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10月30日(火) 旧暦9月22日
萩がまだ咲いていた。 「まだきれいね」と言うと、 「名残の萩って言うのよ」と友人が教えてくれた。 「名残の萩ね。ステキな呼び方」とわたしはうっとりする。 しかし、昨年も教えてもらって感激したような気がする。 すぐに忘れてしまうyamaokaである。 新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル 72頁 第1句集シリーズ 著者の平沼佐代子(ひらぬま・さよこ)さんは、1948年東京生まれ、2000年に井の頭公園の句会ではじめて句会に参加。福神規子に師事、橋川忠夫、橋川かず子に師事。2001年「惜春」入会、高田風人子に師事。2015年「惜春」終刊後、「雛」入会。高田風人子、福神規子に師事。2016年「若葉」入会、鈴木貞雄に師事。俳人協会会員。本句集には高田風人子氏が序句を、福神規子氏が序分を寄せている。 小春日や人生の夢大切に 高田風人子 序文を寄せられた福神規子代表は、30年以上前からのお知り合いだという。 車前草の花やうさぎを飼ひしこと 旧とつくものみないとし露の秋 ほうせん花なぜか文房具屋が好き 佐代子さんの俳句に注目するようになったのは右の作品の頃からだ。 車前草の地味な花からうさぎを飼った少女時代への想起の見事さ、そこにはやせっぽっちであったであろうシャイな作者が、童話の世界のように思い浮かぶ。うさぎを愛しく抱いた時のほのぬくい感触も臨場感をもって伝わって来る。 二句目の「旧とつくものみないとし」の措辞を受けて「露の秋」と言い止めた作品の上質な詩心にも注目した。一句は読者を忽ち銘々が大切にしている懐かしい過去へと誘い、古き良きものを大切に思う作者の行き方に繋がってゆく。「きゅう」という音の響きも切なく不即不離である。 同様に三句目も文房具類の好きな作者を知れば合点が行く。昭和二十年代生まれの我々が子供の頃は、ほうせん花は身近な花だった。花を摘んでは爪を染め、種が出来ると弾いて遊んだ。その少女時代のほうせん花の記憶から、今様ではない一軒の小さな文房具屋さんが浮かぶ。 著者のかたわらにあって、しずかに著者の俳句を見つめ続けてきた福神規子氏の心の籠もった序文である。 本句集は静謐な著者のたたずまいが句集を支配していて、落ち着いて読める句集である。 本句集の担当はpさん。 あたたかや園児の列のすぐくずれ 旧とつくものみないとし露の秋 桑の実や子供のやうな喧嘩して 土筆摘む鉄腕アトム唄ひつつ 空蝉の闇を見て来し眼かと 冬に入る朝の薬のひとつ増え 空蝉の闇を見て来し眼かと この句にわたしも惹かれた。空蝉の眼は不思議だってその眼をみるたびに思う。身体はまさに虚ろをつつみこんでいるが、眼には光りが宿っていて、単なる虚ろではないなにかを感じてしまう。いったい何をみつめているのか。著者はそれを闇を見て来し、と捉えた。闇がそこにあるのではなくて、闇を見て来し眼なのである。それはぬめりとしてやはり尋常でないなにかだ。それがきっと著者には見えたのである。 今生をただ唖蟬でありにけり 福神さんも序文であげておられたが、わたしはこの句に心がとまった。唖蝉に思いを馳せた一句であるが、心がしめつけられるような思いがするのはどうしてだろう。それは唖蝉の有り様を人間の生とダブらせて読んでしまうからなのか。蝉は鳴くものであるという大らかな蝉への思いを否定されそういえば唖蝉として生まれてくる蝉もいるんだということにこの句ではっとさせられるのだ。何ということか。しかし、唖蝉は自身の生を引き受けてただ唖蝉としてその生涯をまっとうする。一匹の鳴かない蝉に眼をとめこのように詠む、その作者の思いの深さに触れる一句である。 