カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
1月18日(金) 初観音 旧暦12月13日
ホーチミンの歴史博物館の中庭がみえる窓。 気持ちのよい博物館だった。 窓辺で少しまったりしていた。 インフルエンザが猛威をふるっているらしい。 いまんとこふらんす堂は大丈夫である。 昨年暮れにみんなして予防注射を受けにいったのが効を奏しているのだろうか。 しかし、油断はならない。 マスクだったら家にゾクゾクとある。(先日の引き出しの整理でおもちゃ箱から飛び出した100人の兵隊さんのように現れ出たのだった) マスクの心配は不要だ。 整頓された引き出しにスタンバイしている。 手洗いとうがいは心掛けよう。 本日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、片山由美子著『鷹羽狩行の百句』より。 日と月のごとく二輪の寒牡丹 鷹羽狩行 片山由美子さんの「鷹羽狩行の百句」(ふらんす堂)から。著者はこの句について、「寒牡丹でありながら。むしろ太陽と月がそこにならんでいるかのような錯覚を起こす」と解説。わらで囲われた2輪のボタンが、たしかに小宇宙のように見える。ちなみに、寒牡丹は冬向きの小さなボタン。江戸時代から栽培されている。 新刊紹介をしたい。 菊判変型ソフトカバー装グラシン掛け 92頁 著者の岩崎昇一(いわさき・しょういち)さんの新詩集である。岩崎さんは2011年にふらんす堂より詩集『藍染の家』を上梓されている詩人である。今回の詩集は、「覚書」によると「 二〇一七年の暮れから、今年の五月末頃までに集中的に書いたものから選んで、一冊にまとめた。」とある。全部で32篇の作品が収録されている。詩集名は「迂闊の人」。 このことについて、「覚書」は、こんな風に書かれている。 確率とデータに基づいて、セキュリティー社会はますます予防戦略に余念がない。しかし、安心していい。人は必ず失策する。迂闊なものよ。受け入れていくのだ。 ややシニカルに語られて面白い。この「迂闊」をいくぶん自嘲的にやんわりと受け入れていくこと、それも詩人の仕事であるのかもしれない。 「迂闊の人」と題した詩作品があるのだが、その作品ではなく、担当の文己さんも好きであるという「風船乗りの夢」を紹介したい。 風船乗りの夢 気の進まない顔してうつむいている 頼まれたことに嫌とは言えず さりとて特段好意をもって為すわけでもないから ここが肝要という勘所で転覆してしまう やたら《怠惰》に寄生する 気の細いこと疑り深いことと言ったら 一緒の墓にはいるのも嫌われてしまう蟾蜍だ この錯誤の街道の関所には清々しい拒絶も わが身をささげる無限の寛容もない 生きていく(快楽の捩れ)には 尺取虫の擬態の知恵から多くをまなぶ それでも小禽の醒めた頭脳に敵わない罠がある それでも上手く蛾に化身できる小枝がある それでもつぎの転生へと夢をつなぐ岸辺がある さすれば偶然の適材適所にぬるく感銘して 明日の幸運に身をゆだねつつ乾いた庭におもむいて 隣家に張りすぎた庭の植木の枝を剪定する 或いは 頼まれもしないが 近所の引越し荷物の挙げおろしに知恵を出してみる お礼になんて言われて宴席に招待なら申し分ない (生きて施しを受けるなら苦難も甘受する) 意地汚さにも羞恥の笠を斜めにさして ぼうっとお盆提灯のようにともっている それで夕方までバタフライで這って行けたなら 幸運という名の手料理を堪能する 夜は葉裏にかくれて韜晦する 明け方に酔いの醒めた自責の河岸断層で 夢のぷつんと撥ねたところが終着駅だ 襖の後ろに消え入る他ない 時節におもねる浮世のことばの綾に稼働する 風船乗りよ このまま気球に揺られて そろそろ見収めと柵をこえる処まで ゆらりふらりと空気の上澄みを漂って行こう そこで隠していた悪戯がばれたら そこで不治の感染症に蝕まれていたら そこで通報され世人にも家族にも処罰されたら たったひとりで泥土の壺になる あからさまに迂闊なことよ やや苦味のまざったユーモアをにじませながら、「迂闊さ」に終着するかもしれない「風船乗り」の夢が語られる。