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11月22日(木) 七五三 亥の子 旧暦10月15日
モンマルトルの街並み。 モーリス・ユトリロ(1883~1955)の街である。 ユトリロの絵画で馴染んだ目にはデジャヴュ感がきっとあると思う。 この日はどんよりとした曇り日だった。 わたしが休暇をもらってパリで浮き足だっている間に、いろいろな新聞でふらんす堂の刊行書籍が紹介されていた。 そのファイルが机の上に置かれていた。 今日はまず、共同通信発信の関悦史さんによる時評「俳句はいま」を紹介したい。 なかなか眼にとまることが多くはない記事であるので、全文を紹介する。 タイトルは「竹岡一郎『けものの苗』 民俗的な幻想に迫る」 竹岡一郎の第3句集「けものの苗」(ふらんす堂)は、前作「ふるさとのはつこひ」のSFマンガ風の過剰な表現がやや鎮まった。 〈狐火に守られて森怖くない〉〈スカートの中が嬉しい雨蛙〉の童話的な柔らかい感受性が、〈自傷あまたの四肢暮れなづむ学校プール〉〈蛸屋敷こそ松原のすつてんてん〉の暴力やナンセンスを呼び込む。虚構性の強さは変わらないが、戦争や破局がもたらす高揚よりも、自分の根となる幼少時の体験をとおした、民俗的な幻想に迫り始めているのである。 岡田一実の第3句集「記憶における沼とその他の在処(ありか)」(青磁社)は、凝視する目の強さが精妙な文体を要請し、冷たくもつややかに世界を構成する。〈蟻の上(へ)をのぼりて蟻や百合の中〉〈冷蔵庫牛の死肉と吾(あ)を隔つ〉などは作者の身の混濁をくぐった美である。 日下野由季の第2句集「馥郁」(ふらんす堂)は、豊かな情動をたたえつつ静まった、澄明な器としての身心が感じられる。ともに40代に入った岡田とその点で対照的。〈またひとつ星の見えくる湯ざめかな〉〈雨粒の大きく百合の蕊(しべ)匂ふ〉〈水澄めり受胎告知のしづけさに〉 永瀬十悟「三日月湖」(コールサック社)は、東日本大震災での被災を詠んだ「ふくしま」で角川俳句賞を受賞した作者の第2句集。 「ふくしま」は激甚な災害のさなかの作としては、ひどく淡々とした作りで物足りなく感じたが、今度の句集を見ると、この資質は、今後も長く続く放射能による故郷喪失を受けとめるにはプラスともなるようだ。 〈逢ひに行く全村避難の地の桜〉〈どこまでも更地どこまでもゆく神輿(みこし)〉〈志望動機あれこれ夕焼美術室〉など、決してたかぶらない朴訥な句は、息切れすることなく、終わらない破局の中の暮らしというグロテスクな事態に対峙し続ける。 「今井杏太郎然句集」(角川文化振興財団)が刊行された。〈老人が被つて麦稈帽子かな〉〈ねむたさのはじめあたたかりしかな〉の緩やかさと安楽さは、今回挙げた4句集の危機感や切実さと対照的。しかし、今井は、文体は似ながらも不穏は作風で若手俳人に影響力を持つ鴇田智哉の師である。現在の俳句シーンの隠微な震源の一つと言える。 ほかの記事については、おいおい紹介をしていきたい。 まずは新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル。 72頁 4句組 第1句集シリーズ 著者の山田やよひ(やまだ・やよい)さんは、1949年生まれ、千葉・習志野市在住。1999年に俳句をはじめ、俳誌「童子」を経て、2001年句歌詩帖「草蔵」創刊同人。本句集には2001年から2018年までの作品を収録。佐々木六戈代表が序文を寄せている。 その序文を抜粋して紹介したい。タイトルは、「序ーーopus, opera」。 山田やよひ、の第一句集は『調律opus 2001 ~ 2018』と名付けられた。次の一句を掌中の珠としてである。 調律師遠ざかる影涼しかり 遠ざかる調律師のこの風姿は正しい。調律─、すなわち、グランドピアノの場合で言えば、先ずは大屋根を開け、突上棒で支えながら、八十八の黒白の鍵盤と約二百三十本の弦との関係を整調し、整音し、そして、調律を終えた調律師はグランドピアノを残して去らねばならない。 山田やよひ、も去ったのであろう。2001 ~ 2018 の二百五十一編のopus を残してである。それにしても、opus とはおのれが俳句に対する、何と涼やかな向い方であろうか。作品番号こそ付されてはいないが、歌仙の脇句以下を断ち切った徒歩の一歩一歩を、opus として、章節も無く、一冊のopera(「作品」)としたのである。この一冊のopera は制作年に沿ってopus が並べられている。音楽のように直線の時間に沿って配置されたと言うべきか。しかし、そこには春夏秋冬の回帰する時間もあって、一年は十二ヵ月に、二十四節気に、七十二候に更に細分化されよう。 