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10月31日(水) ハロウィン 旧暦9月23日
![]() 吾亦紅。 しみじみと心に入ってくる花である。 午前中は銀行まわりをした。 今日はハロウィンということであっちこっちに南瓜がころがっていた。 先週の日曜日の仙川も仮装した親子連れで賑わっていた。 イベントもやっていたらしく、もはや仙川も来たるべき新しい時代へ向けてさらにさらに変貌していくらしい。 かつて住み始めたころの畑の多いのんびりとした町はどこかに行ってしまっているようだ。 「ふらんす堂通信158」が出来上がってくる。 157号からの新連載の「こわい俳句」は、今回は小川軽舟さん。 だれのどの句を選びどう語られたか、 楽しみにしていただきたい。 「コラム」は、「今100万円もらったらどうする?」 ここだけ格調がダウンするのだけれど、君嶋真理子さんの生き生きとしたイラストで、人気のある頁だ。 わたしたちが、いったい何にしあわせを感じるか、 わかられちゃうかもね。。。 新刊紹介をしたい。 A5判変型ソフトカバー装 134頁 著者の有住洋子(ありずみ・ようこ)さんは、1948年東京生まれ、13年の滞米生活後、1996年より黒田杏子主宰指導の下で俳句をはじめる。その後、橋本榮治代表中心の句会に参加。現在「枻」同人、個人誌「白い部屋」発行。俳人協会会員。本句集は、第1句集『残像』 に次ぐ第2句集である。『残像』が2009年の発行なので、すでに10年ちかい時間が流れた。 句集名は「景色」。 「あとがき」に 景色は、私にいろいろなものを見せてくれた。 とあるように、著者の目や心に映ったものを一句詠みこんだ、その結実としての「景色」である。 「いろいろなもの」が絵巻物のようにこの一冊に展開されていく。 そこにはたっぷりとした時間の流れがあり、また著者のこころの深い奥行きを思わせるものだ。 書かれた俳句の背後にある豊かな時空が見え隠れするような句集である。 各章の見出しも、それもまた景色の一環である。 水平、死者、真下、回廊、錆、端、貌、一面、こう書いてきて、それはたまたまなのかもしれないが、「貌」以外すべてイの音がふくまれていることに気づいた。「景色」もまた然り) これは著者が計らったことではないと思うが、面白い。 白息にずんと切り倒される樫 死してなほ顎髭のびる寒旱 短日の灰の中より棺釘 最初の頁の2句目から4句目の句である。やや不穏な景色であり、死のイメージが蔓延している。 句集のはじめから全体をとおして「死」の気配がある句集だ。その死は具体的な誰それの死というのではなく、もっと普遍化された死の景色、生の裏側にはりついている観念としての死を俳句の定型のなかで組み立て直して現実の風景として見せてくれるもの、と言ったらいいのか。死ということが言い過ぎであれば無常のはりついた生というか。 蹼のうごき止まざる涅槃西風 紙を漉くおぼろを積み重ねてゆく ほほゑみの残されてゐる桜餅 ぽつかりと空見えてゐる蓮の花 仏像の足先反つてゐる野分 人逝きしことを知らせず大花野 椅子を足す十一月の死者たちへ 秋雲の一番端の額縁屋 この句は好きな一句である。額縁屋という存在がいい。いったい東京に何軒の額縁屋とよばれる店があるのだろうか、思うに21世紀のいま、たぶん20世紀よりはるかに少なくなっているような気がする。かつて渋谷の宮増坂に額縁屋さんがあって、額装をしてもらったことがあるが、今も営業をしているのだろうか。額縁を選ぶのは楽しい、額縁を選ぶということはすでにそこに入れたい作品があるわけで、その絵なりなどとその額縁が合うかどうか、額縁によって絵の雰囲気が違ってくる。この句、額縁屋の所在が秋雲の一番端にあるという。ちょっとメルヘンの世界のような青空にうかんだ白い秋雲がみえてきて、その端っこにある額縁屋さん、そうであるはずなのに、あらら不思議なことに額縁が雲のうかぶきれいな秋空をその額のなかに誘い込んでしまう、そんな景色がみえてもくる。