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2月14日(木) 魚上氷(うおこおりをいずる) 二の午 バレンタインデー 旧暦1月10日
ふらんす堂の窓辺に咲くシクラメン。 「あら、きれいね。これって去年いただいたシクラメン」と聞くと、 「いえ、もう何年も前にいただいたもので、こうして毎年咲くんです」って文己さん。 「あらあ、そうだったの!」と改めておどろくyamaoka である。 左手にしているアップルウォッチが振動した。 (ウン?なんだ)って覗くと、 「今日はまだストレッチをしていないからすこし立って歩き回るように」という指令を出している。 わたしはさっそく机をはなれて、太極拳のスワイショウという運動(腰を体重移動をさせながらまわす準備体操)をしたのだった。 これをやると気分転換になり眠気もさめる。 こんな風に「アップルウォッチ」は「大きなお世話」をしてくれる。 たとえば、二度ほどあったのだが、手をなにかで大きく振り上げた時だったろうか、「緊急ですか」という文字が出た。緊急の場合はそこをタッチすれば対応してもらえる。なにごともなければ「大丈夫です」をタッチすればよい。 これはR化がすすんでいるわたしのような人間にはいいのかもしれない。非常事態にもすばやく対応してくるというわけである。 使いこなせば、非常に便利である。 新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル 72頁 3句組 第1句集シリーズ 著者の稲葉晶子(いなば・あきこ)さんは、1942年長野県生まれ、現在は埼玉県さいたま市在住。2006年「あすか」会員、2008年「あすか」同人、2011年「緑舟賞」受賞。現代俳句協会会員。序文を野木桃花主宰が寄せている。 晶子さんの生まれは、長野県諏訪市で物心が付く頃には父の里、山梨での生活が始まっていた。遠景に富士山、目前には甲斐駒や八ヶ岳を仰ぐことのできる地に育ち、父母亡きあと、月に一度は墓参をかねて故郷へ帰る日常が続いている。晶子さんにとって、精神的な寄りどころでもある故山は、行くたびに自然の感動的な出会いが待っている。(略) 初紅葉空にいちばん近い駅 街中を走る瀬音や雪解富士 山頂の奇岩怪石冴返る 神在す大雪山のお花畑 真向ひて登る外なし大雪渓 この句集に山の句が多いことに気がついた。晶子さんの趣味は登山である。これらの俳句は山好きの晶子さんらしい、感動的な出会いを大切にしている。(略)晶子さんは、国内以外でも、台湾の最高峰玉山(ギョクサン)(三九五二メートル、日本では「新高山」で知られた所)、またチベットの最高所五千メートルを越える青蔵鉄道の山旅にも出かけている。 さびしき人よ噴水へお寄りなさい この句集の題ともなった一句。自分でさびしいと言える人は少ない。自らをさらけ出す勇気を持った人でもある。 序文に「山の句が多い」と書かれてあるが、わたしの故郷・秩父の武甲山も二度ほど登場して嬉しくなった。 武甲山の岩肌二十三夜月 臘梅の空よ眩しき武甲山 武甲山(ぶこうざん)は、姿形が兜をふせたような山容からの名前であるが、石灰石でできているためセメントの材料となるので、日々削られてその姿形がおおきく変容しつつある。秩父にいたときは、毎日のように発破音を聞いてそだったし、どこにいてもその山をみあげることができた。(家からもよく見えた)しかし、帰郷するたびにその姿のあられもなく変形していくのは、見上げることが苦しいくらい哀れである。だからいまはほとんど正視することができないのだ。武甲山というとあのかつて見た雄々しい姿しか脳裏に思い浮かばない。こうして俳句に詠まれると武甲山の威容ある姿が立ち上がってきて、とても嬉しくなってしまう。この二句もわたしにはかつての武甲山である。 本句集の担当は、Pさん。 母とゐるただそれだけの三が日 春蝉の鳴いて全山制しけり 大夕立にはかに森の匂ひ立つ さびしき人よ噴水へお寄りなさい コーヒーの水に拘る文化の日 北窓を開きみちのく近くする 母とゐるただそれだけの三が日 序文によると、稲葉晶子さんのご両親は、ともに97歳で亡くなられたという。寝たきりや認知症で苦労したこともなく「子供孝行でした」とポツリと語った。 また「些細なことですが」と言いながら両親宛に毎日一枚の葉書を書き「それが親孝行の一つであったのかも知れません」とも。