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11月8日(木) 山茶始開(つばきはじめてひらく) 旧暦10月1日
秋川渓谷の箒木。別名箒草。 蕪のポタージュが残っていたので、今日はそれを弁当用スープ入れにバシャッと入れて、(ほら、大雑把なyamaokaであるからまったくそんな感じ)蓋をしめて一応小さなビニール袋に入れて、リュックに突っ込んで(そうまさに突っ込んで)出社した。途中おにぎり屋さんによって、鮭のおにぎりと菜のおにぎりと唐揚げ一個に卵焼きひとかけらの詰め合わせを買ってお昼になるのを待った。 12時である。 さっそくポタージュをレンジで温めようととりだしたところ、あらまあ、スープが入ったカップがビニール袋のなかでポタージュまみれになっている。(あーあ、蓋の隙間からポタージュがこぼれてしまっている。)しかも、ビニール袋からリュックの中にもこぼれだしている。もう、まったく。でも悪いのは大雑把なわたし以外誰の所為でもない。急いでキッチンに行き、スープカップを洗い流したのであるが、カップの中に残ったポタージュはおおいに減ってしまったのだった。 慎重に繊細に対応すればこんなことにはならなかったはず。 雑で無頓着で無神経なyamaokaなればこそのこのありさま。 しかし、まっ、いいわ! で片付けてしまうのもyamaokaである。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、川島葵句集『ささら水』より。 短日の声が飛び出す電子辞書 川島 葵 「夜長」は秋。とすると、「短日」は秋の昼間? いやいや、昼間の短い「短日」は冬の季語だ。昨日から暦の上では冬なので、今日は「短日」である。1959年生まれの葵さんの句集「ささら水」から引いたが、電子辞書という今の時代の言葉をうまく詠みこんで、短日の楽しさを表現した。「山茶花を散らす西濃運輸かな」も葵さん。 電子辞書はわたしもよく使っている。仕事柄引かない日はない。何べんも引くと言った方がいいかもしれない。いまの電子辞書は膨大なデータが収納されていて、奥が深くて使いこなせないほど。葵さんの辞書にはきっと鳥の声などが入っているのヤツだろう。わたしのヤツも入っている。ためしに「小綬鶏」を引いて声マークのところを押してみた。まさに勢いよく声が飛び出して、「何ですか?」ってスタッフが驚いた。「コジュケイの声だよ」とわたしちょっぴり得意そうに言ってみた。 新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル 72頁 4句組 第1句集シリーズ 著者の福田鬼晶(ふくだ・きしょう)さんは、1950年山口県生まれ、東京都調布市在住。「糸瓜」「梅林」「ランブル」を経て、2009年「椋」(石田郷子代表)会員。2014年「第5回椋年間賞受賞」、2014年「第3回椋新作賞受賞」。俳人協会会員。石田郷子代表が、序文を寄せている。 『リュウグウノツカイ』は、福田鬼晶さんの初めての句集であり、自選で編まれている。「椋」の二つの月例句会にたゆみなく通い続けた収穫として、武蔵野の四季折々の風物に親しみ、遠慮なく語り合えるよき仲間を得て、数多くの作品を詠み、また他者の作品を味わい、評し合ってきた。この句集は、その集大成と言える。(略)どれも実在の景ではあるが、私にはどこか物語の中の遠い風景のように感じられる。作者自身が透明な大きなレンズになって、ほんの少し風景をゆがませているようなシュールな感覚にとらわれる。これはどういうわけなのだろう。しかし思えば、鬼晶さんの句はいつ出合ってもこんな感じだ。(略) 妹と問へばいとこやえごの花 五月川赤芽柏の花降つて ほーいほーいと繭玉の誰か呼ぶ 放浪は難しぺんぺん草鳴らし 箸古くなりぬ天の川しんしん ワタシヲ束ネナイデ秋草ノ言ヒ 遠嶺はわたくしのもの林檎の芽 さらさらと竹散つて月が赤いぞ 晩き恋なれば連翹などかざれ 豊かな語彙や知識を駆使して、切り取った物語の断片。次々に異界への扉が開いてゆくような眩暈。 『リュウグウノツカイ』という深海魚の名が、いかにもふさわしいではないか。 凍鶴を飼はば百年ともに寝て 鬼晶さんの物語は、華やかでもあり、怖ろしくもある。 物語とは、作者のための物語であると同時に、読者のための物語でもある。私たちは、そんな物語の世界へ誘ってくれる俳句の中でなら、誰にでもなれ、存分に遊ぶことができる。読者もその世界を共有することができるのが、すぐれた作品ということになる。 石田郷子代表の序文を抜粋して紹介した。「どの句も「とある物語」への入口なのだ」とも書き、福田鬼晶さんの俳句の背後にある物語性に言及している。だから福田鬼晶さんにとって、俳句は自身のための日記でなはく、ある意味読者というものを充分に意識したエンターテインメント性のあるものなんだと思う。