雨粒の中の木の芽の萌ゆるなり 小鳥降り来てメテオラの水たまり 茄子漬を鮮やかに人老いにけり うすものや夜空に眼慣れてきて はなびらをたくさん踏みし足の冷え 冬の川鳥を照らして降りてくる しつかりと玉留めするや春の虹 人の世の仕舞ひ方など野蒜摘む (略) 山田やよひ、の句集『調律opus2001 ~ 2018』は自然詠が多くを占める。山田やよひ、は植物や動物や鉱物を詠むことで 自身の幼・少・壮・老の人事の時間を大きな風景と交差させたのではないか。 雨粒の中の木の芽の萌ゆるなり 日の暮れを閉ぢ込めたるやチューリップ 本句集の第1句と第2句目の作品である。一句目のミクロコスモスのなかに営まれる万物生成の動き、二句目、気宇壮大な万象を小宇宙のなかに引き入こまんとする生命体の運動、と書くとなんともってまわった言い方であるが、小さな自然物のおおいなる躍動を描き得た俳句であると思った。とくに一句目は印象的で好きな一句である。こんな風に山田やよひさんの俳句は自然を詠んでいるのだが、静止する自然ではなくダイナミックに運動する自然が立ちが上がってくるのだ。 墓石を引つ張る蜘蛛の糸の先 この句なども面白い。墓石に蜘蛛の糸が張られているのでもなく、引っかかっているのでもなく、なんと動かぬ墓石を蜘蛛の糸が引っ張っているというのだ。つまり運動体としての蜘蛛の糸であり、読み手にはまるで蜘蛛がおのれの糸で一心不乱に墓石を引っ張っているようにも読める。「糸の先」という下五によって蜘蛛の糸の繊細さを読み手にだめ押しする。微細な動きをけっして逃さない作者の目だ。 本句集の担当はpさん。 山鳩の足踏み出せる余寒かな 冬揺るる物に力のありにけり 黒豆のふつくらと喜寿迎へけり 鶏のこゑに尖りて冬木の芽 喉の奥まで炎昼を泣きにけり クッションの当てどころよき月鈴子 桃色の紐で括るや春の畑 Pさんの選んだ句をこうして並べてみると、やはり躍動する万物が見えてくる。季語も能動的に働きかけるものとして、また生き物もそれに多いに応えるものとしての俳句である。命はぶつかりあいのなかで大きく動く。弾力ある世界だ。 山鳩の足踏み出せる余寒かな この一句、山鳩が一歩踏み出したことによって、森羅万象より寒さを呼び寄せたような思いを起こさせる。それが上滑りしたものにならないのは、山鳩の一歩の力強さだ。「踏み出せる」がなんとも確かである。 俳句に興味のなかった私が佐々木六戈代表に出会い、僅か一七文字で表現された世界の広がり、奥深さに心を動かされたのが俳句を学びたいと思った切っ掛けだった。 「草藏」に入会して約一八年、月に一度の自然詠句会や千葉市の花見川界隈の定点観察吟行句会に参加し、懸命な命の営みが為されていることに改めて気づかされた。 その季節ならではの草花を見るのも、鳥の鳴き声に耳を傾けるのも楽しみであった。 母と吟行をし、句会に参加できた事は忘れられない。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 ほかに、 水馬の水輪の中にをらぬなり 女郎蜘蛛冷たき糸を吐きにけり 寒禽や吾の齢と向き合うて 凩の子供のこゑをしてゐたる 家壊さるる満月の柱かな 台風の眼の近づきて独りかな 大瑠璃を見つけし眼話し出す 落ちてゐる羽に物の音澄みにけり そのひとの大きな声や古扇 鶏頭花追伸長く長くして 花びらの畑に鍬を入れにけり 本句集の装幀は和兎さん 色は落ち着いた中国の伝統色の「辛子色」。古代の長者の服飾に用いられ、荘重で厳粛な感じのする色とある。 山田やよひ、の風姿は次の詩をわたしに連想させる。西脇順三郎の「水仙」(『禮記』収録)を引いて、わが序文のエピローグとしよう。 都をはなれて ひとり歩く水仙の河原に きよう限りの光りをおしむ 野原の端にめぐり会う この野いばらの実につく 霜のめぐみの祈りよ せきれいの鳴くせせらぎの 寂光の女の心は 岩をぬらし流れては 水車をまわしくだけては 永遠に流れまた静かに もどつて秋の日春の日に まためぐり会う夏の香りに まためぐり会う新たな思いに 冬の衣に残る光りをおしむ 序文をふたたび紹介。 はなびらをたくさん踏みし足の冷え この一句、よくわかる一句である。桜の花びらは冷たい。その冷たい花びらが大地に散ったときさらに大地の冷たさを吸い込んで花びらの冷たさが増す。いや反対だ。春になって温められた大地も花びらの冷えでさらに冷たくなっていくのだ。つまり桜の花びらはとても冷たいのである。 その冷たさを運動する人間の身体の一部で表現した。 桜の花の季節の手応えいや足裏ごたえ?を見事に表現した一句であると思う。
by fragie777
| 2018-11-22 21:07
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