と序文にある。しかし、毎日欠かさずにご両親宛に葉書を出されたということ、これは誰にでもできることではない。メールや携帯や電話でなく、葉書というのがわたしはいいなあって思う。ご両親もさぞや楽しみにされていたことだろう。素敵な話しである。だからお正月の三が日をお母さまと一緒にいる、ということがとても意味をもってくるのだろう。時間と空間をともにしていることによって、いつもは葉書をとおしての言葉で繋がっていたものが、ここでは言葉も必要としない。ともにいることのうれしさ。そしてその時間の大切さ、愛おしさがこの俳句から伝わってくる。わたしも好きな一句である。 故郷の空の広さよ蕎麦の花 わたしはこの一句も好きである。著者の稲葉さんの故郷は長野県諏訪市、長野は蕎麦が美味しいところだ。蕎麦の花が季節になると咲き溢れていただろう。青空の下真っ白な花が一面低く咲いている風景がみえてくる。それが故郷とは忘れがたい風景だろう。故郷の空が広いと改めておもったのだ。ふたたび自分のことを言うのはなんとも思うが、秩父は盆地で四方を山が取り囲み迫ってくる。故にわたしは秩父の空を広いとおもったことがない。見晴るかすことができるように蕎麦の花が咲いている故郷だからこそ空が広いと思えるのだ。 俳句との出合いは、星利生先生の「通信俳句」に手ほどきを受けたことに始まります。その後結社「あすか」にて、主宰の熱心なご指導をいただいております。常に季節の移ろいの中に身を置き、大自然と向き合うことに喜びを感ずる日々を過しております。 「あとがき」を紹介した。 ほかに、 この街の音消してゆく春の雪 分校の古りしオルガン春岬 春昼や瀬音ふくらむ和紙の里 古希にして何に挑まむ春の泥 みちくさやもう一人来る春の川 鐘楼の木組の白さ夏隣 イリオモテヤマネコひそむ稲光 チンパンジーの咀嚼延々秋の雲 掌に土の香日の香春を待つ 地図に無き道書き加へ春隣 本句集の装幀は和兎さん。 色は紫系であるが、日本の伝統色の「モーブ」と名付けられた色、その解説によると「モーブ」はフランス名であり、英名は「マロー」で、「ゼニアオイ科」の花の色とある。 正座して清新の気を筆始 地道な日々の積み重ねは、何時しか個性の開花に繫がり、この先晶子さんがどのような独自の世界を見せてくれるのか期待したい。 と序文にある。 さびしき人よ噴水へお寄りなさい 集名となった一句で、Pさんもあげていたが、心惹かれる一句である。 やさしい呼びかけである。呼びかけているのは著者。そして呼びかけられているのは、「わたし?」って思ってしまう。ガンガン強気でやってるけど、わたしだって淋しいのよ、いやいや誰もさびしいか。しかし、その噴水には誰もいなくて、だからわたしは「お寄り」してしまう。この「お寄りなさい」っていう呼びかけもいい。近づくのでもなく、行くのでもなく、触れるのでもなく、そっと身を寄せてしばし時間を過ごすのである。「噴水」という立ち上がるものだから、このお寄りなさいというのがいいのかもしれない。 iPhoneにの「プライムビデオ」で、昨晩「どろろ」(手塚治虫原作)を見始めたらやめられなくなってしまった。 この「どろろ」は手塚治虫が連載中にも読んでいたし、テレビでモノクロで放映されたときも心躍らせて見ていたものだ。今回の「どろろ」は脚色されていて、手塚の原作とはすこし違っているのだが、これはこれでめっぽう面白い。 このブログでもずっと前に書いたと思うが、わたしは手塚治虫の漫画の何が好きかって、男女関係のアブノーマルさがとくに好きである。この「どろろ」然り、「三ツ目が通る」「ブラックジャック」「リボンの騎士」等々どれもへんな男女関係でゾクゾクする。手塚治虫という作家はある性的な屈折(倒錯・疎外感)があったのではないかと思うこともないわけではないが、それはどうでもいいことで、その作品におけるアブノーマルさが凄く好き。そのへんは石ノ森章太郎とは大きく違うなあって思う。で、今日そのこと(どろろが面白いって)をふらんす堂のスタッフに話したら、いま結構話題になっているんですって。まだ途中までしか配信されていないということも。 今日もこれから帰って見るんだ。 ああ、楽しみ。。。。 「百鬼丸」カッコいいのよ。
by fragie777
| 2019-02-14 19:08
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