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11月6日(火) 旧暦9月29日
明日は立冬。 今年最後の秋の一日となった。 昨夜は友人たちと真夜中近くまで飲んでしまい、車を置いて夜中の道を歩いて帰った。 ワインの白と赤を大分飲んだので、今朝はすこしお酒が残っている感じ。 この感触はひさしぶりである。 ということで今朝は歩いて出社。 途中、柿が鈴なりに生っていた。 うれしいお知らせがひとつ。 対中いずみさんの第3句集『水瓶』 が、「第68回 滋賀県文学祭文芸出版賞」を受賞された。 昨夜、対中さんよりご連絡をいただいた。 「ふらんす堂通信159号」で特集をする予定である。 対中いずみさま。 ご受賞おめでとうございます! 心よりお祝いを申し上げます。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、 日下野由季句集『馥郁』より。 哀しみのかたちに猫を抱く夜長 日下野由季 どんなふうに抱くのだろうか。「かたち」をあれこれ想像すると楽しい。想像しているうちに哀しみが消えてしまうかも。30代の俳句を集めた句集「馥郁」(ふらんす堂)から引いた。作者は1977年生まれ。「短日の端つこにゐてもの思ふ」も由季さん。季語「短日」は秋ではなくて冬の昼間を指す。明日はその「短日」になる。 実はわたし、今朝猫を抱いてから出社した。まず白猫の日向子を抱き上げて「可愛いね、最高!」っていうとブルーの目がますます大きくなった。それからヤマト、こちらは17歳の老嬢となってから抱いて欲しいとせがむようになった。やわらかく抱き上げてそっと顔をよせると喉をぐるぐる言わせる。「宝物…」って言うとわたしをうっとりと見上げる。そして二本の前足でわたしの腕をぎゅっと掴む。そうやってわたしが猫を抱きしめ、それからわが身から離すというその行為そのものに哀しみがある。狂おしいほど愛おしくって哀しい。限りある生と限りある生との一瞬の触れ合い。だから、哀しい。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装グラシン巻き 198頁 私家版 著者の須藤桃代(すどう・ももよ)さんは、昭和12年(1937)東京都生まれ、神奈川県厚木市在住。平成20年(2008)に俳句をはじめられ、俳誌「火焔」「翡翠」を経て、現在は、「燕俳句会」会員。平成20年(2008)から平成29年(2017)年までの作品を収録した第1句集となる。代表の笹本千賀子氏が序文を寄せている。 たくさんの句について触れられているが、ここでは一句についての鑑賞を紹介したい。 ものの芽の天に合掌して緩み ものの芽の萌え出る形を「合掌」のことばで把握した作品は他にもあるかもしれませんが、「天に」とその方向性を詠んだ句は少ないのではないでしょうか。熱心なクリスチャンでいらしたお母様によって培われた高みへの志向が、ここに表れているように思います。もう一つ、下五に置かれた「緩み」の表現も印象的です。固かったものの芽が祈りの応えを得て、安らぐように解(ほぐ)れてゆくさまを、須藤さんは一句にしました。「ものの芽」は、須藤さんご自身の姿でもあるのかもしれません。この高みへの志向と、対象を見据えてゆく姿勢は、須藤さんの句の骨格を成しているように思うのです。 巻末の「あとがき」によると、須藤桃代さんは、お母さまの影響で俳句をつくられるようになったということである。つねづね桃代さんは、お母さまから「俳句の勉強をしてみないか」と勧められていたのであるが、お母さまと同じ趣味は持ちたくないと避けておられたということ。また序文によれば定年まで仕事に頑張ってこられ、その間母として子育てをし家事にもこなすといういまで言うキャリアウーマンの先駆けでいらしたようである。「与えられた道筋を精一杯生きて行くことにたいして疑問をもちませんでした。しかし、次第に打ち込める何かが足りないと思い始めていました。母の亡き後、母の句集に触れてその時時の母の思いが胸に沁みました。そして気がつけば母と同じ道を歩んでいました。」と「あとがき」にあり、俳句をつくられるようになったということである。 本句集の担当は、文己さん。 梅の花肺白むまで呼吸して 雛の間に雛の顔して座りけり むらさきは母の色なり紫蘭咲く 緑さすプリンとろりと輝きて 土筆生ふそこここに日を集めゐて 蜩に夫を預けて来たりけり 今落ちし木の実残して掃きにけり 捨ててまた拾ふ落ち葉の朱を拾ふ ふらここを天まで漕いでまだ少女 羽根つけとばかりに空の青さかな 草むらに虫籠空けて夏終る 叩かれてほめられ西瓜売られゆく 虫籠といふ空間を吊るしけり 葉をゆでて他は無色の十二月 ポストまで旅してきたる良夜かな 文己さんの選んだ一句だ。笹本千賀子代表も序文でとりあげている一句である。「「良夜」の季語が、一句全体を明るく照らしています。」