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11月2日(金) 楓蔦黄(もみじつたきばむ) 旧暦9月25日
名栗に咲いていた菊。 色がとても美しい。 昨夜ひさしぶりに外食をして歩いて家にかえるとき、おしゃべりに夢中になっていたら、左の足首をがくっと外側にひねってしまった。 一瞬かなりガクッといったので驚いたのだが、体勢を立て直すと別に痛くもない。 「あら、大丈夫だ」と言いながらさらにおしゃべりを続けながら歩きつづけた。 途中で人と別れてさらに15分くらい歩き続けて家に帰った。 お風呂に入って寝る段になったとき、かすかに足首が痛む。 (ええっ、やだな……) 明日になって膨れあがって骨が折れていたりしたら。。。。 わたしは11月の予定を思いうかべた。 歩けない、すべてがキャンセル。。。。 嗚呼! 一瞬目の前がまっくらに。 ともかくも薬が詰め込んである抽出をゴソゴソとやって経皮鎮痛消炎剤と書かれているヤツを取り出した。 足首に貼れるようになっている。 使用期限を見ると、なんと2012年とある。 (いいや、貼らないよりはマシ)とわたしはそれを貼って寝たのだった。 今朝起きるとやや鈍痛があるが歩ける。別に腫れてもいない。 さっそく出社する前に整形外科に行く。 診断の結果、骨は折れておらず軽い捻挫ということ。 歩いても大丈夫。ということで一安心。 ふたたび経皮鎮痛消炎剤をもらった。 使用期限は2020年。 まだまだたっぷり使えそうなので安心している。 新刊紹介をしたい。 四六判コデックス装。 218頁 俳人・竹岡一郎(たけおか・いちろう)さんの『蜂の巣マシンガン』『ふるさとのはつこひ』につぐ第3句集である。 コデックス装の造本である。 「けものの苗」という句集名であるが、「苗」とは通常植物について言うものである。けものとは四足動物のこと、しかし、タイトルは「けものの苗」句集名にしてすでに竹岡さんの鮮烈なイメージの飛躍がある。本句集にはたくさんのけものをはじめ生物が登場する。それらの生き物たちが消しゴム判子の作品となってたいへん可愛らしくあちこちの頁にいるのである。この本の表紙をかざっているのもそのひとつ。まるで「けものの苗」みたいでしょ。こんなふうにときどき姿をみせる生き物たちが、この句集をわたしたちに馴染みやすいものにしている。そして頁を開いていくのが楽しくなる。 本句集は15の見出しによって構成されていてそこにそれぞれ消しゴムハンコの生き物たちがいて、その見出しとの絶妙な関係を保っている。 どれも紹介したいところであるが、たとえば、 これは「ラブラブフランケンシュタイン」の項におかれたもの。 こちらは「無垢といふこと」の項。 可愛いでしょ。 どれも思わずにっこりとしてしまう。 河童らの宴みじかし梅雨の中 蛇と生れ永らく虹に仕へしか はんざきの跛行が刻む国境 前のほうにある三句をあげてみた。「河童」「蛇」「はんざき」の句である。本書を読みすすんでいくとこれらの生き物は再度登場する。「蛇」は何度も。竹岡さんはこれらの生き物から得たイメージを大きく飛躍させそれを一句に仕立てあげているのである。 大分前のこととなるが、この句稿を持ってだったとおもうが、竹岡一郎さんがふらんす堂にご来社くださった時のことである。その時ご一緒だった関悦史さんが、「竹岡さんは、自分がカッコイイと思っていることを俳句にしている」と言ったということであるが、あるいはそうなのかもしれない。この三句に限っていえば、河童も蛇もはんざきも著者によって与えられたあらたなるイメージによってカッコよく存在しはじめる。 本句集の担当はPさん。 雷を獲るものが独歩を轟かす きらきらと眼の並びをる夜店かな はんざきが食むもののふの噛み応へ 夕虹も腕もねぢられるためにあつた 水母は灯七歳までは神のうち 亀鳴くや保土ケ谷の灯の潤みやう 春待つや猫を交互に抱く男女 きらきらと眼の並びをる夜店かな 夜店には人間の夜の眼がひしめいている。あるいは人間のみならず、飛んで来た虫や連れている犬や夜店が開かれている境内の森の奥より栗鼠が見つめているかもしれない。時として梟も。しかし、本句集においてはそういう生き物たちだけではないのだ。夜を跋扈する魑魅魍魎が眼を光らせているのだ。夜店とは妖しいものである。さまざまな邪鬼を呼び込んでも不思議はない。あるいは地の底から這い出すものもいてそれらの眼が発光している。 