句集を編む過程で自分の句を改めて見直し、まだまだ道半ばという思いばかりが強くなっております。これからも努力を怠らず歩む所存です。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 ほかに、 燭灯す頃や雛のふと淋し 土筆摘む人には土筆見えてをり 手品師のやうな帽子よ木の実降る 油点草人の心の見えぬ時 虫売りのいつもの隅に荷を解きて 山茱萸黄震災語り伝へたく かたかごの花にかたかごだけの風 草の実をわざとはじいてみて淋し 少しだけ人嫌ひかもたうがらし 亀鳴くや陀羅尼助とは秘薬めき 本句集の装幀は和兎さん。 落ち着いた平沼佐代子さんにふさわしいエレガントな色である。 万緑や遥かなるもの畏れゐて 今生をただ唖蟬でありにけり 右の作品のように作者の句境は、人生観の深まりに添うように、さらに深遠な世界へと進化している。作者は俳句を初めて一番変わったことは、人間を含む自然、中でもご自身を新しい目で見ることが出来るようになったことだと仰る。そして「理科系人間の負け惜しみだが、俳句はその良し悪しを数値化・定量化出来ないことだ」とも……。それゆえ俳句は永遠に悟ることが出来ず、人は希求して止まないのだろう。 ふたたび、福神規子氏の序文より。 ストーブのほのほ見ながら告げにけり 映画のワンシーンを見ているような一句だ。「ストーブ」が季語。いったい何を告げているのだろう。少なくとも今晩のおかずのことではないと思う。「ほのほ」を見つめる眼が、(その眼の持ち主は多分女性、それも妙齢の美しい女性と思いたい、)あまりにも一途で、すこし濡れていてそこに炎が映っている、そんな眼だ。告げることもきっと一大事のこと。告げられた相手の心臓はもうひっくりかえるほど激しく鼓動している。ほんの一瞬のシーンを見事に一句に仕立てた句だ。しかし、何を告げたのだろうか。。すごく気にはなる。 今日はおひとりお客さまがお見えになった。 すこし前にお会いしたときに、「そろそろ句集を」とおっしゃって下さってわたしは心待ちにしていたのである。 荒井八雪(あらい・やゆき)さん。 持参された句稿は、第3句集のためのもの。 八雪さんは、いまは「草蔵」(佐々木六戈代表)に所属しておられる。 俳句歴はながく、もうすでに30年以上、「童子」の辻桃子氏のところではじめられた。 「俳句をはじめた頃はもう楽しくて楽しくて……」と眼を輝かせられた。 だが、お話をうかがっていくと、今もどうやらとても楽しそうである。 六戈代表は、お仲間たちにかなり高度の宿題を出すらしい。 八雪さんは、手帳をとりだして見せてくださった。 「ほらね、たとえば、何もいわない句をつくること、とか、あるいは、動作の途中の句をつくれ、とか、それはもうたいへんなのよ」って。 しかし嬉しそうである。 荒井八雪さん。 三宅一生のプリーツプリーツを上手に着こなしておられる。 今回の句集のタイトルの候補がふたつ。 うかがえばどちらもとても良い集名である。 ここに書きたいのだが、ちょっと内緒にしておきたい。 ふたつともあまりにもステキな集名なので(ひとつはわたしがはじめて知った言葉)決まるまでは発表できない。 「六戈さんに相談して決めます」と言ってお帰りになられたのだった。 (どっちになるのかなあ、どっちもいいけど、わたしはあえていえば◯◯の方かな) ちょっとお知らせです。 明日のNHKの「歴史秘話ヒストリア」の「新発見!晶子と白蓮 情熱の女たち」に、「短歌日記」を連載してくださっている松平盟子氏が出演されます。 ご本人曰く、「あくまでもちょっぴり出演ですが」と。 明日の夜の10時25分からです。
by fragie777
| 2018-10-30 19:50
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