秋雲であるから空は澄み、きっぱりとした風景だ、きっと。 秋燈の真下を拭いてをられたる 街道の途中凍つてゆく途中 雪の果死者祀る部屋空いてゐて 花冷の戸が回廊に通じをり 白昼といひ白日といひ日からかさ ギヤマンを取り出す影を残し置き 捕虫網だつたのだらうあの白は 水うすくひろがつてゐる裸足かな 歌女鳴いて夢をつぎつぎ見る夜なり 「歌女鳴く」は「かじょなく」と読み、「蚯蚓鳴く」の傍題である、とはじめて知った。「蚯蚓鳴く」は秋の季語。「亀鳴く」は春の季語。どちらも実際には鳴かないが、俳句の世界では鳴くのだ、それが面白い。「蚯蚓」のことを「歌女」と言うのもいいではないか。夢もまた華やかな色彩をまとってくるようで。わたしにとっては、「歌女鳴く」で詠まれたはじめての一句である。手元にある歳時記では一句も例句がなかった。 小食のひと日さざんくわ散りはじめ 恋猫のをとこの膝にもどり来る 雨雲のあつまつてくる木槿かな 杣人も狩人もゐる踊の輪 古書店の狭霧の中にゐるごとし 家あらば家のまはりの霜柱 剝製の禽鳥類も冬の底 その時その場に見たものは、悠久の流れの中の、移りゆく景色であれば、同じものは二度となく、またすべてが目で見たものとは限らなかった。 ふたたび「あとがき」より。 本句集は著者の有住洋子さんのたつてのご希望によって、Sam Francis (サム・フランシス)の作品を装画として使用した。 有住さんがお持ちの画集を著作権協会の了承を得てしようしたものである。 装幀は和兎さん。 こうして使用してみてつくづくと思ったのだが、たいへん良い一冊となったということ。 大人の本、という趣がある。 作品が呼び起こす力というものをわたしは思った。 「景色」というややニュートラルな言葉が、存在感あるものとして立ち上がってくるのだ。 この作品を装画にしたい、という有住さんの大人の美意識を感じたのだった。 一見、紺色が強調されているのだが、よく見るとそこはかとない紅色や黄色などがある。 当初はグラシン巻きでいく予定だったが、有住さんとご相談してグラシン巻きをやめた。 装画の持っている迫力を失いたくなかったのだ。 こういうのをあれこれ考えるのが本づくりの醍醐味だ。 帯は透明なものにして、装画をできるだけ見せるようにした。 表紙にもあしらう。 見返しは表紙と同じにして、できるだけシンプルに。 扉にも少し。 すべて和兎さんの按配である。 本文のレイアウトは天地そろえにせず、なりゆきにして上の方へ。 堂々たる一冊となった。 句集にサム・フランシスの絵を用いるのはワクワクした。 ハードカバーにせずにソフトカバーにしたのも、正寸ではなく変型にしたのも良かったと思っている。 こういう一冊になかなか出合えない。 そんな本づくりをさせてもらった嬉しい句集『景色』である。 この本は、俳句への感謝を形にしたものだが、この世で出会ったすべての方々への感謝の本でもある。ありがとうございました。 と有住洋子さん。 漆椀の冥さ藪椿の冥さ 有住洋子という人の美意識を感じさせる一句だ。『景色』を通して一貫しているのは、ときどき顔を出す著者の美意識である。この句、漆椀によく馴染んでいる人間の目を感じさせる。その漆器がもつ冥さに椿の冥さをおいた。漆塗りの美しい椀と椿。二つの間には飛躍があるようで、しかしよく似合っている。「暗さ」ではなく「冥さ」としたことによって、ふたつものの背後にある時間の流れ、死の暗闇へと導かれていくような「冥さ」なのである。美はつねにそこに死(タナトス)を宿す、と言ったのは誰だっただろうか。そんな言葉を呼び起こす一句だ。 この句集にはいろいろな景色があるのではなく、景色がみせてくれたいろいろなものがあるのである。
by fragie777
| 2018-10-31 20:36
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