大王具足虫」の「大王具足虫」、「百骸のばらばらになる溽暑かな」の「百骸」などなど、辞書やインターネットを引きながら読みすすむことが多かった、しかし、八雪さんは、きっと「あら、あなたそんなことも知らないの」ってあっさりこれまた嫌味なく言っておしまいになりそうな、まことに涼やかな趣の方なのだ。俳句が好きで楽しくて楽しくてたまらない、だから言葉や物への興味も人一倍で、それをすぐに一句にしてしまう、そんな方であると思った。 ドロップの薄荷の白や日向ぼこ この句は難しい言葉は遣われていないけれど好きな句である。日向ぼこをしながら誰かがドロップを舐めている。それも赤や黄色や緑の果物味のものではなくて、真っ白の薄荷のやつ。薄荷って口のなかからふっと爽やかな匂いがまわりにもただよってくることがある。日向ぼこでぬくぬくとゆるんでしまった身体に薄荷の爽やかな香りはその場をちょっと引き締めてくれていい感じ。飴をなめながら日向ぼこをする関係っていいなあ。人間のことを直接には詠んでいないけどその場にいる人間の楽しいくつろぎが伝わってくる一句だ。 『奉る』は、三冊目の句集になります。 二〇〇八年秋から二〇一八年夏までの俳句で編みました。 吟行地としましては、主に千葉市花見川界隈の定点観察、鎌倉の神社・仏閣、地元金沢の海辺等になります。 年々、体力、気力共に衰えては来ていますが、これからも私らしく元気に俳句に向き合っていきます。 「あとがき」を紹介した。 天泣や蜘蛛の太鼓へ奉る 「奉る」のタイトルになった一句である。「奉る」は、「さしあげる」「献上する」などの意。「天泣」は?これもあまり聞かない言葉である。「上に雲がない場合にも雨が降ることをいう」「天気雨」のことらしい。ということは、急なる天気雨が、蜘蛛がみっしりと張った太鼓のような蜘蛛の巣に降り注いだということだろうか。いやいやそうではないらしい。実はこの「蜘蛛の太鼓」は、袋蜘蛛が持ち歩く卵囊で卵が入っている時に太鼓のようなさまになるのだそうである。その天の恵みである雨をこの赤ちゃんたちに奉るという意。と八雪さんが教えてくださった。 ほかに、 三オンス入りの小瓶や春の月 黒板を消しても残る春の空 鶏や地獄の釜の蓋光る 本郷の金魚屋昼を灯しけり 金魚屋の濡るる御釣りを渡さるる 友だちを羽交ひ締めして桜桃忌 高天原の人参を間引くなり 鶏の蹴爪に秋の色来たり 匂ひたる雨の鉄棒震災忌 帰りしな菊人形に囁かれ ふらんす堂にご来社くださったとき、八雪さんは、「戴星(うびたい)」という句集名にするおつもりだった。 しかし、「奉る」もよい。 迷われた八雪さんに、和兎さんはふたつともかなえる(?)というブックデザインにしたのだった。 戴星の馬の写真をカバーに用い、タイトルは「奉る」。 タイトルは白箔。 表紙はフランス造本。 見返し。 扉は透明な用紙に。 赤が差し色。 栞は淡いピンク色に。 馬の顔を全部見せるために、帯の用紙は半透明なものをもちいた。 同じ虫聞きてをりしが別れけり さりげない一句である。同じ虫を聞く、というのがいい。「あれ、蟋蟀かな」「いや、鈴虫よ」とかいいながら虫を聞いている。草むらの前に立っているのだろうか。二人というのが一番想像しやすいが、三,四人でもいい。その関係性は夫婦、ともだち、恋人、あるいはたまたまおなじ場所に立って虫を聞いていた人間でもいい。この「別れけり」にちょっとどきっとしてしまうのだ。同じ虫を聞く、というのは、拡大解釈もできる。つまりは同じ場所を共有して同じ体験をする人間関係、しかし、いずれは別れることは必定。なんていう一般解釈も。でも、そんなのはつまらん、。やっぱり同じ虫の音をきいていたのだけど、「じゃっ」とか言って手をあげて別れた、というのがいい。しかし、しみじみとした情趣がある。それは「虫の音」だからなんだろう。小さな命の声に立ち止まって耳をすます。そのしばらくの沈黙の時間、それを束の間共有して、やがて、それぞれが現実の場に別れていく。虫の音を聞くというのは、わずか5㎜ほど現実から浮上している、そんな世事から一瞬自由になり得る時なのだ。地上には虫を聞く我と虫の声のみ。だから共有がすばらしい、そしてそれぞれが現実にもどっていく。それが別れなのだ。
by fragie777
| 2019-03-04 19:43
|
Comments(2)
|
ファン申請 |
||