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12月7日(金) 大雪(たいせつ) 旧暦11月1日
モンパルナスの墓地にあるジャン・ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールのお墓。 ふたりは並んで眠っている。 至るところにあるキスマーク。 わたしもかたすみの目立たないところに唇を触れてきた。(あはっ) サルトルの『嘔吐』もボーヴォワールの『第二の性』も青春時代の必読書だった。 こちらはマルグリット・デュラス。 友人のMさんはデュラスが好きである。 たくさんのペンが鉢にさしてある。 この日は天気がよかったが、2時間以上かけて捜したそれぞれのお墓だった。 エリック・ロメールのお墓。 パリに来るまえに、ロメールの「緑の光線」を録画してあったのだが、見る時間がなかった。好きな映画である。 2010年に亡くなったので、「きっとまだ新しいお墓よ」って言いながら捜したのだった。 墓石がひしめき、歩いていると体中が冷えてくる。 友人の川島葵さんは、ロメールが大好きなので先日会ったときに、この写真をみせたところ、 「ロメールらしいね」と見入っていた。 マン・レイのお墓。 妻のジュリエットと共に。 左の白い墓石に刻まれた言葉は、 「Unconcerned, but not indifferent」(無頓着、しかし無関心ではなく) ほかにボードレール、セルジュ・ケンズブール、ジーン・セバーグなどなどたくさんの著名人が眠っている。あとで知ったのだが、『ラディカルな意志のスタイル』著者スーダン・ソンダクも埋葬されていた。2004年にニューヨークで71歳で死去、モンパルナスの共同墓地に埋葬されてということだ。訪ねてみたかった。 墓地観光(?)の若い人たちだろうか。 今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、三森鉄治句集『山稜』より。第7日目。 戸板いちまい秋の野に倒れをり 三森鉄治 秋の草原に戸板が一枚。唐突な情景ではある。ただ「倒れをり」という言葉の選択が、この戸板を「行き倒れ」の人であるかのように思わせる。人生半ばにしてこの世を去らねばならぬ自分の姿でもあったのではないか。句集『山稜』から。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんの「季語刻々」は、有住洋子句集『景色』より。 水鳥のいつもとほくにゐるかたち 有住洋子 「水鳥」は水に浮かぶ鳥、あるいは水辺で暮らす鳥の総称。カモ、カリ、ニオ、オシドリ、アヒル、ハクチョウ、カモメなど。句集『景色』(ふらんす堂)から引いた今日の句の水鳥はカモの類いだろうか。私は京都市のミコアイサと名付けた句会に参加している。ミコアイサはカモの仲間だが、いつも沖にいる。その距離感が好きだ。 新刊句集を紹介したい。 四六判フランス装 172頁 著者の山本あかね(やまもと・あかね)さんは、昭和10年(1935)神戸生まれ、神戸市在住。昭和61年(1986)波多野爽波に師事し俳句をはじめる。昭和63年(1988)「青」新人賞受賞、平成3年(1991)「青」終刊後、平成9年(1997)「百鳥」入会、平成10年(1998)「百鳥」同人。現代俳句協会、俳人協会会員。本句集は前句集『大手門』につぐ第3句集となる。 落椿子の掌に余りけり 前半にある一句。子どもの手のひらに載せられた落椿。まだその容をくずしておらずほぼ咲いていたときの状態のままなのだと思われる落椿だ。きっと赤い花びらのものだろう。うやうやしく子どもが手にのせて運んで(まさに運ぶという感じ)来た。「ほら、椿の花!」とか言って幾分自慢そうに見せにきたのかもしれない。「あらあ、きれいねえ」とか親は答えている。椿は子どもの手を覆い隠すように見事である。そしてまた椿に隠された子どもの手の白さと椿の花のあでやかさが見えてくる。そして子どもと落ち椿の典雅な風景でもある。落椿をのせた子どものてのひらは、その重さと冷たさと生々しい存在感をけっして忘れることがないだろう。落椿は子どもの手におのが身を刻印し、なおもしぶとく残像として生き続けるのである。落椿のひそかなる勝利か。。。 この句集の担当は文己さん。 白露を踏み来し靴を揃へけり 向日葵の頸のうしろは寂しかり 文豪の長き恋文つづれさせ 許すとは許さるること日脚伸ぶ 初暦まづわたくしの予定から 退院の朝の涼しき事を言ふ 落葉掻く頼りなき身を頼られて ドアノブに残る寒さのありにけり 水中花いつもしづかな母の部屋 楽譜みな若葉の風に捲れけり 鮎の骨泳ぐ形に残しけり 向日葵の頸のうしろは寂しかり 向日葵はよく擬人化に適う花だ。向日葵にはりっぱな顔があって、頸もある。顔はこれ以上ないほど晴れやかに思える。