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2月5日(火) 旧元日 東風解凍(はるかぜこおりをとく) 旧暦1月1日
「ふらんす堂通信159号」の人気のコラムは、アンリ・ルソーの「ジェニエ爺さんの馬車」のパクリの「fragieさんの馬車」である。 その馬車にスタッフ総勢が乗りこんでいるのだが、なんといっても素晴らしいのは、馬の前方にのって手綱をヒシと掴んでいる栗鼠の目である。 前方をグイと見つめている栗鼠は「わたしに任せて!」と言っているようで小さいながらパワーに溢れている。 誰よりもやる気にみちている。 「もうこの栗鼠さんに任せたら、ふらんす堂は安心ね」と言ってわたしたちは明るく笑いあったのである。 わたしたちはみなどこか呑気な眼差しをしている。 イラストを描いた君嶋真理子さん(羊)は、どうして栗鼠さんがいま一番いい働きをしてるって、わかったのだろうか。 今日の毎日新聞の「季語刻々」は、佐藤郁良句集『しなてるや』より。 受験子の母や帰帆を待つこころ 佐藤郁良 「受験子」が季語。「広辞苑」(第7版)には「受験」が春の季語として出ており、「受験生」もある。だが、「受験子」ばまだ登載されていない。今日の句、句集「しなてるや」から。作者は1968年生まれ。東京の高校教師である。高校生の俳句大会「俳句甲子園」に監督として生徒を引率、なんども優勝した話題の俳人だ。 新刊紹介をしたい。 四六版ペーパーバックスタイル。 144頁。 俳人・熊瀬川貴晶(くませがわ・たかあき)さんの評論集である。熊瀬川さんば、1972年宮崎県生まれ、宮崎市在住。俳誌「晨」「白茅」に所属している。本評論集は、「古志」「しゃりんばい」「白茅」に寄稿したものを一冊にまとめたものである。 松瀬青々論ーその現代的意義 飴山 實論ー『花浴び』試論 飯田龍太論ー『遅速』試論 文芸の哲学的基礎ー大峯顕『フィヒテ研究』を読む 大峯あきら論ーその哲学的系譜 の5つの小論からなる。どれも着想がおもしろく、目が開かれるような思いのした評論集だった。 中学校で教鞭をとりながら、一心不乱に俳句に向き合い情熱的に評論を書き続けていく著者の姿が彷彿としてくるような評論集である。 大雑把になってしまうが、それぞれハッとさせられた文章を紹介しながら、少し紹介したい。 「松瀬青々論ーその現代的意義」は、建築家ブルーノ・タウトの「桂離宮論」を引用しながらの、青々発見である。そこにおける「関係性」と「反オブジェクト」というキイワードを見いだし、青々の俳句を論じていくのだ。 人を入れてしづかな雪の芝居かな 昭和五・三 六句目では、「人」ではなく「雪」が主役である。作者である「私」はたしかに雪降る風景を見ていたのだろう。しかし「見る」という行為にはそれを裏づけている生身の感覚があるのである。俳句を詠むということは、何が見えたのか、という事実を伝えることではない。物を見ているときの身体性を、読者に感応させることにその本質があるのである。雪を「見る」ではなく、その劇場に足を踏み入れるような身体性を感じたのだ。主体と客体、主観と客観、物質と精神、そのように切り分けることを青々は拒絶している。われわれの生も、物質も、精神も、すべては接続され絡み合っていることを、青々は表現しようとしたのだ。そのとき堅固なオブジェクトは青々の俳句からは消えてゆくのである。 ドイツの建築家タウトの考え方と、松瀬青々の考え方には共通するものがあったのである。彼らは「関係性」を重視し、「オブジェクト」という形態を可能な限り排除した。物質と精神、主体と客体、というふうに「分けない思想」を実践したのである。否、むしろ「二つの間に立ってそれらをつなぐ橋になろうとしたのだ」と言った方が適切かも知れない。 「飴山 實論ー『花浴び』試論」においては、 『飴山實俳文集』(「写生─その実作とのかかわり─」)によれば、飴山は、興がるところ、あるいは興がるものの質感を確かにことばに移すことを、写生の仕上がりと考えていた。精緻だとか、共感といったものとは違う。興がることからはじまり、その質感をことばにすることで、写生は完了する、と考えていた。 と書き、「動き出す句」について語る。そしてさらに哲学者カントの「純粋理性批判」を飴山實の仕事に照らし併せていく。 ここに私は、カントの仕事と俳句における飴山の仕事が重なるように思う。明治以降、この国は、新しいことはいいことだという進化論的考え方を中心に動いてきた。しかし、飴山は、俳句には進化論はないといっている(『飴山實俳文集』「俳句復元考」)。いわゆる近現代俳句の終焉を宣言しているだ。飴山は、現代俳句界きっての現代俳句の批判者(御意見番)として、俳句にも認識の限界があるということ、いつまでも進化し続ける文芸ではないことを述べている。 俳句の不可能性を説くことは、それまでの知的流れを大きく変える仕事だった。飴山は、江戸の古俳句や旧暦の生活に学ぶところが大きいのだという(『飴山實俳文集』「写真と俳句とのあいだ」「言葉には心がある」)。新しいものばかりを追い求めるのではなく、私たちの生活の中に、昔のものや古いものを鏤(ちりば)めることで、今の生活が豊かになることを飴山は主張しているのだ。 俳句もまた、認識の限界の確認によって滅びるのではなく、むしろ新しい地平を拓くことになることを飴山は考えていた。