とあり、まさにその通りである。月に照らされたポストの赤さ、その口に投函するのはこれからまだ先の未来の時間と空間を旅する手紙。その手紙へたくする気持ち。ポストまでの距離はそう遠くないけれど月の道はどこかはるかな思いへと誘ってくれる。そんな良夜を楽しみながら歩く。気持ちのいい句だ。しかし、こんな小さな旅は現代では失われつつある。手紙の投函よりもメールやFAXで事済む時代となりつつある。21世紀のどのあたりまでポストは機能しているだろうか。ふとそんなことまで思ってしまった。 草刈つて手足大きく眠りをり 草刈りをした夜はさぞ気持ちのよいことだろう。きれいさっぱりとなった庭や家まわり。手と足を忙しく動かしてせっせと草を刈る。集中していくともう自身の意識の超えて手と足が先に働いている。手と足にイニシアティブがあるかのように。だからその夜の手足は働いた栄光に満ちてことさら大きくのびのびと充足している。これもまた気持ちの良い句である。 今私の住む「森の里」は、被緑率六〇%以上をコンセプトにし三方を森に囲まれたニュータウンです。 「熊が出ました、ご注意ください」と広報がながれ、「はなれ猿が現れました」と市からメールが届きます。この短詩型文芸と言われる俳句に出会うことがなかったら、私はこの四季の移ろいやその不思議さに深く気を留めることも無く終ったのかもしれません。 短い詩型の深奥は到底私の手の届くところではないのですが、その難しさが又離れ難いところだと思います。 八十歳を過ぎた今、知力体力の衰えを自覚せざるを得なくなり、これを機に今までの作品を纏めてみることにしました。一句一句にその時その時の自分が息づいていて懐かしく思います。 これからも自然に学ぶことを大切に、心豊かに過ごしてゆきたいと念じています。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装幀は君嶋真理子さん。 「お送りした皆さまから装幀を褒めていただきました」と文己さんに須藤桃代さんはメールをくださったということである。 グラシン(薄紙)が巻かれているので、すこしボケてしまうが。。。 タイトルの文字は、妹さんの吉川節子さんによるもの。 表紙。 扉。 あれそれで事足るふたり居待月 ご自身の一句を自身で書かれて口絵とされた。 短日や句会の椅子をたたむ音 省略の効いた簡潔な表現が、却って読者の想像をふくらませます。音=聴覚に始まって、視覚・触覚へと広がってゆく感覚が、椅子をたたむ人の思いにまで及んでゆくのです。「短日や」の季語と切字の使い方も見事です。まさに俳句の骨法に適った作品と言えるでしょう。人間性と技量と。須藤さんの句の世界が更に深まってゆくことを願って止みません。 序文より。 初夏の女きびきび荷を開く これも気持ちのよい句である。なんの荷を開いているのだろう。大空が見えて来る。広い地上も見えてくる。そこにつぎつぎと開かれていく荷。女のしなやかにして活発な動きが爽快な夏を呼び込んでいるようだ。溌剌と夏がやってきている。 「足の手術で途中入院されて、本ができたときもご入院中でしたが先日無事ご退院されました。」と担当の文己さんより伺った。 ご快癒とさらなるご健吟をお祈り申しあげたい。 午後にお客さま。 新刊句集『無二』 を上梓されたばかりの俳人の佐怒賀正美氏が、わざわざ御礼にとご来社くださったのだ。 ご本を上梓された思いや、これからの俳句への思いなど語りながらも、氏は21世紀の我々の時代がどこに行こうとしているか、たいへん危惧されている。俳句表現が何を伝えられるか、あるいは若い世代になにを手渡していけるか、「10年先のことを考えるとコワイです」と笑いながらであるがおっしゃったのが印象的だった。 佐怒賀正美氏。 目下ふらんす堂では、現代俳句協会青年部による「新興俳句アンソロジー」の編集をお手伝いしている。神野紗希さんたち若手パワーによって編集刊行されて、もうすぐ一冊になる予定である。 高野ムツオ氏が序文をよせ、川名大氏、佐怒賀氏がアドバイザーで、読みごたえのある一冊となるはずだ。 「刊行がとても楽しみです」と氏はにっこりされたのだった。 星屑のほどの林檎の中に泊つ 佐怒賀正美 リンゴの中に泊まるという発想が好きだ。そういえば、かつて私も「えんどうの花に泊まって来たと言う」と詠んだのだった。「星屑のほどの林檎」という表現もおもしろい。リンゴを、そして人間を、宇宙的視点でみたら、確かに「星屑のほど」である。この視点、大事にしたい。俳句は小さなことにこだわる詩形であり、何気ない事や物をとらえて表現する。そのような小さなことへのこだわりの視点として、大きな宇宙的視点を持っていたい。今日の句、昨日に続いて句集『無二』から引いた。
by fragie777
| 2018-11-06 20:24
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