向日葵の顔にまず愁いは感じない。しかし、頸はどうだろう、大きな顔にくらべてかなり細くて心許ない。山本あかねさんはさらに頸のうしろを見たのだ。そして淋しいと。そう言われてみれば、向日葵をいま頭の中に立ち上げて観察してみると、うしろ側の頸はやや前に折れていそうである。向日葵ほど前とうしろがはっきりしている花はない。つまりは前を見せる花なのである。だからうしろの細き頸などは誰も見やしない。いやいや俳人は見る。しかし、頸はやはり淋しいのだと思う。この句「頸のうしろ」と詠んだことによって、頸のみならず頸のうしろがわの気配までも詠み込んでいる。つまりは頸に集約するところの後ろ側は淋しいのであり、それは全身のうしろ側に及ぶのだ。 金魚売立浪部屋に荷を下ろす この句は面白いとおもった。立浪部屋って、お相撲さんのあの「立浪部屋」のことでしょう。いまなにかと相撲界はかまびすしいですが。巡業で関西にやってきて、そこでの風景なのかしら。それはどうでもよくて、立浪部屋の前に金魚売りがやってきた。金魚売りはなんで立浪部屋に荷をおろしたんだろう。要請があったのかなあ、親方か、おかみさんか、それとも金魚売りがここだと商売になると思って、腰をすえたのか。ともかくもお相撲さんたちがたくさんいるところに金魚たちは彩りも華やかにぴちぴちと泳いでいる。どやどやと大きな体のお相撲さんたちがやってきて、「おお金魚か」なんて言いながら目を細めてみていく。金魚売りの目が光る。「どうだい、買っていかないかね」なんて言いながら、金魚をみやすいように位置を変えたりして見せる。おかみさんがやってきて、「あら、涼しそうじゃない」なんて言いながら、ちょっと買う気になっている。夏の良き風景である。なにしろ「立浪」部屋というのが、出来すぎているくらい面白い。金魚がおよぐ水に波が立つ。しかし、この句、わざとらしさがなくてすっきりとしている。いまおもったのだけど、金魚売りの親爺さんがめっぽう相撲好きなのかもしれないって。 ほかに、 焼藷に不覚の涙落としけり 裸木の膝つ小僧のやうな瘤 手が覚えゐる青蚊帳の畳み方 バスタブの一人に広し山眠る 梅白し人工呼吸器つけますか 梅白し人工呼吸器いりません 一本の蟬の木へ押す乳母車 まほろばの水に緋目高白目高 朝方にありし一雨藪柑子 息白く来て息白く別れけり さう言へば裕明さんのラガーシャツ 鳥雲にクラリネットを吹く男 梅雨傘を畳みて昼の寄席にあり 新涼の山を見し眼を子に戻し 鹿寄せの少年の瞳の中も鹿 大体俳句を始めたスタートが遅すぎた。実母、姑、その他ゆかりの人々を見送ってから、五十歳を過ぎて俳句にご縁を頂いた。それは致し方のない事、それ自体をどうのこうのと言い訳にする気はない。 でも私の人生、俳句が有ってよかったと本当につくづく思う。いろいろな方に御世話になった。 「あとがき」から。 本句集はフランス装である。 フランス装は久しぶりの造本だ。 やはり好きな造本である。 装幀は君嶋真理子さん。 「緋の目高」という集名であるので、やはり緋色がメインカラーとなった。 瀟洒で華やかな一冊となった。 なんて美しい装丁、上品でかろやか・・花を添えて頂きました。 と山本あかねさんは喜んでくださった。 明日は、関西の俳句のお仲間が中心となって、このご本の出版のお祝いの会が開かれるという。 みなさん、出来上がりを心待ちにされていたのだ。 句集を読んでいくと気づかされるのだが、ご主人の介護と死、ご本人の病気など大変なこともおありだったようである。そのようなことを乗り越えてのこの度の句集上梓となった。ひとしおのお気持ちと思う。 山本あかねさま、 第三句集のご出版おめでとうございます。 心よりお祝いを申しあげます。 普段着よりちよつといい服小鳥来る この「普段着よりちよつといい服」で俄然関心がたかまった。こういうことばに反応してしまうわたしって、本当に散文的な人間だと思う。でもさ、普段着よりちょっといい服っていったいどんなって思いません? わたしの場合だったらどうだろう。わたしの場合はおおかた仕事着が中心だから、仕事着というものが、普段着よりはちょっといい服なのかもしれないけれど、山本あかねさんの場合、普段着とはいつも家にいるときに着る服で、ちょっといい服というのは、改まったところではなくておしゃべりをするために友人たちに逢うとかお芝居をみるとかで出かけるときに着る服なのではないかしら。「たいそういい服」だったらなんだか緊張もしてしまいそうだけど、「ちよつといい服」だったら自分のおしゃれも楽しめそうで心も解放されて嬉しくなる、そんなときはきっと、やってきた小鳥にも見せたい気分に違いない。「どうよ、素敵でしょ」なんて。作者の心の弾みがみえてくる一句だ。
by fragie777
| 2018-12-07 20:36
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