永遠なる楽観主義に近い、それが理性的かつ道徳的に生きるという道である。「ふだんの生活」を大事にするという生き方である。 と語り、飴山實が『花浴び』で「ふだんの生活」をどのように詠んだかを句をあげなら例証していく。 「飯田龍太論ー『遅速』試論」においては、「仮面と墓」「もどき」「沈黙の無の開けのの瞬間」の三つの観点から論じているのだが、ここでは折口信夫おける「もどき」と龍太作品ついての考察を紹介したい。 折口信夫は、「もどき」の意味について次のように指摘している。 「もどくと言ふ動詞は、反対する・逆に出る・非難するなど言ふ用語例ばかりを持つものの様に考へられます。併し古くは、もつと広いものの様です。尠くとも、演芸史の上では、物まねする・説明する・代つて再説する・説き和げるなど言ふ義が、加はつて居る事が明らかです。 『人のもどき負ふ』など言ふのも、自分で、赧い顔をせずに居られぬ様な事を再演して、ひやかされる処に、非難の義が出発しましたので、やはり『ものまねする』の意だつたのでせう。」(『折口信夫全集』第二巻、中央公論社、四〇九頁) また、「もどき」は、古語辞典に「①出来のよくない模倣、まがいもの。②他人に対する非難あるいは批判。③さまざまな民族芸能において、主役を模倣し、また、からかいながら、主として可笑しく滑稽な役を演ずる登場人物。」とある。 龍太の句を挙げながら、「もどき」について考察し、著者はこう語る。 句集『遲速』における龍太俳句の「もどき」の構造は、いったい何を意味するのだろうかということ。言い換えれば、意味と無意味、真面目なものと不真面目なもの、温和なものと凶悪なもの、服従と不服従といった対立をはらむ一連の「もどき」の構造は、何を意味するのか。それは、飯田龍太が、自然や人間の基本的な構造の中に、常に二重構造が働いていることを読み取っていると指摘できないだろうか。 「文芸の哲学的基礎ー大峯顕『フィヒテ研究』を読む」は、哲学者大峯顕への論考である。フィヒテの哲学に言及しながら、大峯顕(あきら)の俳句を紹介し、大峯の哲学と俳句の関連をさぐっていこうとするもの。 「大峯あきら論ーその哲学的系譜」は力のはいった俳人論である。熊瀬川さんが高校時代から読んでいたという西田幾多郎の『善の研究』と大峯あきらを中心に語っていくもの。 私は再び『善の研究』を読み返していました。その中の純粋経験に関する記述を読みながら、これはもう大峯あきらの俳句の世界そのままだ、大峯あきらの俳句に対する考え方そのものだと思えるようになってきました。三十年越しに『善の研究』と真に出会えたような感覚になったのです。そのあたりのことを書きたいと思います。 という発見にはじまって、大峯あきら論は展開されていくのである。この論のテーマは「一であるということ」。つまりは、哲学と宗教と俳句の三位一体をもとめた大峯あきらを、西田哲学の「純粋概念」における「統一」という考え方に収斂させて語っていくのだ。 大峯あきらの句「虫の音の星空に浮く地球かな」の自解を引用しながら、 ここには哲学と宗教(浄土真宗)と俳句の一致するところを見ることができます。純粋経験を唯一の実在とし、純粋経験の統一によってすべてを説明したいとした西田の考え方が、大峯へと受け継がれ、哲学と宗教と俳句とが一致するところの真理をめざしていると言ってよいでしょう。「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということが言われますが、大峯は、哲学と宗教と俳句の三兎を追ってきた、そしていつか一つになるはずだと願ってきたわけです。真理へと、ゆっくりと時間をかけて詩の言葉が紡がれ、読者にゆっくりと真意が伝わってゆくのです。自分の力ではなく、自分より大きな何ものかがしてくれているように思います。 本書の担当は、文己(栗鼠!)さん。 「詩歌や言葉は著者にとって心の音楽。 句集は勿論哲学者や専門家の書などの引用がとても多く、勉強になりました。」と文己さん。本書の装丁は君嶋真理子さん。 著者の高い眼差しを感じさせられるといいなあ、とわたしは秘かに思った。 扉。 「永遠の星座」という題名にしたいと思います。 私の母校(宮崎大宮高校)の校歌にある言葉です。 「永遠」という言葉を題名に入れたいと思います。 個人的には、なかなか気に入っています。 と文己さんにメールを下さった。 題名を考えつつ、人生の主題を考えているようでした。 とも。 そして、 大峯先生からもらったものを語り続けることは、永遠なのだと思います。 大峯先生からもらった熱を少しでも伝えられたらと思います。 哲学用語がかなりの頁数をしめる本書は、なかなか硬質な一書であるが、しかし、その底には著者の熱いロマンチシズムが脈打っていて、読後感は清々しいばかりだ。 じつは、この本を読むに当たって、仕事時間ではとても読み切れないので、家に持ち帰ってお風呂時間(お風呂の読書)で読んだのである。 何日か連続して読んだので、本が水気を吸ってしまってすこしふやけてしまったのだった。 しかし、愛しい一冊となった。 紹介はまっこと荒削りで乱暴であるので、どうぞこの一書を読んでいただきたいと思います。
by fragie777
| 2019-02-05 18:58
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