その世界へ読者を呼び込んで共感させられるかどうか、それは一重に技量の問題となるが、福田鬼晶という俳人はその技量を備えている人であることが本句集を読んでいくとわかる。つまり、実のなかに「虚」それもホンノ少しの耳かき一杯ほどの「虚」を織り込ませるのが巧いのだと思う。その虚に彼の創造性は発揮されるのだ。それは充分に実を踏まえたものでないと上滑りしてしまうのだが、そこが巧みなのだ。だから「季語」もある時はロマンの香り付けがされる。「ペンペン草」は限りなく男を放浪の旅へと誘うものとなる。「夜濯の男よ眦の吹かれ」などなんとも心憎いではないか。この淋しげな男像に心をとらえられてしまったら、もうそれは福田鬼晶マジックの虜となってしまうのだ。 本句集の担当はpさん。 夏来る大樹の影の青みては デュフィの青ピカソの青や更衣 ぽつとりと氷菓落としたる絶望 ていねいに置き忘れられ秋扇 運河晩秋こなごなに日はねむり チーズフォンデュ冬雲を巻いてもみむ リュウグウンツカイ吹寄せ春一番 どんぶりを洗へば春の時雨かな 夏来る大樹の影の青みては 一句目におかれた俳句である。わたしもこの句は好きである。どちらかというと目の前のものをよく見て詠んだ一句にみえる。著者にとってはある意味実直なさりげない句かもしれない。「大樹の影の青みては」という措辞がそのまま「夏来る」の季題に収斂していく。言い切りのかたちにしないことによって、「夏来る」が大樹の影の青さによってもう一度実感されていく。青葉の季節でもあることを「影」で表現しているのも上手いと思った。きっぱりと季語を詠んだ句を第1句目におくのも構成力である。 ぶつかつて四葩の水をこぼしけり こちらはわたしの好きな句である。この俳人にとってはジャブのような素描かもしれないが、ものの質感が明確に伝わってくる一句だ。「四葩」は「紫陽花」の別名であるが、まさに紫陽花の一群れは人間がぶつかりやそうな高さにあり、またやわらかな花の毬は弾力がありそうである。雨の季節の花ゆえにおおかた雨をその毬に湛えていることが多い。ぶつかって紫陽花の水をこぼしたということだけの謂いであるが、「四葩」としたところで独自なものとなった。 おもさうに揺れてからつぽチューリップ これもどちらかというと、季題そのものを詠んだ一句だ。「チューリップ」ってまさにそんな感じ。「おもそうに揺れる」は誰でも感受できるけど、「からつぽ」は発見だと思った。花のなかにたくさんの空気を含んでいるチューリップ。肉厚の花弁を一本の蕊で支えているから外側からみるといかにもおもそうである。しかし、ひとたび中をのぞくと、からっぽなのである。この句によって「からっぽ」が定着した。 初学の頃は、父に手ほどきを受けた。彼は「卯波」の常連であり、真砂女との交友はあったものの、結社に属することはなかった。ただ、療養生活を送ったせいもあるのか、波郷に私淑していた。私の作句において、その影響は免れ得ない。亡き父にも感謝したい。 もとより俳句は「詩」であると思い、今でもその思いは変わらない。自分にしか描けないイメージを言葉に表わしてきたつもりだ。ただ、独りよがりにならず、類想に陥らず(自句類想も含めて)というのは、かなりのところ狭い道だ。しかし、今後もそこへ分け入り続けていく他はないだろう。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 ほかに、 軽暖や青年群をなし眩し 樺美智子忌十薬の白き闇 あひだより子供のみえて銭葵 夏帽の俯きて翳深かりし 広島忌物干す肘の眩しかり ぽつぽつと降りほつほつと稲の花 衣被するりと遠ききのふかな 団栗を放れば日暮はじまるか こんこんとありしんしんと冬の水 腰浅くかけて霞のなかにをり 春の夜の面売り面を被りたる 本句集の装幀は和兎さん。 本句集の著者にふさわしく華のあるブルーとなった。 「リュウグウノツカイ」が泳いでいそうな。。。 と和兎さんに言ったら、そうは意識しなかったというけれそ、そんな感じしません? リュウグウノツカイ吹寄せ春一番 まるで玉手箱の蓋を開けてしまったかのような、安らかな心持ちのこの句は、そんな物語の世界から、私たち読者を呼び戻してくれるためにあるのかもしれない。 序文より。 鶏頭をつかみてけふの雨つかむ 好きな一句である。この一句も著者の物語性のある俳句からは遠いところにあるかもしれない。物質感がダイレクトに伝わってくる。雨を充分に吸い込んだ鶏頭、多くの花びらはその質が雨を弾くように思えるが、鶏頭の密密とした花は雨をどんどん吸い込んでそれこそ花を絞ったらドボドボと水が溢れそうである。「けふの雨つかむ」がいい。まさに鶏頭と雨と我との抜き差しならぬ一期一会である。
by fragie777
| 2018-11-08 20:22
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