鬱の妻除夜の寝息のやさしさよ 白き尾に夜をくるみけり狐の母 春の海より鋼鉄の洗礼者 少年少女蟒蛇(うわばみ)出ても塾へ行け 蟒蛇の自ら裂けて祀らるる 湾いちめん水母げらげら跳ねてゐる 木耳のはばたく音に囲まるる 僕の巴里祭ツナ缶開ける音だけして 水鉄砲蛸元帥の脳撃ち抜く 主権即ち人魚に在れば吹雪く国会 竹馬を基地のフェンスに立てかける 眼球の裏では軋む縄氷柱 虎、あざやかな風紋となつて私へ 道行の互(かたみ)軋む単衣かな 萩刈つて老女と少女だけの庭 萩が刈られたあとの庭にたつ老女と少女。萩の余韻が残る庭である。月明かりがしているのかもしれない。萩の花に老女と少女はよく似合う。老女と少女は極めて近い存在だとわたしは思う。少女は老女をはるかなる存在と思うかもしれないが、老女にとってその心を多くしめるのは過ぎ去った少女時代である。かつての我のように少女はいる。老女の心の無邪気さは少女の心の無邪気さと通い合う。萩の名残にみちた庭にたたずむ老女と少女。「萩」には老女と少女がよく似合う。 すき焼に戦後の夢が煮詰まりぬ この一句もよくわかる。「すき焼き」は戦後世代のやや贅沢な食べ物だった。牛肉をおいしく食べようと思うとすき焼きである。ステーキもしゃぶしゃぶもまだそれほど席巻していない戦後、すき焼きはうっとりする食べ物だった。そうして戦後世代の夢はすき焼きに煮詰まっている。ステーキやしゃぶしゃぶ世代の人間はそれに目もくれようとはしない。 詠うには不可能な体験がある。積み重ねてゆく思考が通用しない体験、互いに傷つけ削り合いながら積み上がった刃物の山のようなもの。 それらは稲妻の、更に断片だ。時系列に決して沿わない。飛ぶ弾丸の、更に尖端だけの触感でしかない。その体験を詠おうとすれば、征ったきり還らない姿勢をなぞるしかない。 「あとがきに代えて─咒(じゅ)とは何か」の冒頭の部分を紹介した。 つまりは、作品一つ一つが、「飛ぶ弾丸の、更に尖端だけの触感」を言い止めたということか。 本句集の装幀は和兎さん。 愛らしい消しゴム判子すべて、竹岡一郎さんのご息女である竹岡瞳さんの作である。 一つ一つに瞳さんのセンスが光っている。 造本はコデックス装。 一度試みたいと思っていた造本である。 開きがすばらしくよい。 そしてかがり糸のオレンジがみえるところもいい。 背丁をあえて見せる製本である。 ラベルを印刷してうしろまでまわす。 表紙の裏もオレンジ色に印刷。 見返しは鮮やかな青。 扉。 後ろ側は、見返しをオレンジ色に。 表紙は青で印刷。 青とオレンジの色合いが華やかで美しい。 なつかしいものは、いつだって惨たらしい。産土も人間も積み上がった惨たらしさを抱えて、だからこそ、その惨たらしさを焼き尽くし、 なつかしさを遠く離れ、生き変わり死に変わりを超えて、立ちたい。 「あとがき」の最後におかれた一文である。 夏瘦せて未来しか見ぬ老女かな これって、わたしの遠からぬ未来像である。一応ダイエットに成功していい歳をして未来にまだまだ希望をたくして、しかしすっかり老女となりはてているという。いやはやなんともである。なんとも淋しい風景だ。あまり痩せすぎないようにしなくっちゃね。 これ一番すきな判子の挿画である。 今日はお客さまがお見えになった。 千葉県佐倉市というところからである。 植原陽一さん。 はじめての句稿をもって、奥さまとご一緒にいらして下さった。 植原さんは、俳誌「いには」(村上喜代子主宰)に所属しておられる。 俳句をはじめられてすでに10年が経った。 「村上喜代子先生に句集をとすすめていただいて、出そうと思いました」とのこと。 句集名は「青あらし」 青色の句集にしたいということで、いろいろある青の句集をご覧になって、『田中裕明全句集』の青が気に入ったということであの「青」に近いものをということになった。 植原陽一さん。 奥さまはご遠慮されてお写真には入らなかった。 今日は朝早く佐倉市を立って、ふらんす堂にいらっしゃる前に深大寺に立ち寄ってこられたということ。 「いいところですね」と植原さんご夫妻。 「深大寺蕎麦を召し上がりました?」と伺えば、「ええ、食べました」と。 「いかがでした?美味しかったですか」「うーん、まあまあでした」 「深大寺だからといってお蕎麦やさんがすべて美味しいわけじゃないんです。美味しいところを今度お教えしますね」とわたしは申し上げたのだった。
by fragie777
| 2018-11-02 21:01
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