諦念とかすかな希望をないまぜにし皮肉な笑いをうかべて浮世の風にかろうじて乗りつつやり過ごしていくが、不条理の宿命はどうにもならないのだ。 もう一篇の詩を紹介したい。 死なない蛸 忘れられた水族館の濁った 水槽の底 飢えた蛸によって 繰り広げられた残酷劇上演後も 死なない蛸はそこに生きている 死なない蛸は永遠に生きている 飢餓の果てに自らの脚を齧り 胃袋から脳髄まで残る隈なく自らを 食いつくして消滅したはずの蛸は 今も生きて此方をじっと見ている 藻にかくれた岩陰に身を寄せて 生きている蛸は飼育者を観察する 食糧もあたえず世話を放棄した 飼育者はどんな奴かと観察する 豊かな海の底で壺に捕らえられ 仲間と遠くここまで運ばれて やすい見世物に晒され続けた かつて命を顧みもしなかった 老いた飼育者と無邪気な観察者の 秘密の結託の話を聴いている 二人は善意の他人であるが 蛸はみえない岩陰の舞台で 傍観する飼育者と観察者に向け 忘れられた飢餓の苦悩と自死の屈辱の 幻影の残酷劇を再演してみせる 復讐のためだろうか 自虐(諧謔)だろうか 記憶のためだろうか ただ自らの来し方の故に生きている 永遠に向かってそこに生きている 忘れられた水族館の濁った 水槽の底の岩陰に飢えて 死なない蛸は生きている 生きて蛸は此方を見ている こわい詩である。 自らを食い尽くしたあげくに死なない蛸となった水族館の蛸である。 悲惨の極みを味わい尽くして、永遠に生き続ける蛸となったのである。 「ただ自らの来し方の故に生きている」 「生きて蛸は此方を見ている」 蛸の目を感じてぞっとしてしまう。。 校正をしてくれたみおさんも担当の文己さんも好きな詩であるという。 わたしもこの詩は、好きというか、コワイ。 水族館に行って蛸をみたら、この詩がすぐに浮かんできそうである。 本詩集の装丁は和兎さん。 グラシンで巻かれているのですこしボケるが、棍棒をもった原始人のような人物がぼおーっといる。 表紙。 扉。 この人物ははたして迂闊なる者なのだろうか。 と思ってしまうが、人差し指がふれている顔は思索的で、身体は獣的である。 そのチグハグさ、相矛盾するもの。 不可思議なる人間が立っている。 もう一篇、詩を紹介したい。 著者の批評の目と筆力を感じさせる詩である。 絵画展にて 海岸に打ち上げられた 渇えた胃袋を弱酸性の洗剤で洗う ナイロンやプラスチックの固形が 内臓から命を浸蝕して物と化した カモメの死骸が語るヒトの日常の 営みの底なしの罪業 切開された 一瞬生命連鎖の苛酷さに戦慄する 《ことば》では太刀打ちできない 全身は有無を言わせぬ《現実》の 毀損と欲望の海にどっぷりつかり 片手では 愛と共苦を喚起して ペンを走らせる ヒトという種の グロテスクな双頭の肖像画が 幾つも並んで壁に架かる某下町の 美術館の暗がりで見つけた一枚の 色彩鮮やかな絵のまえに立ち止まる それは板前がいままさに調理する まな板のまわりで陶然とする 老若男女のつどう酒宴の場面… だれもの目鼻口の造作が果物や 野菜それに鳥や動物の肉片で 克明に描かれる 赤く熟れた リンゴの頬に控えているのは 伸びたゴーヤの鼻 巨峰の眼球が 見つめる先には豚の脚が千切られる 茄子の唇からは果実酒が零れおち 謙虚という大豆の籠におさまる パイナップルの倨傲の髭面の笑み ニンジンの葉先の飛び出す鼻孔が 嗅ぎ分けるのは生魚のマリネ 耳朶はニワトリの鶏冠で血の声を 紅色に聞き分けている 数日前に愛猫のヤマトの調子がよくない、とブログに書いたのであるが、ご安心してください。 大丈夫だった。 と、なると、わがヤマト、なかなかわたしを放っておいてはくれない。 ときどきやってきて叱ったり、乞うたり、いつも目を光らせている。
by fragie777
| 2019-01-18 19:45
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||