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2月16日(月) 旧暦1月12日
早春の空。 昨日ブログにあげたスポーツカーであるが、わたしは見事に間違えてしまった。 あれはフェラーリだった。 赤でも黄色でなく紺だったのでフェラーリとはおもわず、偉くカッコいいスポーツカーだと思ったのだ。 フェラーリのシンボルマークをプジョーと間違えてしまったのだ。(ちがうだろ…) それなら分かる。 あの車が発していたオーラを。 フェラーリだったら一度は乗りたいとおもうが、その時は絶対赤のフェラーリだな。。。。 でも、そんな時が来るのだろうか。。。。 まっ、夢でもいいわ。 新聞の紹介記事をいくつか。 今日の毎日新聞の「新刊」紹介に、現代俳句協会青年部編『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』が紹介されている。 「何が新しかったのか」という副題を持つ選集。44名の新興俳句俳人の百句抄及び、現代の若手による作家小論と、章ごとのテーマ別のコラムが面白い。新興俳句を俯瞰できる一冊。 この『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』については、ふらんす堂からあるいはAmazonから直接買うこともできますが、「現代俳句協会」の注文フォームへ直接3月末までに申し込むと、割引にて買えるそうである。 こちらから→「現代俳句協会」 おなじく毎日新聞の岩岡中正氏による「俳句月評」は、「伝統と純粋経験と」と題して、ふらんす堂刊行の書籍二冊がとりあげられている。抜粋して紹介したい。熊瀬川貴晶評論集『永遠の星座』と、佐藤郁良句集『しなてるや』である。 (略)熊瀬川貴晶『永遠の星座』(ふらんす堂)は、副題の「文芸の哲学的基礎」のように、哲学と宗教と俳句の一致をめざす清新な一書。 著者は高校時代から親しんだ西田幾多郎『善の研究』を出発に、大峯顕『フィヒテ研究』ほかの著作や俳句作品をたどりつつ、「概念」や近代の主客二元論を超え自我を捨てて、直接的な経験へ一つになろうとする純粋経験から生まれる本当の言葉こそ俳句だという。しかも本書はただの大峯の思想の紹介ではなく、真摯な自己の内面史でもあって、まるで教養小説を読むような楽しさである。 花咲けば命一つといふことを 大峯あきら 句集では佐藤郁良『しなてるや』(ふらんす堂)が、端正で大らかな成熟を見せる。爽やかで伸びやかな句集である。 いろいろとありし障子を洗ひけり 山を見て山と書くなり筆始 屏風絵を出るひとすぢの水の音 また、季語を熟知しこれを自在に駆使するところが魅力。 菜の花の中の鉄道研究部 思はざる幸のひとつに雪見酒 いま発売中の「週刊文春」で、歌人の穂村弘さんが「私の読書日記」の欄で、小野あらた句集『毫』をとりあげて下さった。もう一冊は大辻隆弘著『佐藤佐太郎』(笠間書院)。こちらも抜粋して紹介したい。タイトルは「世界を更新する眼」と題して、俳人と歌人のふたつの「眼」を浮き上がらせている。 ×月×日 『毫』(小野あらた ふらんす堂 2400円+税)という句集を読んだ。目に飛びこんで来たのは、こんな句。 母の日やマッサージ機に顔震へ 肩こりの母のためにマッサージ機をプレゼントしたのだろうか。「顔震へ」がちょっと不気味で可笑しい。若い人ならそうはならないだろう。顔の肉や皮膚がたるんでいるからぷるぷると震えるのだ。母の日の明るさや優しさから微妙な暗さや怖さに転じる世界像に惹かれた。 この暗さと怖さをさらに拡大すると、こんな短歌に近づくんじゃないか。 母の日はたちまち昏れて水中の鼠がねずみとりごとうごく 塚本邦雄 一首の背後には、この世に自分を送りだした者への呪詛が秘められている。母親の腹の中で赤ん坊が動くように、ねずみとりの中で鼠が動く。前者はやがて生まれ、後者はやがて死ぬ。そんな命の対比が描かれていいる。 「顔震へ」がそこまで踏み込んでいるわけではないが、母の日の母を見る視線の中に愛情によって妨げられることのない即物性というか、或る種の非情さが感じられる。モノを見るように母の顔の震えを見る。対象の細部を捉えるこの特異な「眼」の在り方は、作者の軸になっているようだ。(略) ×月×日 『佐藤佐太郎』(大辻隆弘 笠間書院 1300円+税)を読んだ。昭和期を代表する歌人である佐藤佐太郎の短歌から50首を選んで、大辻隆弘がその鑑賞をしている。 舗道には何も通らぬひとときが折々ありぬ硝子戸のそと この歌に関して著者は次のように解説している。「作者は喫茶店の窓際の席に座りながら、何気なくガラス戸の外の人々の往来を見ていたのだろう。休日の昼間の人の往来は頻繁である。が、ふと気づくとその人通りが途絶え、窓の外の舗道を誰も通らない隙間がある。そんな何もない瞬間を詩人の眼は見逃さない。『不在』そのものを見てしまう眼。佐太郎はそんな恐ろしい眼の持ち主だった。」 なるほどなあ、と思う。佐太郎が見たのと同じような光景を我々も日常的に目にしている。だが、それを「何も通らぬひとときが折々ありぬ」と表現することはまずない。その理由は同じ光景を「何かが通るひとときが折々ありぬ」と知覚してしまうからだ。 人間にとっては「何か」すなわち存在に目がいくことが自然であり、「不在そのもの」を見るというのは、いわば裏側から世界を見るような感覚になる。そんな眼の持ち主とは死神か異星人かAIか……。佐太郎の眼差しの特性を、大辻隆弘は「存在の無意味性を冷徹に見つめる」と表現している。(略) 今日は午後からあたたかな日となった。 しばし、暖房を消して仕事をした。 明日は新刊を紹介します。
by fragie777
| 2019-02-18 18:37
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